夜想の補足 |  ZEPHYR

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ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

先日の「新・夜想の会」の風景です(くゆるが撮ってくれていました)。


夜想の会.jpg



このときお話ししたことへの補足を行っておきたいと思います。
「神話産生機能」を失った日本人(世界的にもその傾向はあるでしょうが、その喪失の最先端を行くのが日本だと考えています)は、世界と自分をつなぐものをなくしてしまっている。
「関係性の喪失」です。

それゆえ集合無意識の領域(海王星の象徴)に存在するものをうまく活用するため、自分というものを確認するために、あらたに失われている「神話産生機能」を再構築する必要がある。
そのために飯田史彦先生の御本も紹介させて頂きました。

しかし、過去の神話がこの無意識領域と個人の橋渡しをしていたのと同じように、今も尚語り続けられる物語たち(ありとあらゆる小説)は、あらたな神話産生機能として有効利用することができるというのが、私の考えです。
この中にはミステリーもあれば純文学もあるし、場合によってはノン・フィクションなども含めていいでしょう。
すべての物語に、語られるべき価値がある。
実はこれが私が一番言いたかったことなのです。
すべてというからにはバイオレンスやポルノなども含まれます。
これらすべてが大局的には神話産生機能として活用され得るのです。

言ってみれば、集合無意識の海とは闇鍋のようなものです。その中にどんな具材が入っているのかわからないし、何を入れても良い。
その中から自分が何を拾い出すか、食するか、という問題なのです。
そしてその巨大な鍋は、どんな人間をも養う滋養を持っている。
ただ闇鍋なので、もしかするととんでもない物、嫌いな物にさえ当たってしまう可能性がある。
甲殻類のアレルギーを持っている人が蟹やエビを拾い出して食べ、とんでもない事態が発生する可能性もある。

集合無意識には善も悪もありません。
その中から凶暴なエナジーを吸い上げれば、バージニア工科大学銃乱射事件のようなことも起こりえます。

ありとあらゆる物語も、この集合無意識から生まれると考えられます。
作家には自明の理です(自覚されない方もいらっしゃると思いますが)。
つまりあらゆる小説は、集合無意識からの放電極のようなものです。

これを個人は取捨選択して読む。
それが実は健全なことなのです。
好きな音楽を聞くのと同じように。クラシックが好きなのに、わざわざヘヴィメタを聞かなくてもいいということです。

だから本格ミステリーもバイク小説も、純文学も、当然、等しく価値がある。
それを読んで「だからどうなの?」という人は、それを読まなければいい。

ただもっと大きな視点で見たときには、「時代が要請する小説がある」というのも、これもまた真実です。
たとえば「モルグ街の殺人」
松本清張の「点と線」
島田荘司の「占星術殺人事件」
こういったところを挙げると理解しやすいかもしれません。

そして、今後の時代、関係性を喪失した日本で、私たちが行うべき(ねばならないというのは本当はないのですが、これは個人的な決意として)創作はなんなのかと自問したとき、そのはっきりとした形は見えないけれども、自分なりにやりたいことは多い。
そんな話だったわけです。

ただ話の流れから、本格ミステリーの価値が低いような印象を与えたかもしれません。
そんなことは考えておりませんから。
むしろ海王星守護を期待しなければならない今後、ミステリーの役割は増大していきます。

礼子さんが「月に帰ろうとするかぐや姫」のような印象を受けになったようで、MORO.Sさんの発言も地上的な価値を重視してほしいというような意味合いで、首肯されたようです。
もちろん、そうなのです。
べつに現実をおろそかにし、今あるものを放り出すわけでもありません。
ただ限られた時間の話の中で、私のへたくそなスピーチでは誤解を招く部分も多かったということで、補足させて頂きました。