オール・オア・ナッシング |  ZEPHYR

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ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

人間関係ほど不可思議で、難しいものはない。

自分がよかれと思ってやったことで、相手を傷つけたり、不快にさせたり、逆にさして深い意味のない行為が他人の救済や良き結びつきにつながったりする。


私もさして深い考えもなしに行動していたら、相手が不快に感じたのだろう、手厳しい拒絶にあったことがある。

まただいぶ昔になるが、悩みが深すぎて、判断を迷い、愚かな行動を取って、結果、さらなる不幸を招き、全存在を否定されたことがある。このときのダメージは、いまだに心に傷となって残っている。


人間、ある程度長く生きてくると(自慢するほど長いわけではないが)、少々のことではめげないようになってくる。鈍感になってくるのとは違うようだ。少なくとも自分の場合。

そのさなかでは、精神的に非常にまいってしまうこともある。しかし、立ち直りは早くなる。

年を食ってくるとわかることもある。たとえば自分を否定したり拒絶した人間が、なにを考えていたとか、どういう性格の人間であったとか。

根本はそこであって、自分の動機が不純でなければ、相手の受け取り方がどうであろうと、実は失うものはない、というような半ば悟ったような認識。


先日、あるタイプの人間と話すことがあって気づいたのだが、その人は「オール・オア・ナッシング」という性格だった。男女関係でも、相手が100持っていたら、その100全部をほしがる。それが10や20くらいだったらもういらない、0でいいという思考パターンの持ち主だった。

10や20なら、不満や不安の方が大きくなってしまい、苦しい思いをするくらいなら全部いらないという考えだ。

世の中には、意外にこういう人が多い。

増えているように思う。


なぜかというと、精神的に弱くなっているからだ。嫌なことが我慢できない、他人の嫌な部分を許容できない、たった一つでもあると許せない、不安に襲われることが耐えられない、不安の先にあることが実現して自分が傷つくのが怖い・・・とまあ、こういう発想だ。


実を言うと、私も「オール・オア・ナッシング」の性格で、物事には白黒はっきりつけたい性格だ。

だから、人を傷つけていることもあると思う。こういう性格の人間は言動が極端になりやすく、過激に出たときには破壊的になりやすい。結果、自分も傷つくのに。


しかし、このところ自分は変わってきていると感じる。

なぜかというと、自分を拒絶したり否定したりする人間のことを逆否定しないようになってきたからだ。

むしろ自分に貴重なことを教えてくれたとか、素直に思えるようになってきた。

これはやはり一種の年齢的なもので、ある程度余裕ができてこないと見えないことなのだろう。


だから、自分に不快な思いをさせたり、迷った判断から私に迷惑をかけたからといって、その人の全人格を否定するようなことはしない。

人間だから間違うこともあるし、愚かな面が出てくることもある。

それでいいじゃないか。

その人にはよい面もあるのだから、一事を持ってすべてをはかるのは傲慢であり、そっちの方がむしろ愚かだろうと思う。


ただやはり取るべき措置を取らなければならない状況というのがある。

そのために自分が人を傷つけることもあるだろう。

悲しいことだが。


今の自分にとっては仕事上は、ZEPHYRが一番大事だ。

仲間を大事に思っているし、彼らの利益や権利、幸福を守っていこうというのも、自分の責任だと思う。


しかし、だからといって今の私は誰か特定の人間の人格を全否定することはしない。これから先も、しないだろう。