神明神社:山梨県韮崎市穂坂町三ツ澤2844
穂坂自然公園入口:山梨県韮崎市穂坂町宮久保
本宮倭文神社 山梨県韮崎市穂坂町柳平3195
御崎神社:山梨県韮崎市穂坂町宮久保5376
大六天社:山梨県韮崎市穂坂町三之蔵5829
再び「お腰掛け」である。管見の限りだが、お腰掛けの所在が確認できたのは前稿で紹介した山神社を含めて10ヶ所である。本稿では穂坂町を、次稿で旧敷島町と明野町を取り上げ、最後に各所の比較を通して僕なりにその輪郭を明らかにしてみたい。
神明神社
神明と名のつく神社は天照大神を祭神とするが、全国に五千社近くあるらしい。古くは御厨(神領)とされたが、近世の伊勢信仰の広がりに伴って、全国どこにでも勧請されるようになった。東京の我が家の近くにも神明宮や天祖神社などあるが、いずれも鎮守としての性格が色濃い。地主神の名前がわからなくなった結果、上書きされたケースも多いと聞く。
横長の境内の端に拝殿と思しき建屋があり、その背後に木造のお腰掛けがあった。柱はまだ新しいので近年に造替されたものか。中には笠石を載せた道祖神のような神体石が据えられている。山神社では枯れた榊の神籬だった。お腰掛けといってもその祀り方は様々なのだろう。
少し離れたところには樹木の下に石祠と石が祀られていた。しつらえはミシャグジを思わせる。一帯の信仰をすべてこの境内に寄せたようで、道祖神、庚申塔、榛名山大権現などいろいろな神々が集まっている。僕があちこちで写真を撮っていると、老夫婦がそれぞれ車でやってきて境内の前の畑で農作業をはじめた。品の良さを感じさせる夫人から「どちらから?」と声を掛けられる。「東京からそこのお腰掛けを見にやってたんですが、こちらの由緒のようなものはご存じですか」と尋ねてみた。「うーん、近くに住んでいてお祭りをやってるのは知ってますが詳しいことは…あなた何かわかる?」とご主人に答えを振る。だが、彼は黙って首を横に振るだけだった。
甲斐国志には以下の記載がある。(出典*1)やはり元々はミシャグジなのだった。
社宮神 三ツ澤村 社地六百八坪無税地ナリ 社記ニ曰ク土ノ祖埴安姫ヲ祀ル 祠ナシ 社地ニ大ナル楥ヲ置テ御腰懸ト称ス 祭月ハ八朔ナリ 田面ノ祭ト云 神子神樂アリ 宮久保村神主兼帯ス
穂坂自然公園入口のお腰掛け
延喜式内社に名を連ねる倭文神社からすぐの場所、穂坂自然公園の入口に立つ看板の後ろに四角い石組みがある。形状からすると間違いなく小さなお腰掛けである。中には石棒のような石が立ち、前にはいわくありげな自然石が据えてある。
注連縄、紙垂、幣帛、その他の供物などは一切なく、日頃から祀られている様子はない。神社でも道祖神でもなく、ただ人工の四角い石組みの中に石が立っているだけなのである。近在の人も顧みることのない路傍の石造構造物。見方によってはシュールな光景である。地権者や行政が邪魔物扱いして撤去しないことを心から望む。一種の民俗文化財といえるが、モダンアートとしても十分に成立する存在感だ。説明板の一つでも立てておけばよいと思った。
本宮倭文神社
拙稿「甲斐のミシャグジ(その2)」で当社本殿の御神体が石棒であることを紹介したが、この本殿の脇にも石組みの構造物がある。石棒を御神体とするためか、石組みの中には何もない。また、祀られている様子も窺えない。
山梨県神社庁ホームページの由緒沿革を見ると「宮久保の倭文神社の山宮であった七夕社と上村組にあった神明社、窪村組の貴船神社それに武田時代烽火台といはれてゐる城山の天神社が貴船神社地に合併して本宮倭文神社と社名を改め昭和三十四年神社本庁より許可された」とある。(出典*2)御神体の石棒には倭文神の文字が確認できるが、その字面を見ると彫刻されてからそう時間が経ってないと思われる。つまり、元々山宮の七夕社で祀られていたミシャグジとお腰掛けを倭文神社の本宮に上書きするための作為ではないかと思えるのである。既にお腰掛けは祀られぬ神になっているのだが、もし仮にその価値が見直された時、合祀を推進した集落の人々や県の神社庁はいったいどう対応するのだろうか。
御崎神社
最初に訪れた時はミシャグジの可能性を探りに行ったので、どこにお腰掛けがあるのかわからなかった。山梨の御崎神社にはほぼ白狐がおり、稲荷神が祀られているがここに狐はいない。代わりに覆屋の中の本殿の上に小さな鬼の面が据え付けられているが、鬼(般若か)がどういう意味を持つのかはわからなかった。山梨県神社庁による由緒は以下の通りだ。
宮久保新田の鎮守である。創立年月不詳であるが、この地の新田開発は寛文年間ごろといはれ、宝永三年(1706)の記録をみるとすでに末社御崎大明神社地二十間と十二間とあるので、新田開発と時を同じくして稲荷の神を祀り、ここを御崎平と呼んだものと思はれる。(出典*2)
狭い境内の隅に枝を拂った樹木が立っており、御柱との関連を考えたくなったがこれは早計だろう。なんでも諏訪信仰に結びつけてしまいたくなるのだ。但し、過去の投稿で指摘した通り、ミシャグジがミサキに転訛した可能性はあるかもしれない。
お腰掛けを探すと拝殿の右側を少し下ったところ、大樹の下にそれはあった。朽ちかけた木造のお腰掛けで、枯れたイチイが柱に結えつけられている。修験者が奉納したであろう宝剣と幣帛、その後ろに小さな立石が二つ。この設えは山神社に似ている。だが、ここにお参りする人はたまの修験者か僕のような物好きだけだろう。このお腰掛けも朽ちるままにされ、建て替えられる日は来ない様な気がした。
大六天社
お腰掛けの礎石が残っているというので行ってみた。茅ヶ岳農道を明野町に向かう途中、右手の山の中腹にある。大六天とは仏道修行を妨げる障擬(しょうげ)神のことだ。織田信長が自らを擬えたという第六天魔王ともいわれ、東日本に多く分布する。(西日本では秀吉が神威を怖れて根絶したらしい)障擬神は転じて守護神となるが、天神など怨霊がやがて神として祀られる御霊信仰と構造は同じだろう。
中腹まで登ると左手が平らに開け、古さびた木の鳥居が迎えてくれる。その先に拝殿がある。といってもいわゆる神社の造りではない。失礼だが一見するに物置にも見える素っ気なさである。裏に回り込むと石段がついているが枯葉で埋もれている。上ってみると樹の間に細い縄が渡され、結界が張ってある。頭を下げて中に入ると石の祠が一基とその両脇に錆びた宝剣。後ろに礎石が認められた。
果たしてここにお腰掛けがあったのだろうか。あったとすれば四方4m弱はあるので、そこそこ大きなものだったのだろう。だが、いまは神様が腰掛けたり、依代とすべきものはなにもないのである。唯物論的にいうなら、既に信仰の実態はない。氏子47戸とあり、宮司もいるらしいが、年に一度か二度、正月と祭日に地元の古老が集うだけなのかもしれない。
ということで、穂坂町のお腰掛けを見てきた。木造か石造の四角い構造物ということを除いて、すべてに当てはまる共通項はない。前稿の山神社では諏訪信仰との関連についての仮説を持ったが、今回の五社では確たるエビデンスは得られなかった。とはいえ、お腰掛けの中には立石があったり、榊が立てられており、樹木を伝って石に依りつくミシャグジの様態を彷彿とさせる。神明神社の旧社名も社宮神なのである。一方、地理的に見ると山梨の諏訪神社は中西部に多く分布し、諏訪の地から甲州街道沿いに東南に信仰が伝わっていった様子がよくわかる。須玉町の諏訪神社では御柱祭が続けられているし、洩矢神の孫の千鹿頭神を祀る近戸神社の名も見え、諏訪信仰の影響は一帯に色濃く残っているのだ。これらから考えるとこの辺りはミシャグジ祭政体に組み込まれていた可能性を強く感じる。最終稿では残り四社を訪ねる。いったいどんな景色が見えてくるだろうか。
(2024年11月3日、12月29日)
出典
*1 甲斐国志34 P8/61 国立公文書館デジタルアーカイブ
甲斐国志34
出典・参考
*2 山梨県神社庁ホームページ
参考
拙稿「甲斐のミシャグジ(その2)」
拙稿「お腰掛け」甲斐 山神社