ある人から次のような質問があったので、お答えしたいと思います。
「人の運命というのか、人生の流れというのか、そういったものは自分で変えることができるのでしょうか?」
これは人の生に関する根本的な疑問です。多くの人が同じ疑問を、長い歴史の中で抱き続けてきました。
そして問いを投げかけられた宗教指導者や哲学者などは、それに答え続けてきました(それが正解だった場合もあるでしょうし、自分自身、ホントは「?」を感じながら答えた場合もあるでしょう)。
さて、現代はこの質問に対して、すでに科学的に解答を出せる時代になっています。
これは非常に重要な問題なので、この場を借りてUPしようと思います。
質問に対する答えは、YESです。
つまり自分自身で運命は変えることができるのです。
なぜ、そう言えるか?
まず現代物理学は不確定性原理というものを確認しています。
客観的にこの世のすべてを見通せる存在は存在しないという結論です。たとえばキリスト教の神様みたいに、どこか雲の上にいて、地球のすべてを観察していて、この先どうなるかすべてわかっている、そんな観察者は実は存在しないのです(神が存在するしないは、また別の話なので、ここでは置いておいて下さい)。
なぜか?
物質の最小単位は原子(それより小さな素粒子もありますが、今は一般論)ですが、この世に存在するすべての原子の配置や運動を計測することができれば、次に起きることは予測できるというのが、過去の物理学の考えでした。
しかし、実際には原子を構成する電子は粒子であると同時に波でもあることが判明し、原子核の周囲のどの位置に存在するか、特定することはできないということが、科学的な実験の結果、証明されてしまったのです。
電子の位置を特定するためには、観測するためのなんらかのエネルギー線を当てる必要があるのですが、それが当たった瞬間、原子核の周囲のどこか曖昧なポイントに波として広がっていた電子は、そのときにようやく粒子として姿を現しますが、粒子化した次の瞬間にははじき飛ばされて、どこかまたわからない場所に広がっていくのです。
つまり「見る」という行為のために、電子が一瞬だけ姿を現しますが、またすぐにその位置は不確定になってしまうのです。
したがって、現代物理学が出した結論は、「未来は予測できない。何も決まってもいない」というものなのです。
これほど難しい話でなくても、単純な話、人間の生のすべてが決定しているのなら、人間は何のために生きる必要があるのでしょうか? そんなものに何の意味もないでしょう。
この世が創造され、用意され、私たちが生まれてくる意味もないことになります。
運命は変えられる。これが科学的客観的結論です。
ただし、もう一つ科学的に判明してきたことに、人間の生命がいかにして生まれ変わっているかという問題があります。飯田史彦先生が「生きがいの創造」の中で報告されている、欧米で盛んな臨死体験や退行催眠による研究成果が、それを裏付けています。<関連記事>
それによると人間は、前世から今生へ生まれ変わる過程で、いわゆる「あの世」にいるとき、次の人生の計画を立てるようです。
前はこんな体験をしたから、次はこういう人間に生まれて、こんな人生を体験しよう、伴侶はこの人で、いつどこで出会い、どんなふうに二人で生きていくか、等々……。
前世記憶、あるいは中間生(あの世)記憶を蘇らせた人々は、口をそろえて同じことを報告しています。
人間にはこの世に生まれてきて生きていく青写真、ブループリントが存在するらしいのです。
それぞれの魂が、それぞれの目的を持って生まれてきて、出会い、様々な生命活動を行い、そして死んでいく。その場が、この世らしいのです。
つまりこの現実世界に生まれてきた魂には、それぞれに計画がある。どういうことをしよう。どんな人と出会おう。何を体験しよう。
運命は変えられます。これは客観的事実です。
が、おそらく変えられない部分、というよりも魂が変えたくない部分もおそらく存在します。
たとえばツイン・ソウルという報告がやはり退行催眠によって成されているのですが、一つの魂が二つに分かれて生まれてきた男女が、その相手を選ばず、ほかの誰かを生涯の伴侶とすることは、ほとんどないと考えられます(非常に進んだ魂は自由度が大きく、イレギュラーなことも起きやすいと言われますので、例外はあります)。
ほかの誰かを伴侶にすることなど、その人の魂の計画を大きく狂わせることなので、それをしようとしてもかならず修正する力が働くと考えられます。
またスポーツで活躍しよう、肉体をフルに使った人生を体験しようと決めているのに、事務仕事で生きていこうとすれば、その魂は内的に猛反発するに違いありません。
ただ運命は決して決まっていないということは、退行催眠などでトランスパーソナルな状態になった意識の人間が、やはり口をそろえて証言しています。過去の人生は一本の道だが、これから先を高いところから見ようとすると、いくつも枝分かれしているのが見える、と。
つまり、これらの事実を総合して考えると、次のようなことが言えます。
これは小説家が、物語を作る行為に非常に似ています。
小説家は自分の考えで、ある程度、登場人物やストーリー展開を考えているものです。
しかし、すべてを隅から隅まで計画している作家は、まずいません。ストーリーにもある程度の余裕がありますし、登場人物が思いも寄らない行動を取り始め、作家の作り物でない、生き生きとした人間らしい活動をし始める場合さえあるのです。またそういうときほど、小説は面白くなっているものです。
魂はそれぞれ自分で決めた目的やしたい体験、出遭うべき人間を設定していますから、それらをすべて覆すことは生まれてきた意味そのものを否定することになります。したがって、そのような運命の変え方はしない。自分自身、おそらく望まないのです。
しかし、ある枠組みの中で、自分の魂がより喜びに満ち、より創造的に、より光を放って生きていく、そういう変化の余地は十分にあるということです(逆にどんどん落ちていく人生も……)。
質問された方の意図するところは、おそらく「不運な人生は不運なままなのか?」とか「何歳で死ぬというのか決まっているのか」とか「男女の相性や、出会いと別れの定めなどはあるのか」というようなことだと思います。
これら具体的なご質問には、一つ一つ答えていくしかないでしょうが、基本的にはいずれも決まっていないということは言えます。
寿命などもその人の徳によって伸ばされたというような話も聞きます。また男女の相性は、本当の意味ではさして問題ではなく、人間はどのような相手とでも創造的な人生を送ることが可能です(性格破綻者のような例外は別として)。
男女の出会いや別れは、特に重要なプログラムであることが多いようです。その愛の喜びや辛い別れの体験などを通じてしか得られないものがあるからです。
運命的に出遭い、別れる。
そんなことがこの世にはあるものです。
しかし、絶対に変えられないものではないはずです。
人間の運命は、意志と選択の積み重ねです。
人間の人生は、その人の内面の表現です。
だからこそ、その人が変われば、運命全体も変わります。
では、どうやって変えればよいか。
それは、またこの次に。