作家・プロフェッショナル論 |  ZEPHYR

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ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

今日はホテル勤務は休みですが、山のような仕事を片づけないといけないzephyrです。

某市民文学賞の原稿読みに、今日という一日は費やされます。
十数稿の作品を、全部読了しないといけません。今日一日でできるかどうか。
アマチュアの方の原稿というのは、読みやすいものもあれば、非常に読みづらいものもあります。
今時ですからパソコンやワープロで作成され、活字印刷されていれば、有り難いのですが、手書きで癖のある字体だったりすると、それだけでも解読(?)に時間がかかったりします。

ただそんなハード的な側面でだけではなく、読みやすい原稿というのは話自体が面白いものです。
つまり作品の出来が良ければ、すいすい読めてしまう。夢中になって読んでしまう。
そういうものです。

この違いはどこから来るのか?

これは作者が、読者の目を意識しているかどうかという部分が非常に大きいのです。
あるシーンを描きながら、その人物たちの動きや会話を目にしている読者がどのような感じるかということを考えられるようになれば、その人はプロの入り口に立っているとも言えます。
アマチュアの方は、自分の書きたいことをただ書いてしまいます。
それがたまたま面白いということはあり得ます。
しかし、恒常的に読者の目を作品世界に引きつけるためには、そのような「たまたま」に頼っていたのではいけません。

読者がどのように感じるかということについても、主に二通りがあります。
まずそのワンシーンに限定されたもの。
たとえば「馬鹿野郎」と主人公の男が恋人に向かって言う。
その言葉を発することで、読者はこの主人公をどのように考えるか、感じるか。乱暴なやつ、野卑な男、といった印象を抱くか、それともその台詞に共感して、「そうだ、そうだよな。お前がそういいたくなるのは分かるよ」と思うのか。
これはケースバイケースで、そのときの主人公をどう見せたいか、狙い通りの効果を求めたものでなければなりません。
二つめは、物語全体の構造の中での、今書いているワンシーンの位置づけ、意味づけです。
発端があり、様々な人物が登場してきて、いろいろな展開がある中で、さあ、今この瞬間に読者がこのシーンを見て、どう感じるだろうか……。思いがけない展開と思うだろうか。またこのシーンから推測して、物語の終局はどうなると想像するだろうか。
それを理解した上で、そう思っている読者を、私(作者)はどこへ連れて行こうとしているのか、という大局的な視点が必要なのです。

分かりやすく言うと、前者は役者的な視点です。悲しいシーンで涙を流して見せて、観客に同じ生理現象を誘う役者の視点。
後者は監督の視点です。今涙を流す役者が作り出すシーンの意味を、全体の構図の中で考えているわけです。
そして、どちらもが見る者の心理を見抜けなければ成り立ちません。

作家は演技者であると同時に、総監督でもなければいけません。

物語を創作すること自体は、誰にでもできます。
しかし、面白い物語、見るものの鑑賞に堪えうる物語を創作することは、誰にでもできるわけではありません。
独りよがりな創作では、読者の共感を得ることは難しいのです。
その意味でも、作家は人間として普通であることが望ましいと思えます(むろん個体差はありますし、特例的な作家もいますが)。
少なくとも創作しているときには、人の心が分かる人間でなければ、小説のプロにはなれないと思われます。

人の心が分かるかどうか。
そして創作時に、複眼的に自分の書いているものを見ることができるか(読者の視点で)。
こういった部分が、プロとアマチュアのもっとも大きな違いだろうと、私は思っています。