種子島三日目の朝、島の最南端の民宿を出立し、鉄砲伝来の地である門倉岬の古社、御崎神社に向かう。崖上に立地し、眼下に海を望むおおらかな佇まいはいかにも南国のもので、最高の眺めだ。当社の御神体は毎年2月に行われる潮祭りの時にだけ公開されるという。写真で確認すると二つの小さな立石だった。今回訪れたいくつかの神社の祠にも同様の立石が収められていたのだが、これらは漂着神信仰、いわゆるエビス神である。山間部の祠の神体も立石であり、あらためてこの島の信仰が海と密接な関わりを持っていたことがわかる。御崎神社から島の西岸を行くと寂れた漁村が続き、ところどころにエビスが祀られていていまも漁師が大切に祀っている様子が伺える。岩礁の上に自然石を積み上げたエビスは浜エビスと呼ばれ、古い祀り方をそのまま残しているという。


御崎神社


上立石の恵比寿


広浜家の恵比寿。屋久島の島影が見える。

 

前稿で取り上げた下立石という集落から、上立石、大川、洲崎を経て島間に至る海沿いの道はほとんど車が走っておらず、左に屋久島を望みながらのドライブは最高だ。途中、上立石にある広浜神社の祭神も恵比寿だった。海に面した県道沿いに鳥居が立っているが、奥まったところにあってゆっくり走っていても見過ごしてしまう。周辺を行きつ戻りつして辿り着いた境内は日本の神社のそれではなく、沖縄の御嶽を彷彿とさせる。拝殿裏の石祠が本殿だが、中の御神体もきっと立石なのだろう。

広浜神社

 

続いて島間の集落に入り、石塔山のガローを訪ねる。本妙寺という寺院の近くの石塔山という聖地にあるらしい。本妙寺はすぐにわかったが肝心の石塔山がわからない。うろうろしていたら路駐した脇の家の高台から老婦が不審そうにこちらを見下ろしている。挨拶をして石塔山とガロー山を尋ねるが要領を得ず、昔からここに住んでいる人に聞いてみたらいいと近くの家まで案内してくれた。主は家の中で見知らぬ人に吠えまくる犬を抱きながら、網戸越しに話を聞いてくれた。齢八十を越えているというが、ガローといってもわかったようなわからないような様子だ。石塔を祀っているらしいと言うと、あるとすれば前の道を50mばかり行った先の墓地の角を左に入ってしばらく行ったあたりではないかとの由。というわけで歩いて行ってはみたがそれらしき森はあるものの、肝心の石塔が見つからない。そうこうしていると先のご主人が軽トラに乗ってやってきた。見つかったかと聞くが、後ろにまた軽トラ。降りてきたもう一人(60代前半と思しきサングラスのいかつい御仁。農業か土建業だろう。元ヤンキーと思われる風貌は人のよさを感じさせる)と詮議しはじめる。民家の軒先にお構いなしに入っていき、繁った森と竹薮の前で「おぅ。このあたり入っていくとあるかもしれん。ちょっと行くと斜面になってる筈なんで、そこまで行かない方がいいよ。あるなら手前かな。雷が落ちて樹が倒れとるから気をつけて」と帰っていった。しばらく藪漕ぎしながら森の中を進んだが、石塔は見つからなかった。それにしても島の人々は親切である。お三方を煩わせて収穫がなかったのは残念だがご好意はたしかに受け取った。感謝。

石塔山のガローがあると思われる森。倒木が目立つ。



次はいったん島間港まで出て大塚山のガローに向かう。海岸沿いから道を入るとすぐ山になる。大久保集落公民館の近くに案内板がある。由緒がおもしろいので写しておこう。


室町時代に島間の地頭であった大塚様の供養塔とされます。1469年(応仁3年)、種子島の当主時氏は、宗派を律宗から法華宗に変えました。口碑では大塚様はこれに従わず、竹のこぎりによる首切りの刑に処せられたと言い伝えられています。8月13日は、大塚様の命日とされ、この日に大塚山・大久留目屋敷では慰霊祭が執り行われていました。また、この石塔は、中世に流行した五輪塔とよばれる型式のものです。大塚山は、この地域の人々の聖地として大切に守り伝えられています。令和2年8月 南種子町教育委員会

 

大塚山のガロー

 

案内板の脇から少し上ると大塚様跡なる石標。小山を上っていくと奥の開けた場所に三基の五輪塔が肩を寄せていた。ここが大塚山のガローである。この森は元々集落の祖先神を祀っており、その上に大塚様を戴いたように思われる。ひとくちにガローと言っても与えられた意味はさまざまなのである。それにしても。竹のこぎりの斬首はさぞかし時間がかかって痛かっただろうなどと妙なことを考えてしまう。当地では他にナバクロのガローを探したが、上妻城跡の近くという以外になんの手掛かりもなく、ただ猫と出会うだけに終わった。

ナバクロのガローのあたりにいた猫

 

ここから南種子町の市街地に至るまでにもさまざまな祈りの場がある。そのひとつは牧の神だ。牧は牧場の意で、農耕の神であり、馬頭観音ともされる。五月には馬焼きという祭りが行われる。「ウマヤキとは、馬を春中、他に入れてホイトウ(放踏)して田を柔らかくするが、しまいには馬の足の内側の突起部が腐った。それで田植上がりには、そこに焼けた鉄棒を当てて焼いて癒したのに因む」とある。(出典*1)農耕のほかに、塩屋牧といって製塩に使う薪を運搬するための馬に因むものもあるようだ。種子島の民俗はやはり田と海の両方に関わっているのだ。牛野の牧の神、中ノ塩屋の牧の神、大川の牧の神の三ヶ所を訪ねたが、中ノ塩屋は祀られておらず、大川は所在がまったくわからなかった。

牛野の牧の神


中ノ塩屋の牧の神

 

二ヶ所をみる限り牧の神は森にあるのだが、島外の人間にはガローとの区別がつかない。もっとも今は島の人々の多くもそうなのだろう。この日は河内温泉という町営の温泉(泉質が最高だ)に寄り、中之下の保育園を改装した民宿に泊まった。島の魚介と苦竹の天ぷらを食べて島酒を呑みながら若い主にガロー山のことを訊くと島の出身だがわからないという。しばらく説明すると当を得たようで「あぁ、田んぼの中の丸くこんもりした森か。森山ですね」と言った。



 

最終日は、河内温泉近くのカジヤの峯のガローと寺田孫十ガローを訪ねた。前者は上中神社の道を挟んで正面に、後者は神社後方の山中にあるようだ。神社入口の脇に車を停め、道の向こう側をみるとたしかに森がある。カジヤの峯とは鍛冶屋の峯で神社後方の山のことを指すと思われる。かつては恐れられていたというのだが、祀られていないガローには神はいない。上中神社を参拝する。当社の前身は中世に創建された極楽寺だ。明治の神仏分離令で神社に変わったという。極楽寺の創建は喜道(日悦)上人。第十代の島主、種子島幡時の弟で子のない兄の世継ぎに際し、日向細島から時氏を迎えたとされる。だが、彼は時氏の法華宗への改宗に反対し、この地に寺を創建して隠遁したという。用水、護岸などに尽力し、ずいぶんと感謝されたらしい。

カジヤの峯のガロー


上中神社

 

ガローを求めて裏山を登ると数分で平らな土地に辿り着いた。極楽寺の旧地だ。集落の人々が盆に参る石塔があり、その手前がガローということなのだが、案の定荒れ放題で石塔がどこにあるのかも見当がつかなかった。ただ、僕は当地に込められた人々の思いのようなものを感じた。境内には彼の墓があり、願成就祭では今も踊りが奉納されている。

極楽寺跡


喜道(日悦)上人の墓所


南種子町を離れ、中種子町に入る。最後は平鍋のガロー山だ。一連の投稿でほぼガロー山の輪郭は掴めたかと思うが、あらためて案内板の紹介文を写しておく。

ガロー山は伽藍山ともいい、山の神・田の神・地神・防風林・寺跡・古墓地などの聖地で、みだりに入ってはならない場所である。ここのガロー山は道路から細い道がついていて、森の中ほどに神様が祀ってあり、正月・盆などの折り目にはお供え物をしている。ガロー山は荒神で、卑猥なことをすると、たたるといわれている。中種子町文化財保護審議会 中種子町教育委員会

墓の脇の小道を入っていく。行き止まりの右手に巨石。反対側にガロー。取り木と思われるアコウの巨木の前に石が配され、素焼きの花瓶が二つ据えられている。簡素な祭壇の趣きである。これまで見てきた中では本稿(その1)で取り上げた南種子町平山の向井里のガローに近い。今も祀られていることを含めて、ガロー山の典型の一つとするに相応しいかもしれない。



最後に、種子島に移住して民俗調査を行った下野敏見氏による説明を付し、本稿を締め括りたい。

種子島全域に分布する民俗神の一つにガロー山というのがある。種子島の民俗神の種類は、ガロー山(主として百姓氏神)、マキの神(馬頭観音)、エビス(海村氏神)、田の神(百姓村落共同神)、森山(島内に二ヶ所あり)、石塔(祖霊塔)、山の神(村落氏神)イッケ氏神(主として士族氏神)などであるが、なかでもガロー山はもっとも注目すべきもので、島内に176ヶ所ほどある。ガロー山はガラン山ともいい、伽藍山の意味で、古代の多褹国時代における仏教普及による南島支配政策の一環として成立した信仰を淵源にしていると解せられ、しかも祭場はガロー山といっても山ではなく森であり、朝廷の南島経略以前より伝承して来た森の信仰をふまえて成立したものであると思う。薩南のモイドンと同形態の森である。(中略)ガロー山は民俗神というより聖地といった方がより適切である。その聖地の一隅にタブの古木または椎の木、アコーの古木などを依り木にし、その根元に浜の菊面石など積み重ねて素朴な祭場を設け、折り目ごとにシッカ(司祭者)が参拝、初穂や焼酎などを供えている。非常な荒神で、祟りやすい神であり、木を伐ったり小便したりして祟ったという被害者は幾人もいる。祟ったら、浜の潮井を取って来て、それを捧げて詫びを入れると忽ち癒るといわれる。(出典*2)

ガロー山の成立はおそらく日本に稲作が伝わった弥生時代前期に遡る。それは記紀の神々も諸仏も存在しない時代である。

 



(2025年5月31日、6月1日)

出典
*1 下野敏見「種子島の民俗Ⅱ」法政大学出版局 1982年(P8)
*2 下野敏見「種子島の民俗 I」法政大学出版局 1982年(P22)

参考
南種子町教育委員会・南種子町文化財保護審議会「南種子町の神社・仏閣」平成30年