由良比女神社:島根県隠岐郡西ノ島町浦郷922
国賀神社:島根県隠岐郡西ノ島町浦郷
高田神社:島根県隠岐郡西ノ島町大字美田3098
引き続き、島前は西ノ島の聖地を巡る。本稿では三社を紹介する。焼火山を下って次に向かったのは由良比女神社だ。隠岐の延喜式内名神大社四社の内の一社で、イカにまつわる伝承を持つ。神の眷属は狐(伏見稲荷大社)、鹿(春日大社)、猿(日吉大社)、烏(熊野三山)などが知られるが、当社に縁があるのはイカなのだ。縁起を確認してみよう。
神社の前の海に建つ鳥居のあたりは浅い入り江になっていて、イカの大群が押し寄せてくるので有名でイカ寄せの浜と呼ばれています。昔、由良比女様が、大きな桶に乗って遠い海からこの由良の地にやってきました。その際に手で海水をかき分け、この浦に向かって来られる途中、イカがその手に戯れて、引っ張ったり噛付いたりしたと言われています。そこで、この無礼を詫びるために、毎年秋になると、イカの大群が神社正面の浜辺に押し寄せるようになりました。地区の者は、これを由良比女様の霊験と言って喜び、水際に小屋を建て、家族総出でイカをすくい捕りました。
一説に、この神社は神武天皇の頃、イカを手に持って大きな桶に乗り、鳥居の近くの畳石の所に現れたともいわれています。また一説に、この神様は須勢理姫命で、大きな桶に乗って浦郷に来られる途中、海水で手を洗ったところ、イカが戯れて神様の手に触れたので怒られたのだともいわれています。毎年10月29日、由良比女神社の祭りの日には「神帰り」という御座入神事を行いますが、このときイカが入り江に寄って来るのを「神帰り」と呼んでいます。俗にこの神様のことを「鯣大明神(するめだいみょうじん)」というのも、こうしたイカとの関係があったからです。(出典*1)
どうやら元々知夫里島に鎮座していた海神を西ノ島に遷したということらしく、漁撈を営む民の口碑がこの由緒に繋がったものか。隠岐の漁港には今もあちこちにイカ釣り漁船が停泊しており、宿の朝食にも白イカの糸作りの小鉢がついてきた。隠岐産の食材の筆頭はイカなのだが、いまや貴重な食料資源である。WWFの報告では近年国内のスルメイカの漁獲量は激減してきたが、今年は三陸沖での資源流入が増加したことから、水産庁はこの九月に漁獲可能量を19,200tから25,800tに引き上げた。太平洋側では黒潮の蛇行が約七年半ぶりに解消されており、これが影響したのかもしれない。隠岐はどうなのだろうか。

当社門前の薄子浦はイカ寄せ浜と通称され、イカの大群が押し寄せるのを見張る番小屋が立つ。海中には鳥居が立ち、小さな看板のようなものがゆらゆらしている。目を凝らすと往時のイカ拾いの様子を再現していた。昭和20年代を最後にイカがこの浜に寄りつくことはほぼなくなったという。参道を進む。神門、社殿と拝観したが、特段の所感はない。古代には中央にもその名を知られた名神大社だったが、近世には「極テ小サク古リハテヽ亡カ如シ。里人モ知ル者無シ」(出典*2)と記されるまでに零落したらしい。旧に復したのは明治維新以降で、現社殿も明治19年に造替されている。経緯はわからないがイカが押し寄せるようになったのは明治かららしく、祭神がその本分を取り戻したということなのかもしれない。

翌朝一番で摩天崖に赴く。ほとんど観光客はおらず、切り立った断崖絶壁と放牧された牛馬を堪能することが出来た。国賀海岸一帯は隠岐でもっともよく知られる景勝地だが、これだけスケールの大きいジオサイトであるにもかかわらず、社寺の類は僅かに国賀神社一社のみである。通天橋の近く、国賀浜の岩場に鎮座するが、由緒や祭神などは不明。人里からかなり距離があり、管見では伝承の類も見当たらない。鳥居と小祠のしつらえからすると近現代に建立されたものと思われる。
ここで少し考えてみたい。たとえば、巨岩を庭先に置き、紙垂を垂らした注連縄でも回せばそこは聖地になる。これを見た多くの日本人は手を合わせる筈である。あるいは、近所の公園に高さ1m程度の積み石をしてその前に榊を供えてみよう。これも人々は決して崩したりせず、手を合わせるのではないか。これらは宗教や信仰に基づくものではない。一種の習慣であり、民俗である。問題になるのは「他者」の視線だ。他者が手を合わせると「そうしなければいけないのではないか」という心理が働く。こうして皆が手や声を合わせていくと、疑問を持つ人はほとんどいなくなる。集合的無意識として大きな力を持つのである。さらにこれは同調圧力につながっていく。これはたいへん怖いことだと思う。昨今の日本の政治を取り巻く状況は、SNSや動画サイトによる流言蜚語の影響も相俟って、このことに通じているのではないか。
閑話休題。続いて高田神社へ。ここは隠岐の神社マップ(参考*1)で存在を知ったが、イラストを見るにたいへん面白そうな神社だ。創建は1616年以前、祭神は伊邪那岐命と素盞鳴雄命、船越・小向区の氏神である。美田湾からほど近い山の中腹にあるが、行き方がかなりわかりづらいので簡単に記しておく。美田湾の奥、イカ釣り漁船が停泊するあたりに車を停め、丸勢機械店の手前の路地を右に入る。最初の四つ角の左手に高田神社参道と記したごく小さな木の標識があるので、そのまま上っていく。赤瓦の民家を寺堂にした元正楽寺を右に見て、そのまま少し行くと左右に分岐する。右の道(左は墓地)に入り、あとは登っていくだけだ。舗装された道で足元は悪くないが10分以上はかかるだろう。
西ノ島はマンホールの絵柄もイカだ。
一の鳥居の前に出た。脇に巨岩。いい風情だ。ここから200段以上ある急な石段が延々と続く。一気に上ったのでやや息切れ気味。上りきると平らに開けていて、右手の神門の先が懸造の拝殿だ。正面に向背があって注連縄も掛かっているが、右手に回り込んでみると鈴緒が下がっており、本殿はこちらが正面になる。つまり、前稿で取り上げた焼火神社と結構を同じくするのだ。本殿は岩窟に埋まる形ではないが接しており、左手の小さな窟に祠が納まっている。立地からそうなっているのだろうと思うが、これは隠岐西ノ島ならではの造作ではないか。そう思いながら拝殿の神紋を見るとやはり丸三つ、三つ火紋である。さらに帰京して確認したところ、当社の宮司は松浦道仁氏、なんと焼火神社の宮司であった。
どういう関係があるのかと、焼火神社ホームページの資料(出典*3)をあたったところ、やっと当社の由緒に行き着いた。あらためての部分もあるが一括して引用しておく。
高田神社 (旧社格村社)
通称 高田さん
交通 小向より徒歩二〇分、船越より徒歩三〇分
鎮座地 高田山中腹
主祭神 伊邪那岐命・素戔嗚尊
境内社 八王子(五男三女神を祭る)
神紋 三つ柏
祭日 例大祭七月一八日(隔年七月一八日、一九日には神幸祭が行われる)、春祭三月一八日・秋祭一一月一八日
本殿 春日造変態 木造銅板葺 二坪
拝殿 拝殿 木造銅板葺 一四坪
付属施設 神饌所・御輿庫
境内地 二九八坪
由緒・沿革 小向・船越の氏神として崇敬されている。社伝によると「天平神護元年隠岐次郎右衛門の息女小花姫に神託あり、高田山頂なる岩窟に祀り高田明神と崇め云々」とあるが、これは隠岐郡都万村高田神社の縁起と全く同じであり、これは中世末時宗の僧が島後より島前に進出して、都万村高田神社と相似した山頂岩窟に祀ったものと思われる。隣接する寺ノ峯には経塚があり、これも時宗の僧によって作られたものと思われる。旧美田村が一部方・二部方と分かれ、この二部方の中心となったのがこの社と思われる。棟札の古いものは元和二年(1616)である。
隠岐島誌や隠州視聴合紀などあたってみたが、これ以上の由緒はなかった。著者は松浦康麿氏(故人)。焼火神社の宮司、且つ歴史家であった方である。前稿でも触れた通り、隠岐は修験者や僧侶の一大行場であったことは想像に難くない。探せばまだまだこうした神仏習合の聖地は見つかるだろう。
次稿ではユニークな神事と禁忌で知られる神社をとりあげ、隠岐の聖地を巡る旅の締め括りとしたい。
(2025年9月20日、21日)
出典
*1 由良比女神社 隠岐ユネスコ世界ジオパーク
*2 隠州視聴合紀 P77(江戸・写本) 東京国立博物館デジタルライブラリー
*3 松浦康麿 西ノ島の神社 焼火神社ホームページ
参考
*1 隠岐島前神社マップ













