求めよ、さらば与えられん。
そんな聖書の言葉があります。
実はこのところずっと悩んでいたことがありました。
それは前にもちょっと記事で触れた「占い」の問題です。これをやめてしまおうかと、私は真剣に考えていました。
結論が出せないまま、私はこれを「棚上げ」していました。
それに思わぬ形で、答えが示されました。
その答えがいかなるものかをいう前に、私がなぜこの問題で悩んでいたのか、お話しする必要があると思います。
私がプロの占い師の看板を掲げるようにしたのは、2005年の春です。生活の助けになるというのが一番の動機だったのですが、背景には様々な現実がありました。
私はそれまでずっと無償の占いを他人に要求されれば提供してきました。へたなプロよりも中身のあることをアドバイスできる自信はありましたし、なによりも重要なのは、タダの占いは私自身にも、相手にも良くないという問題でした。
タダというのは、相手にとっても意識の中では「無価値」ということで、せっかくこっちが時間を割いて占っても、どんなに有益に利用できる情報を提供しても、大事にされないということです(真剣に受け止めてくれる人もいましたが)。
また多忙な日常の中で、まったく無償で時間を割くことは難しいという現実もありました。
有償にすれば、少なくともこれらの問題はクリアされるだろうということで、プロの看板を掲げることにしました。
ただ、私個人は占いでお金をもらうということには、じつは非常に強い抵抗感があり、それは今に至るも心のどこかで根をはり続けていました。
私が始めた占いは、比較的好調でした。今も問題があるわけではありません。
もともと生活基盤を作った上での、ふろく的な仕事なので、これを伸ばすために躍起にならねばならないというようなものでもありません。
お客さんは来てもらっても良いし、来なくても良い。
しかし、やはり信頼してくれる方も増え、クチコミで広まっていきました。今でもそう忙しいわけではありませんが、潜在的には相当な広がりを持っていると感じますし、お客さんは来るときにはなぜか連鎖的に集中する傾向があります。
私自身、人様の人生をいい方向に変えるための、小さな手助けができることは、大きな喜びでもありました。
しかし、一方でこの事態が進展していくと、私の中で商売としての占いという部分が、どこか重くなってきました。
作家、ホテル勤務、大学講師、これらの仕事を掛け持ちする私の中で、占いというものもずいぶんなウエイトを占めるようになり、時間的にも拘束されることが多くなってきました。いや、時間的な問題よりも、精神的な問題と言うべきかも知れません。
「これでいいのか」というような問いが、この頃、日増しに強くなってきていたのです。
商売としての占いというものを生活の中から排除してしまったら、私はおそらく非常にシンプルになれる、身軽になり、もっと小説にも集中できる。
そういう思いが、非常に強くなってきたのです。
また私が提供する占術としての情報を、うまく利用できない人も実に多い。
占いが「当てもの」だと思っていらっしゃる方は、「当たる・当たらない」だけが重要で、示されたサインを自分の中で消化し、現実に役立てることが難しいのです(これについては、また記事にしようかと思いますが)。
私の理想は、1人の相談者が私のところに1回だけ来れば良いというものなのです。
わかりやすいたとえをすると、病気の症状がある人が医者の元を訪ね、診察と治療、処方箋に沿った薬をもらい、アドバイスに沿った日常を送り、完治する。別な病状が発病しないかぎり、その医者の元を訪れることはない――これが理想なのです。
そして現実に、私が占った人はかなり長い周期でしかリピートしない傾向があります。1回の占いで、それだけ中身の濃いアドバイスをしているわけで、極端にいえばそれでもうどうぞ幸せになって下さい、もう私は必要ないでしょう? というのが理想なのです。
これは商売(商業主義)の理念には反します。
しかし、こうでなかったらやる意味もない。
私は漠然としてですが、そんなことを思い描いていたようです。ですが、商売としてやっている内に、いつの間にか自分がそこから離れていきそうになる自覚が生じていたようです。アラームが鳴っていたのです。
つまり商業主義に取り憑かれる、ということです。
こうなったら危険です。
現実に場所を借りてやっている占いは、そのような要望がお店の方からあります。時間をきっちりと切り、なにもかも占うのではなく、問われたことだけに答えて終了にする。そうしないと、リピーターになってもらえない。
これは私の理想に、完全に反します。私は、来てもらった人には、「当てもの」ではない占いを提供したいし、十全な納得をして帰ってもらい、幸せになるために役立ててもらいたい。占いが十分に機能し、その人の内面を動かすことができたら、その人はもう来なくても良いはずなのです。
つまり占いをやめるというのは、商売としての占いをやめるという意味で、占星術研究それ自体を辞めるという意味ではない。そして私の占術家としての理想は、どうやらお金をもらって商売することではなさそうだというのが、はっきりしてきたのです。
むしろこのままお金をもらう商売としての占いを続けていたら、私自身、ろくな人間になりそうもないという予感が兆してきた、という感じです。
言葉にはなかなかできなかったのですが、今、整理すると、こういうことだったのです。
そこでやめてしまおうか、という考えが湧いていたわけです。
いろいろ混乱することもあり、私自身、起きた出来事の解釈を誤っていたこともあり、結局、この問題は棚上げしていました。
しかし、私はここ数日、「かならず答えは示される」と思っていました。
13日。
シンクロニシティが働き、「答え」が示されました。
それはK配ぜんのAさんが持ってきてくれました。処分したいものがあり、それについてどうしたらいいか、悩んでいるというものでした。
そしてその「もの」に関するAさんの言葉が、私の「占い」に関する思いそのものだったのです。両者は置き換え可能なくらいに、「シンプルになりたい」「変えたい」「それでもこだわりがある」とか、私の考えていることそのものを、Aさんは代弁するのです。
この時期に、それを処分したらどうか、という話が私の前に示されること自体、処分しろ(=私には「商売としての占いをやめる」)ということの暗示であろうし、疑いの余地のない非常に明瞭な現れでした。
まして、その席にはOさんが同席していました。
Oさんは現在の占い師としての私のとっかかりになった人で、多くの縁を結んでくれた人です。やめてしまうということを考えたとき、私にはこのOさんのことが頭の片隅にありました。「どう思うかな」とか「せっかく良い縁ももらったのに」とか、そんな思いです。
それを消化させるように、まさに偶然、その場にOさんが同席する。
求めて、答えが与えられた、と私は感じました。
完全に納得できる形で。
とりあえず今月いっぱいをめどに、商売としての占いからは撤退しようと思います。
一部の例外を除き、今後は金銭授受の発生する占いからはできるかぎり身を引き、縁のある方のみ、相談に乗っていこうと考えます(一部の例外というのは、相談を受けることすべては排除しないので、長時間を費やすような占いを行ったときに、現実的にはまったく無償では難しいため)。
しかし、基本的に商売はしないという方針です。そうすることで、私は相談を受ける受けないということすら、自分で選べるようになります。
びっくりされる方も多いかも知れませんが、どうしても、という方は個人的にご連絡下さい。 そういうご縁のある方は、すでに私の個人連絡先をご存じのはずです。
皆様、これまでありがとうございました。
多くのことを学ばせて頂きました。
これからも、作家として占術家として、さらなる高見を目指します。