豊平(南大塩) 御頭御社宮司社:長野県茅野市豊平3716
米沢 御社宮司社:長野県茅野市米沢3212
福沢 御社宮司社:長野県茅野市豊平1171-1
上桑原 御頭御社宮司社:長野県諏訪市四賀4408
御頭御社宮司社:長野県茅野市宮川

諏訪の聖地探索の際の定宿は上諏訪ステーションホテルにしている。勝手気儘なひとり旅にとってこの宿はなにかと都合がよく、しかも宿泊費がリーズナブルなのだ。もちろん温泉もある。露天風呂は小さいが片倉館と同じ深さの岩風呂で、熱い湯が心地よい。食事は鰻屋や蕎麦屋など周辺にいろいろあって事欠かない。おまけに夏の夜は毎日湖畔の花火を眺められるのである。断っておくが宣伝ではない。

のっけから脱線した。朝一番で星糞峠の鷹山遺跡群に向かう。縄文時代の黒曜石の採掘跡で露頭を展示した施設が最近出来たのだ。ここから尖石遺跡まで下り、二体の国宝土偶に挨拶してから茅野のミシャグジを回ることにした。

まずは南大塩の御頭御社宮司社へ。お気づきになった方がいると思うが、冒頭の五社の内、三社は「御頭」の冠がついている。「御頭」とは何か。当社の案内板を引いておこう。

鎌倉時代の御頭祭は、信濃国内の氏人により奉祀されたが、時代の変遷により大きく変化してきた。諏訪頼水の時代には、郡内を十五の親郷に分け御頭役を勤めさせた。土地の諸霊を鎮め、農耕の豊穣を祈る神事である。南大塩は親郷として、元和四年から交替で奉仕してきた。親郷の御社宮司社は、「御頭御社宮司社」と呼ばれている。地域の人々は、御明神様といって日頃から崇敬している。諏訪忠林の旧藩主手元絵図にも、上と下に氏神と標記されている。諏訪大社祭事表に、御頭御社宮司社祭(豊平)六月二十八日と定められ、当日は、大社の神官により神事が行われている。南大塩区

御頭祭とは、諏訪大社上社で行われる年中神事の中で最も重要な祭りの一つとされ、別名「酉の祭」や「大御立座神事」とも呼ばれている。毎年4月15日(旧暦3月酉の日)に、上社本宮から前宮へ神輿が渡御され、前宮の十間廊で神官による神事が執り行われる。五穀豊穣や狩猟の成功を祈願し、果物、野菜、肉などとともに、かつては生きた鹿の頭75頭を供えていた。

神長官守矢資料館

 

例によって格子のある覆屋。小さな境内の四隅に御柱が建っている。左に石祠。こちらにもかわいらしい御柱が。石祠の中に依り代の石棒は見当たらない。今井野菊氏の踏査集成には豊平南大塩のミシャグジは二か所記載されており、由緒の欄を見ると、御社宮司社は「曲り小平氏の祝神」、御頭御社宮司社は「芝間の御社宮司」とある。なんのことやらさっぱりわからないが、親郷を芝間とし、曲りは小平氏という当地氏族が奉ずるミシャグジらしい。ということは、上下の上がこちらか。御頭祭は諏訪大社上社が行うものなので、上社傘下のミシャグジの中に上下があることになり、ややこしい。いずれも御頭、即ち郷の代表とされ、御頭祭の経済的負担を担えるだけの生産力があったと思われる。

 

 

 

近くにある七ヶ耕地の名所・旧跡案内図という案内板に眼を凝らすと、南大塩の交差点そばに「小平佐五右ヱ門」とプロットしてあった。資料をあたるとこの御仁は湖東のこの一帯を新田として見立て、開発にあたらせた氏族らしい。(参考*1)当地以外にその小平氏が奉じた祝神があり、こちらが下の御頭御社宮司社とされているようだ。(参考*2 および*3)   この一帯は江戸時代に入ってからの開墾地であり、古くからのミシャグジ信仰を伝えるものではないようだ。

次は米沢の御社宮司社だ。八ヶ岳を望む景観は頗るよい。二本の樹下にある佇まいもそれらしくてよいのだが、大きな倉庫の後方にへばりつくように鎮座しているのがいただけない。地権者にしてみれば先住のミシャグジを撤去するわけにもいかず、やむなくこうした建て方をしたのだろうが、もう少しやりようがなかったものか。敷地内には石碑や石仏が並んでおり、左側の石碑には武士と思しき姿が刻まれている。真ん中の石標には湯殿山とある。祠の前に首のない石仏があるので、おそらくは明治の神仏分離令によって淫祠邪教と見做されたものがここに寄せられたのではないだろうか。

 

 

 

 

 

続いて上川沿いを2kmほど下って、福沢の御社宮司社を訪ねた。前々稿で取り上げた千鹿頭神社のほど近く、集落の中の小高いところにあって、ミシャグジの中では比較的立派な造作の社殿を構えている。だが、ここも境内の一角に苔生した石祠が多数並んでおり、いずれも正体不明である。脇の鳥居の先を上がってみると摩利支天の名も見える。ここでは御柱祭を除いて、いつどんな祭事が行われているのだろう。近くの千鹿頭社との関わりも気になるところだ。

 

 

 

 

次は上桑原の御頭御社宮司社だ。立札には「祭神はお明神様のお子神様で、集落の守り神様として大切な神様であり、村が始まる時から祭られていた。江戸時代は千石から千二百石を越える大村に祭られ、諏訪大社の祭事に奉仕した」とある。踏査集成にも「村持」とあるのでまさしく鎮守である。樹下に小さな石祠が二基。中には石棒などの依り代はなく、真新しい紙垂が下がっていた。脇に「御嶽山座王大権現」の巨大な石碑。端に覆屋。双体道祖神も三基みえる。因みにここは諏訪きっての古刹、仏法紹隆寺から歩いてすぐの場所にある。同寺では諏訪大社上社神宮寺普賢堂の本尊であった普賢菩薩像が拝観できる。普賢菩薩は諏訪大明神の本地であり、そのものとして祀られてきたという。こちらも必見だ。

 

 

 

 

仏法紹隆寺蔵  諏訪大明神御本地普賢菩薩

 

最後は宮川の御頭御社宮司社だ。中央高速道の脇にある。前宮が近いこともあってかこれまでの御頭二社とは異なり、境内はかなり広く、しかも整備されている。新しい立派な石の鳥居が立ち、狛犬もいる。覆屋の中の祠はまだ木の香りがしそうな新しいものだった。

 

 

 

氏子の方々の信仰の篤さの表れでもあろうが、裕福な土地柄でなければ、祭事の際に拠出する金品も人手も負担できなかっただろう。御頭を務める村の石高は千石以上というが、これは米俵で2500俵(150トン)、江戸時代の貨幣換算で7,000〜8,000万円になるのである。また、中世の「諏訪御符礼之古書」を参照すると、御頭には祭事毎に均して三貫三百文(現在価値で50万円程度)の役銭が課せられていたようだ。茅野、諏訪の御頭御社宮司社は十社確認できるが、その中でここ宮川、豊平、四賀、本町の四社には諏訪大社が神官を出して例祭を行うという。そうした村の矜持のようなものが、ミシャグジの祀り方にいまも生きているのではないだろうか。

さて、前稿も含めてさまざまな御社宮司社を見てきたが、ミシャグジを祀ることには違いはないものの、往時の祀りの趣を残すのは諏訪を離れた場所のように感じた。他の地域のミシャグジを訪ねていないので確信とまでは言えないが、ミシャグジ信仰圏の中心はあくまで諏訪大社上社であり、求心力のあるお膝元では確固たる文化様式が確立されていく。これは武士の関わりや財政支出などを含め、中世にかけて諏訪大社を中心に公の祭政体として形式を整えていったことと無関係ではないだろう。一方、外郭は中心の影響を受けにくいため、離れるほどに原形を留めたままであったり、地域文化が干渉して名称や祀り方が変化しているように思える。

諏訪大社上下の四社では、御頭祭りをはじめ今も古来の神事が営々と営まれている。だが、現代の諏訪に生きる人々にとってはなんといっても御柱祭がその中心であり、ミシャグジに連なる古層の信仰はとうの昔に形骸化しているように思える。というのも、茅野のスナックで話した二十代の女性三人は、ミシャグジはおろか諏訪大社の祭神も知らず、タケミナカタというと「それ誰?」だったのである。
(2024年8月8日、9日)

参考
*1 小西 恵美・樋口 博美「御柱祭を成立させる地域的構成の単位とその歴史的変遷―茅野市湖東地区の事例―」専修大学学術機関リポジトリ
*2  八ヶ岳原人 旧南大塩村の『下御頭御社宮司社』
*3 「諏訪大社 祭事と御柱」信濃毎日新聞社 1993年
*4 「諏訪御符礼之古書」信濃史料叢書(中)歴史図書社 1969年
       諏訪御符礼之古書 信濃史料叢書, 第 3 巻 Googleブックス