母親がなぜわが子を…… |  ZEPHYR

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ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

今日は村の氏神様の秋祭りで、村の方々とお祭りをしてきたzephyrです。

お祭りは、本当にささやかなものでした。なにせ、村の戸数は11軒。お祭りに寄り集まったのも5人(私は地区班長なので、顔を出さないといけません)。神主さんに祝詞をあげてもらい、後は集まった人間で膳を囲むという程度のものですが、実にまったりとしています。
神社そのものはかなり古い歴史を持つ山村神社というのですが、祭神は大山祗命(オオヤマツミノミコト)。
ひっそりとした山里(トトロでも出てきそうな雰囲気)の、ほんとうに小さな小さなお祭りでした。

その神社のすぐ近くに、我が家の田んぼがあり、その一部をお貸ししている友人のKさんが来て農作業をしていました。彼女は若いのに「畑がしたい」という今時ご奇特な女性で、その意気や良し、ということで、うちの放置している土地を無料でお貸ししているのですが、最近では結構作物も収穫できるようになってきています。
うちの周辺では、無責任な人が放逐してしまったイノブタが繁殖し、農作物が被害に遭っています。今では水田をする人もいなくなり、畑も柵をしなければ、食い荒らされてしまいます。
それも中途半端な柵ではダメで、破られたり、飛び越えられたり、はたまた地中を掘って侵入されたりします。
Kさんはきちんと畑の周囲に強固な柵を巡らし(これも多方面の協力を仰ぎながら自作されました)、その中で農作物の栽培を始められました。
その甲斐あって、今では結構立派なお野菜が上がってくるようになっていました。

しかし、ここのところ姿を見ないなと思っていたら、お身内で不幸があったり、お父さんの仕事のことでいろいろと大変だったとのこと。
荒れてきていた畑を、がんばって手入れされていました。

今日、Kさんから「クウシンサイ」というその畑でできたお野菜をお裾分けして頂きました。これはなかなか美味しいです。炒め物にするのが良いようで、今夜は家内が厚揚げ豆腐といっしょに炒めてくれました。なんというのか、小松菜とホウレン草の中間みたいな感じですね。
他にもナスやカボチャ、プチトマトを頂戴しました。
地物の野菜です。
その土地の人間はその土地で取れたものを頂く。それが健康にも一番いいという話を聞きます。

もこさん、アオコさん。
日本地図と世界地図の相似。思考のお遊びだとしても、結構面白いものがあるでしょう? 金華山が「日本の中の日本」というのは、私のオリジナル発想だと思います(たぶん。私が知らないだけかも知れませんが)。これまでには淡路島や奄美大島が日本の雛形という説が、一部の神道系の話ではあるのですが、でも、素直に考えれば金華山でしょう?
どっちにしても、トンデモ話ですが。

ところで、今朝、記事を書いて、お祭りに行き、その後、家族で買い物に出かけてきて、夕方に帰宅したのですが、そうするとテレビでがっくり来るようなニュースを報じていました。
静岡の磐田市で、また母親がわが子を殺害するという事件が……(本人はしつけのつもりだったとか)。

自分で産んだ子供のことが、そんなに可愛くないんでしょうか?
なんだかもう、やるせなくなります。

「親子って、なぜか似るよねえ。なんで、似るんだろう」
顔のことです。本当に似ている親子というのは多いです。ホテルのレストランに、親子で来られたお客様の中には、もう本当に露骨に「親子」というのが分かる組み合わせがよくあります。この顔が年を食ったら、この顔になる、みたいな。
「なんで親子は似てるの?」
時々、そんな質問を耳にします。DNAがどうのこうのいうのは、当たり前の話です、今や。
なぜ親と子が似ているのか、その根本的な問いの真意は、「なぜ親と子は似ていなければならないのか」という、この世の中の仕組みというのか、神の意図というのか(創造主というものがあれば)、そういった部分に踏み込んだ、素朴な問いかけであるはずです。

私はこの問いかけをされたときに、かならずこう答えていました。
「子が親に愛されるため、似ているんだよ」と。
そう。これは私が親になってはじめて実感したことなのですが、生まれた子が自分に似た面影を持つことで、とくに父親は「これはおれの娘なんだ(息子なんだ)」という実感を強く持つことができるのです。
母親は長い期間、胎内でわが子を育成し、苦しみの果てに産み出します。そのプロセス自体が、「愛」です。そして産み出したその存在が、わが子であることには疑いの余地もありません。
そのプロセスには基本的に大きな変化はないのに、こうなってしまう。
そこに怖さを感じます。

私は男だからこそ、自分に似た形質をわが子に見出すとき、「この子は自分の分身なんだ」というような実感を持ちます。
顔が似るというのは、もっとも端的な愛情確認の手段だと思います。
たとえば動物でも、猫なら猫、カバならカバ、象なら象という「形」を持っています。犬が猫の子に乳をやるというような話も、比較的良く聞きます。しかし、それはペットであった場合の話で、野生の状態ではなかなかあり得ない話です。
象の子を持ってこられて、母猫が乳を飲ませるはずもありません。
犬や猫、その他の動物も、ほとんどの場合、たとえ鏡などで自分の形姿を確認していなくても、同種族の「仲間」を通じて、同じ形態を持つ新しく生を受けた子のことは理解できるはずです(それ以上に本能的な衝動があるでしょうし)。

古い神話や伝承の中にも、父が子を殺す(殺そうとする)話はよくあり、同様に子が父を殺す物語も多数確認できます。これは、父と子の愛情確認がいかに難しいかを物語っているように思えます。

だからこそ、子は親に似て生まれてくるのではないか?

と、私は思っていました。だから、「子が親に愛されるため、似ているんだよ」と答えるようにしていました。
しかし、母子は本来そうではないはずなのです。そのような形質の類似が確認できなくても、「わが子」だということは自明の理なのですから、愛することもきわめてナチュラルなはずなのです。

私の常備している解答が、本当に揺らぐような事件が次々に起きてしまいます。
だからというわけではないのですが、とても危惧していたのです。この時期の、子供が犠牲者になりそうな運気の雰囲気は(結局、現在のハードアスペクトの影響は、こういう形で出るのか……)。

こういう事件が起きるとよく言われるのが、「現代の女性は母性愛を喪失している」というような話です。私は個人的には、こういう言い方は、世代をひとくくりにして決めつける一種の偏見に近いと思っています。
個人のホロスコープ・チャートを解読すれば、母性愛の有無や多少など、やはり個体レベルの問題だと確認できます。
しかし、そうは言いながら、「その世代の全体的な傾向」というもの、占星学上は確認できるという事実はあるのです。

責任は個人にある。
しかし、流れを作っているのは、私たち1人1人です。
ちょっと前の記事にも書いたのですが、明日は「世代の持つ運気的傾向」みたいなテーマで書こうかな、と思います。できれば、皆さんそれぞれに役立つ記事にしたいなと考えています。