耳浦神社:島根県隠岐郡西ノ島町別府
今回隠岐を目指した理由のひとつに耳浦神社がある。当社は西ノ島の北部、山あいの川沿いにある小祠で「でやんな祭」で知られる。「でやんな」とは「出会うな」という意である。まずは当社の概要を引用する。
耳浦山神社
西ノ島の別府港から北に2.5km、耳浦の地に山神社がある。山神社は例外なく大山祇神を祀っている。
鎮座地:別府耳浦
「神名記」に山神社 大山祇命とある。これは氏神ではなく元は個人(別府近藤家 屋号オカタ)の祀ったものであったが、今は区で祭祀を行っている。
祭日:春旧暦二月初巳(旧記には初午)、秋十月二十八日(旧九月二十八日)
祭儀:公会堂の一室に祭壇を設け、御神号を掛け御幣(三本)神供(五台)を献り、祝詞。それが終了すると神主従者と共に本社へ出向(神主御幣を奉持、従者米並びに水汲具を持つ)。この時出立(デヤンナヨーデヤンナヨー)を区民に知らせる(これは祭りに携わる神主に出会うと罰が当たるといって家居している)。本社着、先ず従者、酒石壷の酒を汲み、神主神前に献じる。従者は旧酒を汲み捨て、持参の米を石壷に入れ、蓋をする(酒造神事)。神主はその上に糀(こうじ)を置き祓う。次祝詞、拝礼、退下。帰って直会。一般的には「でやんな祭」と呼ばれるこの祭では、公会堂を出立する時から、帰って来るまで神主と従者は無言でいなければならない。この小祠に祀られた神に鄭重な祭を執行するのは、「酒造神事」をする特殊の神祭りであるので古例によって現在まで続いている。これは特別ではあるが、このように小祠においても年一回は祭を行ったもの、赤之江秋月神主の場合は小祠の祭りでも必ず神楽の巫女舞を奉納していた。祭の方式は大小色々でも必ず祭儀を行っていた。(出典*1)
西ノ島初日、天気が崩れる直前に耳浦に赴いた。別府港からは車で五、六分、少し先はキャンプ場である。緩やかに坂道を上っていくと、耳浦に抜ける手前に短い隧道がある。出雲の黄泉比良坂ではないが、あの世とこの世を分かつようにぱっくりと昏い口を開けている。NHKBSの「新日本風土記」だったか放送局も番組名も忘れたが、夜半に神職の乗った車の後を番組スタッフを乗せてついていくタクシーの運転手氏が、このトンネルの前でかなり怖がっていたのを思い出した。ここを通ったのは昼過ぎだったが、夜通るのはたしかに怖いだろう。トンネルの先に魔物が待ち受けていそうなのである。
トンネルをくぐってしばらく行くと右手にキャンプ場の広い駐車場がある。車を停めて少し戻ると左手に木造の鳥居が見える。ここから耳浦川に向かって下りていくと石垣の上にごく小さな小祠が立っている。耳浦神社だ。なんの変哲もない祠だが周囲はよく整備されている。それだけ信仰が篤いということなのだろう。
出典*2
当社の佇まいはどこか熊野の高倉神社を思わせる。高倉神社は熊野の山中や集落背後の高所に多数あり、記紀に登場する高倉下(タカクラジ)を中心に、山神・地主神と習合した地域神として祀られている。村境や峠など境界に置かれることが多く、結界・魔除け・山仕事の安全神として信仰された。熊野修験の行場や参詣道沿いにも分布し、熊野三山の祈祷圏の中で中世以降に重層化したという。社殿は小規模な祠が多く(無社殿の場合もある)、巨石・岩・洞穴を依代とする古い山岳祭祀の痕跡を残している。隠岐の熊野信仰は平安後期〜鎌倉初期にかけて、修験者や院政期の熊野御師によってもたらされており、隠岐に配流された公家や僧侶の影響で定着が進んだ。耳浦神社の由緒は不明だが、あるいは修験者の影響下に創祀された自然神であったかもしれない。
問題は祭儀の際の禁忌である。普通の祭とは異なり、見学するわけにはいかない。祭事そのものは氏子ですら見ることはできないのだ。昭和35年に行われた調査報告にはこう記されている。
祭は神職と従者の二人だけで執り行われる。(中略)祭は一切この二人だけで行うもので、外来者はもとより、その家族さえも絶対に見ることは出来ない。祭壇のある部屋は襖を建てて締切り、神職の祝詞も微音で奏する。室内の祭を終えると、表の玄関より御幣を捧げて耳浦神社の社地に向う。その際、神職は祝詞を、従者は提灯と酒造用の米二升麹一合・注連縄・バケツ・柄杓を持つ。当屋出発の三十分前になると、その従者が大声で「でやんなよう」「でやんなよう」と二声告げ、更にまた十分ほどして、「でやんなよう」「でやんなよう」と二声告げる。今では有線放送によって部落の人々に区長が告げている。この声を聞くやいなや、その部落の家々はすべて窓を閉め、明りが外へ漏れないようにして、一切物音をたてず黙って物忌をするのである。では一体「でやんなよう」という言葉はどんな意味を持つものだろう。土地の人の話では「出逢うなよ」ということで、この祭に出逢うと罰があたるから、家で大人しく物忌をして一歩も外へ出るなよという意味であるとも云われている。すなわち、この祭の神主さんに出逢うと目が潰れるので、祭に「出逢うな」、外に「出るな」というのだと説明してくれた。神職と従者も社地に向う時は、口にシバ(榊の葉)を銜えてお互に一切物を言わないことになっている。その際、提灯だけはつけて歩くが、古来、その提灯の火を見ると目が潰れるという伝説があり、人々は家に籠ったまま絶対その灯を見ない。万が一、その灯りを見た者は、一週間耳浦神社にはだし参りをして神にことわりをし、幟を作ってお詫びするならわしとなっている。(中略・神事そのものは冒頭に引用した通りなので割愛する)帰途についた神職と従者は、耳浦トンネルの入口のところでもう一度社地に向って拝礼し、そこではじめて神職は従者に対して祝言を云うのである。つまり当屋を出てから此処まで一切無言でなければならない。当屋に帰りつくや、「帰ったぞう」と大声で伝え、それからその家で直会が始まる。(出典*2)
要は物忌なのだが、美保神社の青柴垣神事に際しての當屋の禁忌を思い出した。同社のホームページには以下のように記載されている。
Q.役前はものすごい精進潔斎、修行をすると聞きますがどんなことを行うのですか?
A.1年間(頭人は客人當から始まり4年間)毎日欠かすことなく、子の刻(真夜中)に潮掻(しおかき、海に入って心身を清めること)をして美保神社本社や頭人宮・末社等に参拝します。もし途中に他人と出会えば“穢れた"として再度潮掻からやり直します。これを日参(にっさん)といいます。このほか、
・泊付きの出張で日参できなかった日は次の日に二度参り
・食事は1人で神棚の下で専用の膳・箸を使い鶏肉・鶏卵を食べない
・夫婦別床
・仏壇を閉じ、死穢等の一切を避ける
など、この外にも多くのしきたりを守りながら日々精進潔斎し、神事を奉仕するための準備をします。
※役前の6人は日参時に紋付き羽織、下駄を着用して港内を行き来し参拝をしています。カランコロンという下駄の音が聞こえてきた時は、役前に出会わないように注意してください。(出典*3 太字:筆者)
美保神社
美保神社門前の青石畳通り。当屋は深夜この道を歩く。
「出会えば穢れる」「見れば祟る」という禁忌は、半ば神聖化された祭祀者を俗界から隔離する必要に加え、神の顕現は見てはならないという日本古来の観念に由来する。また、共同体の境界を守る機能、祭祀者を集落から隔離することで祭りの秩序・役割・緊張感を保つという意味合いもある。神職や當屋が外を歩く時間帯に人が外に出ないというのは、祭祀者=神の代理者の動線を確保し、邪魔をしないための共同体の規範であり、「出会えば祟る」のは、「絶対に外に出るな」という強力な禁止規則として機能しているのである。不用意に接触すると共同体の祭りの成立自体が危うくなるため、「祟る」という言葉で強く規制したと考えられる。この二社に限らず、同類の禁忌は日本各地にあることを付言しておく。
ただし、耳浦神社については当社のある山自体への畏怖が根底にあるようだ。再び調査報告を転載する。
耳浦神社の祀ってある山は古来神の山としてこの土地の人々は大層畏れている。普段人々がこの社を参拝するということは殆んどなく、恐ろしい山であるため、この地の人々はこの山の薪一本も摂らないということである。故に、この山の所有者も土地の人の買手のないために、他の地方の人が所有している。丁度、この社を参拝に行く道で出逢った樵夫から直接私が聞いた話は、今なおこの山の神が人々に畏れられていることを物語るものとして洵に興味深かった。すなわち、それによると、或男が五、六十年ほど前、この山の杉の木を切って内地(隠岐島から本州のことをいう)へ運搬中、凪の日にも拘らず船が引繰り返ってその男は死亡したという。これはこの山神さんの祟りだというのである。また、古くはこの神社が今の社地と反対側の山の上にあった所が、荒神であるため、穢れた女性などが通るとよく川へ突き落されたという。そこで現在でも、女が耳浦湾へ海苔摘みに行く時にはずっと離れた山の中の道を遠廻りして、この社の側の道を通らない。このように、今なお、伝説が生きており、山神・荒神として人々は実際に畏れているのである。(出典*2)
荒神といえば隠岐に近いところでは石見の荒神が知られるが、いまや姿も形もない。このブログではこれまでに若狭大島のニソの杜、薩摩大隅のモイドン、蓋井島の山の神の森、種子島のガロー山などさまざまな山の神、森の神をとりあげてきたが、これら地域で行われている祭は文化財に指定されたものを除き、おそらく今世紀中には消滅するだろう。果たして、耳浦神社のでやんな祭はいつまで永らえるだろうか。
(2025年9月20日)
出典
*1 松浦康麿「西ノ島の神社」焼火神社 ホームページ
*2 加藤隆久「隠岐島に於ける耳浦社と荒神社の祭ー別府の『でやんな祭』と上那久の『いみ祭』」「神社の史的研究」所収 桜楓社 昭和51年
*3 氏子の祭祀組織 美保神社ホームページ









