命運は自己責任(今年最後の記事) |  ZEPHYR

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― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

ちぃさんのコメントに応える形で。

それは今の私は、普通の占い師とはまったく違う形で人の運命への洞察を行おうとしているからです。
普通、運命とは天から人に与えられたものだと考えます(あるいは神から)。
私も占星術をやり始めた頃は、そんなふうに考えていました。

しかし、古代からの宗教哲学、宇宙のこと、最先端の物理学や医学、そして科学的に解明されてきた人間の生まれ変わりに関する情報などを付き合わせると、人は自分の人生に全責任を負って生まれてくるのだと考えるしかないのです。
占星術師はホロスコープを見て、その人の運命を占いしますが、そこに現れていることは天から与えられたものというより自ら選んだ計画書、青写真なのではないかと考えます。

運命、占い、こういったものを毛嫌いする人は多く、私の知人にもいます。
こういう人が嫌う理由は、この「運命が与えられている」という構図そのものへの嫌悪、反抗であることが多いのです。
そういった方は「運命は自ら切り開くもの」という強い意志や信念を持っていらっしゃる場合もあり、これはじつに健全で立派な態度だと思います。
したがってそういった方にまで、私は星見の押し売りは致しません。
そういった知識を必要としない人生もありだと思いますし、またそれが普通かなとも思います。
しかし、じつはホロスコープなどに現れる運命傾向は、その人自身が選んでいるものだとすれば、占いに対する反撥を抱く根本が崩れることになります。

これは仏教思想の「梵我一如」に通じます。
梵(=宇宙)と我(=個人)は一つであるという考えです。
キリスト教にも「天にあるが如く地にも」という言葉がありますし、神は自らに似せて人を創造したとも記されています。
最先端の科学では、一個の細胞はその生命体の全情報を持っているそうです。
宇宙という生命に満ちあふれた大きな全体の中で、私たち人間はそのすべてを個体の中に閉じこめているとも言い得るのです。
したがって運命は天から与えられていると同時に、それは自らが選び、自らに与えているものだというのが真実なのではないか。それは表裏一体なのです。
また全体の情報にも通じるものが人にあるのだとすれば、運命はどのようにも変え得るとさえ言えるのではないか。

それが今のところの私の暫定的結論です。
ゆえに人は自分の運命には全責任を負っているのです。
そして自分の隣にいる人に対しても、子や孫、次の世代に対しても、私たちは細胞がつながりあっているように責任があり、だからこそこの人生の中でよりよい選択を自ら選び取っていかなければなりません。

運命は決まってなどいない。それは自らが呼び寄せ、創り出すものです。