吉備津神社:岡山県岡山市北区吉備津931
吉備津彦神社:岡山県岡山市北区一宮1043

両社は吉備の中山の北麓を挟んで相対するが、同じく大吉備津彦命を祀る古社である。孝霊天皇の子である大吉備津彦は、日本書紀の崇神紀に四道将軍の一人として西道に派遣され、当地を平定したとの記録がある。また、吉備津宮縁起をはじめとする各種伝承には、温羅(うら)という百済から渡来した王子(その形相から鬼とされた)が悪行を尽くしており、人民の訴えからこれを退治したのが吉備津彦とされており、中山周辺にはこのエピソードに因む聖蹟が数多くある。のちに桃太郎の鬼退治に擬えられたのは知られるところだ。当時はヤマト王権が確立される途上であり、各地に群雄割拠していた豪族を征討したということのようだ。(温羅伝承の詳細は参考*1のリンクを参照)

 

まずは吉備津神社を訪れよう。吉備津造の社殿はたいへん見応えがあり、再訪だがその意匠の妙に思わず唸ってしまう。比翼入母屋造(ひよくいりもやづくり)ともいい、二棟の入母屋造を結合させて一棟とした建築様式で、反り返った檜皮葺の屋根の両翼はまるで翼を広げた鳳凰のように見える。美しく且つ洗練を極めた外観なのだが、その一方で壮大さを感じさせ、祭神への深い崇敬を感じる。しかし、いったい誰がこのようなデザインを考え出したのか。

 

 

 

現在の社殿は室町時代初期に三代将軍足利義満が造営を始め、応永32年(1425)に落成、遷座している。焼失したその前の社殿の造営には、東大寺再建を任じられた僧、重源(ちょうげん)が関わっていたらしい。重源には朝廷から造営両国(注*1)として備前国が与えられており、荘園の開発や寺社の修復に当たっていた。また重源は、当社の神職一族の出身で臨済宗を開創した栄西とともに宗に渡っており、天竺様という建築様式を持ち帰ったとされる。現社殿にもいたるところに天竺様の手法が用いられているといい、前身もほぼ同じ様式であったと推定される。(参考*2)この様式の類例はほとんどないが、法華経寺の祖師堂(千葉県市川市)も同じ様式であることから、鎌倉時代にはこの様式が成立していたと思われる。

法華経寺 祖師堂

社殿の西側に沿って長く延びる廻廊もまた素晴らしい。全長は400m近く、廻廊の途中には摂社や弓道場などもあって、行ったり来たりするだけでも楽しい。長い廻廊はこの先に何があるのだろうかという探検、好奇心をくすぐる。人間の本性(≒脳)はいつも何か新しい物事との出会いを求めているのだ。

 

 

 

廻廊の中程に当社の台所だった御竈殿という建物がある。この中で「鳴釜神事」が行われている。上田秋成の「雨月物語」中の怪異譚に登場することはご存じだろう。吉備津彦は、退治した鬼(温羅)の首をこの釜の下の地中深くに埋めたが、怨念を遺しており、髑髏になっても吠え続けたという。温羅は後に吉備津彦の夢の中に現れて「我が妻の阿曽媛(あぞめ)に御釜殿で神饌を炊かせ、ゆたかに鳴れば吉、荒々しく鳴れば凶」と宣ったという。竈神に転じたということか。カマドを神として扱うのは古来から各地に見られた民俗であり、筒粥神事に同じく、火や食料への感謝と豊穣を願っていた。平安時代になって陰陽道の影響が加わり、吉凶禍福を占う神事となったようだが、当社ではここに吉備津彦の温羅退治伝説が習合したということなのだろう。因みに、鳴釜神事は一般の参詣者でも玉串料を納めれば祈祷を受けられる。

 

 

さて、次は吉備津彦神社に向かう。吉備の中山みちを東に1.6km、徒歩でも遠くはない距離だ。一説に大吉備津彦の住居跡に創建されたと伝わる。境内の結構は異なるものの、社殿は拝本殿、渡殿、祭文殿が一体となったもので、側面から眺めるとその印象は吉備津造に似ている。備前(吉備津彦社)、備中(吉備津社)と往時の国境であった吉備の中山を境にそれぞれが大吉備津彦を祀っている。吉備津彦神社は延喜式内社には叙せられておらず、格式として吉備津神社が上のように思えるが、備前国一宮でもあり、そういうことでもないようだ。こちらは山内に元宮磐座を有していて、僕の関心は建物よりもそちらに向いてしまう。

 

 

 

早速登山口に向かう。といっても標高は最高地点でも175m、勾配は緩やかで登山という感じではない。散歩気分で歩けるのだ。500m進むと元宮磐座がある。前に立つ説明板にはこの岩についての古い記録はないとしているが、夏至の日にはこの磐座と吉備津彦神社の本殿を結ぶ延長線上に太陽が昇るという。古代の祭祀では二至二分を重んじており、ここが元宮であったとしても違和感はない。ここから100mほど東に進むと天柱岩と称する磐座があるが、山内の他の場所にも磐座と思しき巨石が点在しており、これらの場所で祭祀が行われていた可能性は十分にある。だが、それは大吉備津彦がこの地を平定する以前からの信仰であり、それ以前の吉備国、つまり温羅の時代においてもここは聖地として認識されていたのではなかったか。

元宮磐座


 

天柱岩

 

この山には吉備津彦の陵墓に比定される中山茶臼山古墳をはじめ、三世紀から七世紀にかけての古墳が四基確認されている。他にも温羅を祀る寺社、環状石籬(磐座か)、八代龍王を祀る龍神社や経塚などまだまだ見どころがたくさんある。すべて見て回るには両社の参拝を含め終日かかることを覚悟した方がよいだろう。
 

八徳寺 穴観音(磐座か)

 

中山茶臼山古墳(大吉備津彦陵墓比定地)

 

さて、駆け足で両社を巡ってみたが、僕の専らの関心はまつろわぬ鬼、温羅である。伝承の上では暴虐の限りを尽くす極悪非道とされ、その魁偉な容貌も相俟って「鬼」と見做されていた。だが、一方では造船技術やたたら製鉄をもたらし、地域の発展に寄与したともされている。どちらが事実に近いかといえば後者ではないか。そもそも為政者は歴史を自らに都合よく書き換えるものだ。四道将軍はヤマト王権にまつろわぬ豪族を征討するために派遣されたのであり、体面上は民からの申し出を受けた討伐としているが、その実は権勢争いに過ぎない。いくつかの事柄を時系列で整理しておこう。

①3世紀半ば?  百済から温羅が渡来
②3世紀末?   四道将軍の派遣
③4世紀初?     中山茶臼古墳(大吉備津彦陵墓)の造営
④5世紀前後   大和朝廷の成立
⑤660年          百済国の滅亡
⑥663年          白村江の戦い
⑦7世紀末?     鬼ノ城(温羅の根拠地伝承)の築城

仮説に過ぎないが、王子ではないにせよ百済から何者かが日本に渡り、古代の吉備を統治していたことは十分にあり得る。同時期に新羅の王子、天日槍(アメノヒボコ)が渡来し、但馬国に居を構えている。また、倉敷の古名である阿知は、東漢氏の祖、阿知使主(あちのおみ)が渡来し、定住したことに由来する。この頃、三韓から多くの渡来民が日本に赴いていたことは日本書紀などの史料をあたっても間違いないと思われる。温羅の場合は、帰属をよしとせず、ヤマト王権に拮抗する豪族としてこの地に君臨したのではないだろうか。そうした意味では国譲りを迫られた出雲王権に近しい存在といえまいか。居城とされる鬼ノ城については平定された年代からずいぶんと離れるが、苦戦を強いられた温羅が退却した際に根拠地とした場所のように思える。鬼ノ城は、白村江の戦いの後に防衛のためにヤマト王権が築城したと伝わるが、過去の事跡から再利用したのではないか。因みに鬼ノ城の「鬼=キ」は百済の言葉で「城」を指すという。
 

鬼ノ城西門(復元)

 

 

加えて温羅と製鉄について見てみると、おもしろいことがわかる。鳴釜神事の釜は鬼ノ城山の麓、阿曽という地でつくられたものを用いるきまりとなっていた。温羅の妻は「阿曽媛」である。この地名は阿良蘇が変化したもので「あら」は大の意、「そ」は金の意で鉄の産地を示す。阿曽村は近世まで鋳物師の一大集落であったらしい。さらに、阿曽に流れる血吸川(足守川の支流)には鉄の産地を思わせる伝承がある。吉備津彦命が放った二本の矢のうち一本が温羅の左目に命中し、温羅の目から噴き出す血で清流が真っ赤に染まったというものだ。これは川が鉄分を含むことを表すとともに、たたら師の職業病-炉の炎の色を見つめ過ぎて片目を失明する-を象徴している。(参考*3)また、古代のオニは隻眼として表されることが多いというが、これも温羅が鬼とされたことに繋がるのではないか。ヤマト王権側からすれば、まつろわぬ渡来豪族を征討するだけではなく、鉄の産地と製鉄技術を手中にする目的もあったのだろう。

鬼は悪さをし、畏れられる存在だが、一方では親しまれる存在でもある。青森の津軽では、鬼神社の伝承に見られるように、転じて善行を行う鬼が多く、鳥居の鬼コなども人々に親しまれている。温羅も現代では「おかやま桃太郎祭り」の一環、「うらじゃ」の演舞で知られるところだ。ところで、吉備津神社の正宮外陣の四隅の内、鬼門の北東には艮御崎宮として温羅が祀られている。また、倉敷にも艮御崎神社が鎮座する。平将門、菅原道真、崇徳上皇を引き合いに出すまでもなく、強い怨霊は転じて神となるのである。

(2024年5月18日、2019年2月2日)


*1 造営料国:内裏や寺社の造営などの特定の資金を調達するために租税を課す国

参考
*1 温羅伝説 総社市ホームページ
*2 田端実夫「吉備津神社」「吉備津彦神社」
  日本の神々-神社と聖地-第2巻 山陽・四国 所収 白水社 1984年
*3 谷川健一「青銅の神の足跡」集英社 1979年