「ダヴィンチ・コード」を読了した。
以前から読みたいと思いながら、仕事の合間に読むしかないハードスケジュール生活のせいで、おおぶりなハードカバー本はどうしても買う気になれなかった。買っても読まれないままになる可能性が高いからだ。
しかし、この度、文庫本が書店に並んだおかげで、めでたく読了することができた。
驚かされるのは、自分が数年前に書き上げ、今改稿を行っている「レガリア」との類似点だ。手前みそな評価を自分の書いたものに下すつもりはないのだけれど、作品全体の雰囲気から主人公とヒロインが古代の謎を解くため東西奔走するストーリー展開、登場人物の配置に至るまで、非常に似ている。もちろん面白さ、謎の構築の巧妙さ、解説のうまさなど、ダン・ブラウン氏の方が遙かにすばらしいと思う。
私の場合、もっと多くの登場人物を動かし、それによって古代から現代に通じする謎をフォローしようとしていたのだが、なるほど、こんなシンプルな作りでいいんじゃないかと思えた。
またこれを読んだことの意義は大きかった。シオンの修道会や初期のキリスト教が備えていた特質など、今まで日本人が書いたものしか読んでいなかったので、そこら辺の知識の補強にもなった。私は信仰的な制限がほとんどない人間なので、世界中のキリスト教国でこの作品や映画への非難やボイコットが起ころうと、そんなことはまったく無関係である。
信仰は自由なので、批判したい人はすればいいだろうと思う。
私にとっては「知」の方が遙かに価値がある。
知ること。
昔から自分はそれに引きつけられてきた。
真理を。あるいは歴史に埋蔵された真実を。
そういう意味では、「ダヴィンチ・コード」の主人公のラングドンに似たところがあるのかもしれない。それは「レガリア」の主人公の姿にも投影されていたように思う。
「ダヴィンチ・コード」を読んだおかげで、「レガリア」をどういうふうに改稿すればいいのか、多少軌道修正すべきところがあるのもわかってきた。また確信を持って解き明かしに当たることができる材料も入手した。
しばし立ち止まり、霊感が降るのを待とう。
文学という神よりの霊感を。