阿多羅惜経神社
矢八ガロー
宝満神社
御田の森
峯先のガロー
雨田神社
コーガシラのガロー
平山地区を出る。昼食はJAXAの食堂でとることにした。止んだかと思った雨はまた本降りになりだした。種子島は風が強い。まるで台風の中を進むかのようだ。食堂はJAXAの職員で賑わっていた。
JAXAの近くにもガローがある。県道から少し外れた森の中だ。阿多羅惜経神社の手前にあるという。阿多羅惜経は”あたらせきょう”と読み、この地区の古地名らしい。一方、阿多羅経と書いて"あらいきょう"とも言うらしい。いずれにせよ仏教との関わりが考えられそうだが、伝承等は残っておらず、方言を当て字した可能性もある。この地区の氏神で豊受大神(種子島の神社の祭神に多い)を祀り、農耕との関わりが伺える。山裾を回るように森の中に入っていく。行き止まりまで来ると開けており、蟹がいた。水の気配を感じる。振り返ると苔生した石段の先に阿多羅惜経神社の祠が見えたが、肝心の矢八ガローの場所がわからない。道を戻ると森の中からなにかが訴えてくるような存在感を感じる。目を凝らすと木の根元に祠らしきものが見え隠れしている。ここだ。ガイドブック(参考*1)には宝満神社の社人を務める家柄であった岩下家のガローとあった。石祠の中には自然石が祀られている。取り木の下の石はどこか諏訪のミシャグジを思わせる。姿なき神の祀り方には共通性があるのだ。そこには日本人の神観念の古層を感じ取ることが出来る。かつての神は人格神などではなく、精霊だったのである。
さて、茎永といえば宝満神社だ。おそらくは種子島の中でもっとも古い信仰をいまに伝えると思われる。その根幹にあるものは赤米だがこれは参拝してからにしよう。まずは展望台まで行って宝満の池を眺める。周囲1,230m、深さ6mの海跡湖だ。砂丘上の森に囲まれた池の水面は静まり返り、龍神でも潜んでいそうな神秘を感じる。ここでは突き網猟という伝統的なカモ猟が行われている。夕暮れ時に池から水田に餌を求めて飛び立つ、あるいは夜明けに池に帰ってくる鴨を扇形の網を放り投げて捕える猟だ。いまもこの猟を行うのは加賀大聖寺の鴨湖、宮崎県佐土原町の巨田池だけで、一度テレビ番組でこの猟を見たことがあるが、絶妙なタイミングを狙って網を放り上げなければならず、よほどの経験を積まないとならないと紹介されていた。
鬱蒼とした森の中の長い参道を行く。ガローとは異なる意味で非常に神聖さを感じる空間である。池畔近くの社殿は沖縄の神社の印象に近い。社名は太宰府の宝満宮(竈門神社)に因んだものだろう。祭神は玉依姫。水神=龍神と関係させたものか。同社の縁起書には以下の伝説が残る。「昔々、日照りに苦しんだ土地の人々が、宝満の池の水を田んぼに引こうと谷を掘り進めて池の近くまで来ると、大岩が行手をさえぎった。人々はその大岩を切り崩そうとしたが、大岩から真っ赤な血の色の泉が噴き出してきた。すると、にわかに一陣の怪風が吹き、巨木の如き大きさの怪物が現れ、大蛇がまろびでて空中に舞い上がった。人々は、大変おそろしく思い、茎永にあった遠妙寺の僧日敬に祈祷をお願いした。懸命に祈り続けること十七日間、ようやく赦しが出たのか大雨が降り田を潤した。大雨がやむと、宝満の池に小さな龍頭の舟に乗った美しい女性が現れた。僧侶は、このお方こそ玉依姫に間違いないと思い、恐れ敬って九拝し心より敬い奉った。これ以降、玉依姫は宝満大菩薩と崇められるようになり、その木造が造られ遠妙寺に祀られた」(境内案内板)因みに遠妙寺はいまも茎永にある法華宗の古刹で、日敬は実在した僧だが江戸時代の人である。この伝説は後世の付会であろうが、農耕との密接な関わりを持っていたことが察せられる。要するに当社も水の神なのである。
その証左が御田の森だ。道を挟んだ向かいに「たねがしま赤米館」という施設があり、その裏に御田の森がある。宝満神社の神田(オセマチ)に隣接するガローで、取り木の根元には珊瑚石の祭壇がある。三月に御田植祭を行い、神田では赤米を栽培している。赤米は対馬は豆酘の多久頭魂神社の神饌が有名だ。神田にも赴いたことがあり、なにか関係があるのかと思っていたが、品種は異なり、対馬はジャポニカ、当地はジャバニカである。渡来ルートは対馬が北方(朝鮮)経由、種子島は南方経由になろうか。神事は海からはじまる。①潮井(シュエー)取り:神主が早朝海に入り玉シダで7つの波を越えて真砂をすくう。②御田の森の祭り:真砂をすくった玉シダを御田の森の木の下に置き、玉シダの前に供えて祈る。③御田植え:御田植え舞を舞う。④直会:田植えの後の宴会。(出典*1)
この神田は舟田といい、舟のかたちをしている。玉依姫が乗ってきた舟に因んだものと考えてもよいが、おそらく初めから舟形であったように思える。南方から舟で赤米を運んできた渡来の民( ≒ 神)に因んだと考えたい。来訪神との関わりが気になるが、種子島には悪石島のボゼや硫黄島のメンドンなどのような特異な民俗は見られなかった。舟田は御田の森をまっすぐに向いている。森の入口には石段が設けられ、中に入ると蘇鉄が目につく。奥に進むと珊瑚石の祭壇があり、ここに赤米の苗やシュエイを供え、稲に森の神の力を宿らせるという。珊瑚石はテーブル珊瑚だ。きっと浜に打ち上げられたものを持ってきてここに据えたのだろう。それは南方の聖地然としていて、どこか沖縄の御嶽を思わせる光景だった。
舟田から御田の森へ
御田の森の中心部
宝満神社の北側一帯は見渡す限りの水田だ。ガローを求めて移動する。500mほど行った田の畦にそれと思しき小さな森があった。穀倉地帯のガローはある程度判別が可能だ。丸くこんもりと茂った森はほぼガローといってよい。おそらく田の持ち主が祟られることを気にして伐採しないのだろう。祀られている様子は伺えない。さらに500mほど行くとガイドブックにも記載された峯先のガロー、そしてその先の山裾の雨田公民館の隣にもコーガシラのガローがある。峯先のガローはもう誰も顧みることのない森だろう。ここがガローであったこと、かつての祀りのありようは古老の記憶にすらないように思えた。
御田の森近くの路傍のガロー
峯先のガロー
コーガシラのガロー(外観)
一方のコーガシラのガローは場所がよくわからない。赤い鳥居の先に急勾配の石段があったので上ってみた。小祠があったが、見る限りこれはガローではない。集落の氏神(豊受大神)の雨田神社だろう。とするとガローはどこなのか。周囲を探索するがそれらしき森は見つからない。諦めて帰りかけようとした時、石段の陰に自然石が立っていることに気づいた。公民館のある森全体がガローだったのである。たしかに取り木や榊立てらしきものがあって、ここが祀りの場だと確信する。資料には昔から入ってはいけない場所と恐れられてきたとあったが、もう祀られている様子はない。それと言われなければわからない聖地は意外に多いのだ。とりわけ、その土地の民間信仰に連なる場所は外来者にはまずわからない。だが、地霊や精霊は草葉の陰から睨めつけるようにじっとこちらの振る舞いを窺っているのだ。その気配を感じ、出会えたことに感謝である。一礼して写真を撮ってからその場を後にした。
雨田神社
コーガシラのガロー
路駐した車に戻ろうと道を行くと、トラクターの脇に座ってたばこをふかしている御仁がいた。ガローの前の田の持ち主だろう。訝しげにこちらを見ているので挨拶して少し話す。島を出て働いていたが十数年前に戻って田を継いだとの由。ガローではいまも祭りを行っているのかと尋ねると、若い頃はヤンキーだったと思われるその男性はくわえたばこで遠くに目を遣りながら鷹揚に首を振った。知ってはいるがさして関心もないという素振りは、このガローも遠からず消滅するだろうという感を強くさせた。そういえば日本にたばこが渡ったのはここ種子島だ。鉄砲伝来に時を同じくするという。
(2025年5月30日)
出典
*1 赤米サイト 南種子赤米
参考
*1 南種子町教育委員会・南種子町文化財保護審議会「南種子町の神社・仏閣」平成30年
*2 下野敏見「種子島の民俗Ⅱ」法政大学出版局 1982年
*3 鹿児島大学比較民俗学研究室「南種子町民俗資料報告書(2) 南種子町の民具」南種子町教育委員会 平成7年3月
*4 谷川健一編「森の神の民俗誌」日本民俗資料集成第21巻 三一書房 1995年
*5 岡谷公二「神の森 森の神」東京書籍 昭和62年