山ノ神遺跡:奈良県桜井市三輪21−1(三輪山山内、大神神社境内地)

 

 

大鳥居の脇に車を停める。春休み最終日ということもあって参道は人であふれていた。初めて大神神社を参拝した際には、摂社狭井神社の境内から御神体の三輪山を登り、山頂の奥津磐座を目指した。もう八年になる。この間、数多くの磐座、磐境、石神などと呼ばれる巨石や巨石群を実見してきたが、三輪山の奥津磐座は僕にとって巨石信仰に関心を持ついわば原点ともいえるものだ。今回は山麓の磐座、山ノ神遺跡を訪ねてみた。

大神神社拝殿

狭井神社拝殿


三輪山登拝口


さきに三輪山に大神神社の祭神、大物主が祀られたいきさつを振り返っておこう。記紀双方に記されているが、ここでは日本書紀の神代七段、一書の六を要約しておく。

国土平定を成し遂げた大己貴神は、次にこの国を治めることを決意する。しかし、協力者である少彦名命が常世国へ去ったため、新たな協力者を探す必要があった。そこに海があやしく光って、一柱の神が浮かび現れた。この神はこの国を平定できたのは自分の存在があってこそだと告げ、大己貴神の幸魂奇魂(注*1)であると名乗った。大己貴神がこの神にどこに住みたいかと問うと三輪山に住みたいという。大己貴神はすぐに宮をつくり、そこに住まわせた。

大己貴神は大国主神のことだ。異名の多い神で古事記では大穴牟遲神、葦原色許男神、八千矛神、宇都志國玉神と併せて五つの名がある。加えて、日本書紀では「和魂荒魂」と「幸魂奇魂」に分かれるのである。多重人格者のようだが、大国主神は国つ神(注*2)を代表する人格神であり、さまざまなキャラクターが習合した神と見るべきだろう。因みにこの条ではまだ大物主という神名は登場しない。

人混み甚だしい大神神社や狭井神社は避け、直接山ノ神遺跡に向かう。大神神社の縁起「大三輪鎮座次第」(嘉禄3年・1226)には「当社古来無宝倉、唯有三箇鳥居而巳。奥津磐座大物主命、中津磐座大己貴命、辺津磐座少彦名命」との記述が見える。この三つをもって三輪山の磐座とされるが、特定の三ヶ所を指したものではなく、群として認識していたようだ。山中には他にも多くの祭祀遺跡が認められており、山ノ神遺跡は辺津磐座の一つだ。古代の神々は多くが樹木や岩石を依り代としているが、その場所は一定の規則をもって設定されていたという。三輪山においては磐座が計26ヶ所確認されており、山麓から山頂を望む4本の「磐座線」なる大まかな分類が提示されている。(参考*1 禁転載のため詳細は本書を参照のこと)といっても、山の西面のほとんどは大神神社境内の禁足地であり、登拝して奥津磐座を見るか、民有地の山ノ神遺跡を見るかしかない。


狭井神社脇、山の辺の道から入る

山ノ神遺跡への岐路

 

狭井神社の脇の細い道を登っていくと、やがて道は二岐に分かれる。右は辰五郎大明神に至る参道、左は山ノ神遺跡に通じている。祭日なのか辰五郎大明神には何人もの人が入っていくのだが、山ノ神遺跡に向かう人は僕のほか誰もいない。大勢の参拝者が行き交う狭井神社は目と鼻の先だ。こちらは嘘のように静まり返っている。二本の木の柱の間に注連縄を渡した簡素な鳥居が見えた。続く参道らしき道を入っていく。

 

 

 

遺跡には玉垣が巡らされ、中に玉砂利が敷き詰められていた。中心に巨石が立ち、周囲に小ぶりの岩石が五つ配され、まるで祭壇のように復元されている。國學院大學博物館の常設展示にはこの遺跡の復元模型があって何度も見ているのだが、まるで様相が違う。とってつけた感があるのだ。これまで磐座祭祀の空間を訪れて感じてきた”厳粛さ”や”ただならぬ感じ”にどこか欠けるのである。

 

 

 

 

発掘の経緯は、大正7年5月に辺津磐座の一つと見られる巨石を土地の所有者が開墾のために動かしたところ、臼玉が入った素焼の坩(つぼ)が発見されたことにある。しかし、県が本格的な調査を始めるまでに三か月が経過し、その間巨石は勝手に動かされて数多くの出土品が持ち去られてしまい、一部は骨董屋で見つかったという。
 

 

國學院國學院大學博物館の復元模型


発掘時の状況図(出典*1)を見ると、國學院大學博物館のそれは忠実に再現されているが、現在の復元状況は発掘時に寝ていた甲の巨石を立てて祭祀遺跡らしさを演出したように見受けられる。また、その場所も動かされているらしい。行政や考古学者の関与があってもこうなってしまうことに、文化理解と維持保存、あるいは民度ということをあらためて考えてしまう。明治神宮外苑の樹木を大量に伐って再開発を目論んだり、都庁舎のプロジェクションマッピングに多額の税金を使ったりするのも同根ではないか。日本人の民度は下がりっぱなしではないかとも思う。

さて、山ノ神遺跡は出土した遺物から古墳時代中期(五世紀末から六世紀初)の祭祀遺跡と考えられているが、それ以前からこの山への信仰はあったようだ。松倉文比古氏の考証では、大物主神は最初から御諸山に祀られた神ではなく、それ以前は当地の大王霊的地主神が祀られていたという。六世紀以降の中央祭官の整備に伴い、当地豪族の三輪君が任命されたことを機に、山の名称が御諸山から三輪山に変わり、大物主を祀るようになったとの説が提示されている。(参考*2)

関連する事柄を以下に挙げておこう。
・崇神天皇の夢に大物主が現れ、「疫病などの災厄は我が意によるものだ。意富多々根古(おおたたねこ、紀は大田田根子)という者に自分を祀らせれば国は平定すると」と告げた。
・意富多々根古は、河内の美努邑(みぬむら、紀は茅渟県の陶邑(ちぬのあがたすえのむら))で見つかり、自分は大物主の四世孫(紀では息子)と名乗った。
・三輪君は祖を意富多々根古とする。三輪君は君姓であり、天皇家に準ずる豪族であった。
・意富多々根古の出身地は須恵器発祥の地である。三輪山の祭祀遺跡から出土する須恵器はここでつくられたもので、その年代は六世紀に集中している。

日本書紀では、まず大己貴神に自らの幸魂・奇魂として祀らせ、その後崇神紀において後裔の大田田根子に大物主として祀らせている。大物主は出雲の国つ神であり、本来は天つ神と対立する神である。天つ神に連なる天皇が祀るにはそれなりの理由があったと考えなければならないだろう。なんらかの意図によって地主神を大物主なる神に上書きし、その祭祀を大物主を祖に持つ後裔の豪族、三輪君に担わせたのである。

三輪山南麓には「出雲」という地名が残る。地名は土地の歴史を表したものだが、大和王権が当地に進出する前に出雲王権に連なる人々が先住しており、勢力争いがあったとするのは早計だろうか。口伝では出雲族の一部が葛城山の麓に移住したとも伝わる。即ち、大和が出雲の服属を果たした後、まず先住の出雲族の神を祀り、その後も看過できない大きな対抗勢力として力を維持した彼らに国家祭祀を委ねたと考えられないか。物部連のように古代の祭祀権が軍事力に匹敵するものだったとすれば、出雲族を宥め、懐柔するのに十分な意味を持ったと思われる。学術的根拠のない妄想に過ぎないが、大物主の祭祀に関する記紀のエピソードは、このことに平仄を合わせたと解釈することも出来よう。記紀を対比するとさまざまな異同や捻じれが確認される。国史は時の為政者の歴史解釈や政治的意図において編集されるものなのである。これは現代にも通じることで、歴史認識はもちろん、マスコミ報道、SNSで拡散する言説などすべては一つの見方でしかない。鵜呑みにせずこれら一つひとつを質していく態度こそが、いま僕たちに必要なリテラシーなのかもしれない。

最後に「蛇」のことについて触れておこう。三輪山は蛇がとぐろを巻いた山容といわれる。また、箸墓神話にみられる通り、大物主は倭迹迹日百襲姫命のホトを突いてあやめた小さな白蛇だった。大神神社境内の杉の神木には白蛇が住まうといわれ、参拝者は今でも己さんに蛇の好物の卵を供えている。吉野裕子氏は、蛇は縄文時代においては祖神であり、弥生・古墳時代において穀物神、水の神という神格が加わるとしたが(参考*3)、三輪山の西南麓、大和川(初瀬川)右岸の台地にはかつて広大な縄文集落があった。大物主以前の地主神が縄文時代に通ずる神だとすれば、三輪山と祖神との関係が疑われる。つまり、山頂の奥津磐座は葬地ではないかという新たな問いが生じてくるのだ。奥津は奥つ城に転じるのである。



大神神社参道脇道の素麺屋でにゅうめんを啜る。この地の縄文人は三輪山をどんな思いで仰いだのだろうか。


(2024年3月31日)


*1 幸魂奇魂
一霊四魂(和魂、荒魂、幸魂、奇魂)の内、幸魂は狩猟、漁労などにおける獲物(さち)をもたらし、奇魂は超自然的な力によって人間に奇瑞をもたらすとされる(神道事典)
*2 天つ神・国つ神
一般的には、天つ神とは高天原に存在する神や、高天原に生まれこの国に降りてきた神々のことである。他方、国つ神は大別して、この国で生まれた神を差す場合と、天孫降臨以前にこの国に存在していた精霊とがあり、ときには地祇と同一視される。(神道事典)

出典
*1 大場磐雄「神道考古学論攷」雄山閣 1971年 

参考
*1 大神神社編 中山和敬著「大神神社(第三版)」学生社 2013年
*2 松倉文比古「御諸山と三輪山」横田健一編 日本書紀研究 第十三冊 塙書房 1985年
*3 三輪山文化研究会編「神奈備 大神 三輪明神」東方出版 1997年
松田智弘「大神神社」谷川健一編 日本の神々-神社と聖地 第四巻 大和所収 白水社 1985年

「古事記」岩波文庫 2001年
「日本書紀(一)」岩波文庫 2015年
水谷千秋「日本の古代豪族100」講談社現代新書 2022年
岡田精司「新編 神社の古代史」学生社 2011年
村井康彦「出雲と大和」岩波新書 2013年