石上神宮:奈良県天理市布留町384

当社を再訪したのはあるサイトで拝殿裏の禁足地を見学できると知ったからだ。初めて訪れた時の印象は専らニワトリで、国宝の拝殿や重文の楼門はあるものの、日本有数の古社とされる割にそれほど目に止まるものがなかった。禁足地があることは知っていたが、拝殿前からは窺えず、周囲は森で囲まれているためにその様子はさっぱりわからなかった。
楼門
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拝殿
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定刻の午後1時に社務所前に集合する。集まったのは20人程だろうか。授与品を受け取り、境内で整列させられた後、二手に分かれて神職からひと通りの説明を受ける。およそのことはわかっていた積りだが、岡山県赤磐市の石上布都魂神社から十握剣を遷した経緯など、新たな興味も湧いた。境内のニワトリについて訊いてみると、四十年前に氏子から奉納されて扱いに困ったが、記紀では神の使いとされていることから放し飼いするようになったとの由。縁起には「楼門前に鶏栖あり」とあり、元々いたことを知る氏子が復活させたものかもしれない。

禁足地を拝観する前に拝殿でお祓いを受ける。国宝に昇殿する機会などなかなかない。いい経験である。見学者は横一列に並んで座り、神官に促されるままこうべを垂れる。はっきりとは聞こえないが唱える祝詞は「布瑠の言」(ひふみ祓詞、ひふみ神言とも)なのだろうか。鈴の音にどこか鎮魂の趣を感じる。石上神宮の祭神は布津御魂大神、布留御魂大神、布都斯魂大神の三柱だが、有名な秋の鎮魂祭の祈祷は布留御魂大神、即ち十種神宝を”振る”ことに由来する。先代旧事本紀巻三の「天神本紀」には十種神宝の来歴が記されている。その一つ、死返玉(まかるかへしのたま)は「死人が生き返る」とされており、非常に強い霊力を宿した神宝である。こうした霊力は鏡、剣、玉、比禮など「物」に宿ると同時に、これを働かせるには祝詞の「言葉」や鈴などの「音」が必要になるだろう。宗教において音楽を奏上することの根源的な意味を考えさせられる。

さて、いよいよ禁足地の見学だ。神官に引率され、拝殿左の入口から脇の細い通路に入っていく。禁足地は周囲から1.5mほど高くなっており、周辺には先端が剣のように尖った石の瑞垣が巡らされている。なにやら物々しい。五人ずつ石段を上り、下図の赤い矢印の場所から内側を覗き込んだ。拝殿と本殿の間が「高庭」や「御本地」と呼ばれた禁足地だ。中央の白い砂礫の上に丸石が載っている。この下に御神体の剣、布津御魂などが埋められていたという。経緯をおさらいしよう。

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禁足地を囲む石瑞垣(出典*1)
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石上神宮の禁足地は、古来より神聖な霊域として崇められ、一般人の立ち入りはかたく禁じられてきた。明治時代に入ると近代化政策の一環として、全国の神社仏閣の調査・保存事業が進められることになった。これを受けて、明治7年(1874)に当時の大宮司の菅政友(かんまさすけ)によって禁足地の発掘調査が申請され、許可を受けて明治8年(1875)から発掘が行われた。結果、鉄製環頭大刀、翡翠勾玉、琴柱形石製品、金銅製垂飾品、管玉などが出土したという。菅政友は水戸藩士だが、大日本史の編纂に加わった歴史学者でもある。彼が当社の宮司とならなければ、発掘など叶わなかったと思われる。巡り合わせか。
本殿(出典*1)
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禁足地の後ろには本殿が建つが、これは発掘された御神体の神剣、韴霊(ふつのみたま)を収めるために大正二年に竣工したもので、元々はなかった。また、拝殿と本殿の間、西側の手前には神庫がある。古くは拝殿の横に立つかなり大きな高床式の建物で、ここに神宝が収められていた。当社は、天皇の武威を担保するために大量の兵杖(武器)を保管した場所であり、古くは複数の神庫のみが建っていたのではないか。その中の象徴が韴霊であり、これを禁足地にあたる場所に引っ張り出して奉斎したものと思われる。先に発掘としたが、土中にそのまま埋められていたわけではなく、石積みをつくってその中に収蔵していたらしい。
神庫(出典*1)
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禁足地といってもこうして実際に見てみるとなんのことはない。そこに埋まっていたものの性格を考えてはじめて意味を帯びてくる。祭神とされるこれら神宝について、当社のホームページから由緒を転載しておく。
 

布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)
当神宮の主祭神で、国土平定に偉功をたてられた神剣「韴霊」に宿られる御霊威を称えて布都御魂大神と申し上げます。韴霊とは、古事記・日本書紀に見える国譲りの神話に登場される武甕雷神がお持ちになられていた剣です。またその後では、神武天皇が初代天皇として橿原宮にて御即位されるのに際し、無事大和にご到着されるのをお助けになられた剣でもあります。神武天皇は御即位された後、その御功績を称えられ、物部氏の遠祖 宇摩志麻治命に命じて宮中にてお祀りされました。第10代崇神天皇の7年に勅命によって、物部氏の祖 伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が現地、石上布留高庭にお遷ししてお祀りしたのが当神宮の創めです。
 

布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)
天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)に宿られる御霊威を称えて布留御魂大神と申し上げます。天璽十種瑞宝とは、饒速日命が天津神から授けられた十種の神宝で、それらには”亡くなられた人をも蘇らす”というお力が秘められておりました。後に饒速日命の御子 宇摩志麻治命(うましまじのみこと)がこの神宝を用いられ、初代天皇と皇后の大御寿命(おおみいのち)が幾久しくなられることを祈られました。これが鎮魂祭(みたまふりのみまつり)の初めになります。その後宮中で韴霊と共にお祀りされていましたが、崇神天皇7年に韴霊と共に現地、石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)に遷されました。
 

布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)
記紀神話に見える、素戔嗚尊が出雲国で八岐大蛇を退治されるのに用いられた天十握剣(あめのとつかのつるぎ)に宿られる御霊威を称えて布都斯魂大神と申し上げます。
(以上、出典*1)

錚々たるものだが、このうち十握剣は岡山の石上布留御魂神社から遷されたものだという。石上神宮の社伝にも見えるが、日本書紀神代紀上第八段には「其の蛇を斬りし剣をば、号けて蛇の麁正と曰ふ。此は今、石上に在す」、一書には「其の素戔嗚尊の、蛇を斬りたまへる剣は、今吉備の神部に在り」とある。(出典*2)

この吉備の神部は石上布留御魂神社と比定されている。十握剣が遷されたのは崇神天皇の御代であり、三輪山の麓に瑞籬宮(みずかきのみや)を造営するとともに、四道将軍の一人として五十狭芹彦命(吉備津彦)を西道に派遣し、同地を治める温羅(うら)を征討している。歴史学者の岡田精司氏によれば古代では武力と呪禱は一体であり、征服したら必ずそこの豪族の持っている神宝を取り上げることが重要であったという。これらを考えると、武器庫としての石上神宮に遷されるのも当然と言えよう。因みに石上布留御魂神社には一度訪れたことがある。社殿裏の山頂の本宮には小祠と磐境があり、ここにも禁足地の札が立つ。4世紀前後の神祀りのありようを想わせる厳かな聖地だ。そのありようは三輪山の山頂の奥津磐座に酷似していた。因みに三輪山(大神神社の神体)に大物主を祀ったのも崇神帝である。

石上布留御魂神社本宮
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石上布留御魂神社本宮の磐境部分(禁足地)
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七支刀についても触れておこう。石上神宮の社宝であるとともに国宝の鉄剣で、百済から渡ってきたものだ。末社の神田神社(こうだじんじゃ)で発見されたといい、神前に設けられた斎場で田植の神事を行う際に祭具として用いられたという、由来には諸説あって未だ決着を見ないが、これも服属の証として贈られたものなのだろうか。数年前に東京国立博物館で実見したが、とても武具としての実用に供するものではないことはよくわかった。

神田神社
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七支刀(出典*4)


石上神宮を奉斎したのは大和朝廷において主に軍事と祭祀を司った物部氏だ。本稿のまとめとして、以下を引用しておく。

物部の「物」とは、「石上神宮の神宝とそれに籠る霊的威力のこと」であり、石上神宮とは「王権・天皇に服属した各地の豪族が、その証に献上した彼らの宝器を収納した、王権の神社」であり、その祭祀に物部氏が従事したのは、彼らの伝える「鎮魂の呪儀」が「強力な霊的威力=モノを鎮定・統禦すると同時に、時とともに衰滅するモノを末永く存続させる」と信じられたからであった。(出典*3)

「ひ ふ み よ い む な や こ と  ふるべ ゆらゆらと ふるべ」と唱えてみる。

どこやらでニワトリが鳴いている。

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(2024年3月30日、2016年12月10日)

出典
*1 石上神宮公式サイト
*2 「日本書紀(1)」岩波文庫 2015年
*3 水谷千秋「日本の古代豪族100」講談社現代新書 2023年
*4 東京国立博物館1089ブログ

参考
大野七三編著「先代𦾔事本紀 訓注」新人物往来社 1989年
岡田精司「新編 神社の古代史」学生社 2011年
小田基彦「石上神宮」日本の神々-神社と聖地 第四巻 大和所収 白水社 1985年