一転二転した今回の夜想の会。
たとえば、地震に遭ったようなものでしょう。世間的な大きな動きには逆らえません。
その一部に自分が巻き込まれたことには、それなりの意味があるだろうとは感じます。量子物理学の世界では、自分と世界は創造と被創造の密接な関係があります。
自分の身に起きた、どのような不運なことも、私は他人のせいにする習慣はありません。
といって夜想の会は、別に個人的に不首尾だったわけではありません。
私個人では自分自身の話に不満だらけですが(自信満々に話しているように見えた方もいらしたかもしれませんが)、かといって大きな失点や不出来があったというわけでもないでしょう。
与えられたマウンドで、たとえチームを勝利に導かなくとも、この次につなげるための投球というのもあるでしょう。そんなとき、その投手が腐ってしまって、「こんなマウンド、価値がない」と思ってしまっては、その投手には次のチャンスもないでしょう。
私は今回、すでに勝敗の決した破綻したゲームのマウンドに上がったのかもしれない。
しかし、それにもきっと意味があるのでしょう。
ひまありさん、ヒメヒコさん、当初は来られることを表明していた方々が、当日には来られない事情になったのも、たぶん、それは……。
私が語った話の内容にも、おそらく関係しているのでしょう。
93年は、私の作家としてのターニング・ポイント。
そして処女作を書いて、ちょうど15年(私の処女作は、なんと高校1年生の時)。
その93年から、来年がまた15年。
つまり、アマチュア時代から含めると、私の作家人生は来年で、30年を迎えるのです。
その中間地点が93年だった。
折り紙のように、中間点で割ったとき、始まりと終わりはぴたりと一致し、終わりがまた始まりにもなる。そういうことなのではないでしょうか。
9月7日。
この日は私のこれまでのピリオド(あくまで形式的な)。
この日お目にかかれなかった方々は、未来の方々。
つまりはそういうことなのです。その意味は深々。面白いものです。
そういえば、ここのところずっと旧知に会ったり連絡があったり。その連続です。
スピリチュアル・カウンセラーの江原さんによれば、古い知り合いに会うのは「今の人間関係を見直せ」というシグナルだという。
思い当たることもあります。
始まりと終わり。
終わりと始まり。
もしかすると、あの話を書くときが近づいているのかもしれない。
私の真の処女作。
いつかは書こうと思っていた物語を。
そういうときが来たのかもしれない。
近づく扉を、押し開けてみてもいいかもしれない。
そんなことを思いながら帰宅。おや? アメブロからメールが?
「大切なわが子、どう育てる?」のクチコミネタで投稿した前記事が、「金星」だそうです。
誰が判定して下さるのか知りませんが、ありがとうございます。
そういえば、このブログのアクセス数も、全体的な流れではここのところ上がる一方。
幸先良いですね。
さて、次は?