近所に評判の良い産婦人科があったので、そこで長女は出産しました。
その産婦人科は結構、年の上がった気の良い先生がやってらして(今はもうお年のせいなのか、閉院されましたが)、そこに出産後、初めての検診に行ったときのこと。
車の中に忘れてきたものがあって、家内はそれを最初私に持たせていたと勘違いしていて、先生の前で
「○○ない? 渡したと思うんだけど」
「いや、ないよ」
といった問答の末、家内はそれを車の中から発見してきました(私は赤ん坊を抱いていた)。
「ごめんね」と、家内。
「いや、いいよ」
「あんたらはええ夫婦じゃ」
私たちのやりとりを見て、先生はそう言いました。びっくり。
「すぐに『ありがとう』『ごめんね』が言える夫婦はええ夫婦じゃ」
若かったので、そういうもんかと、ただ思いました。
しかし、この幾多のご夫婦を見てこられたであろう先生の言葉は、経験に裏打ちされた、非常に重いものであったと後で知るようになりました。
むしろこのときの一言が、私の中で残っていたからこそ、私たちはいまだに良い夫婦でいられ続けるのかもしれません。
(この出来事は、つまり裏を返すと、その先生はろくに『ありがとう』『ごめんね』もちゃんと言えていない夫婦もたくさん見てきたことを意味します)
前回の記事で、「食」のことを書きましたが、奥さんがどんなに愛情のこもった美味しいものを作っても、それを頂く旦那さんの方が無感動で、「何食っても同じだよ」とかいう態度だったらどうでしょう。
奥さんもだんだん美味しいものをつくってあげようという気もなくなっていきます。
当然ですよね。
先日、ある人から聞いた話では、旦那さんは「おれは普段しっかり働いて疲れて帰ってきてるんだから、飯ぐらい作っていて当然、洗濯や掃除もできていて当たり前」という考えのようです。
感謝の言葉もない。
これでは奥さんもたまりません。
その奥さんにとって家事全般は、旦那さんを喜んでもらいたいからするものではなく、完全に義務になってしまいます。
「どう? おいしい?」
「うん、おいしい(ありがとう)」
短い言葉のやりとりです。
でも、これがあるから奥さんは明日もがんばれるんです(注・家事は奥さんがするものとは決まっていません)。
私は以前、ある職場で上司に向かって言ったことがあります。
「あなたは人に感謝するということがありません。あなたの口から『ありがとう』という言葉を聞いた覚えがない。一つ一つの仕事だって、やって当たり前という顔をしてます。それじゃ、部下はついてこない。当たり前のことをやって、当たり前に『ありがとう』が本当なんじゃないんですか」
(その節は大変ぶしつけなことを申しました

しかし、これがどんな人間関係でも必要なのです。
職場の通路を掃除している人がいたら、「ああ、きれいにしてくれてるね、ありがとう」と私は折りあらば声をかけるようにしていました。
「ありがとう」の言葉のマジックを知っていたからです。
でも、それを夫婦という単位で教えてくれたのは、あの産婦人科の先生だったかもしれません。
たった一言で。
「ありがとう」「ごめんね」
いつまでもこの二つの言葉が、ちゃんと言い続けられる夫婦でいたい。