生島足島神社:長野県上田市下之郷中池西701

泥宮大神:長野県上田市本郷


天皇の即位儀礼や宮中祭祀に登場する生島神、足島神の二柱を祀る古社だ。ここは御神体が本殿の中の「土間」であったり、正面に建御名方を祀る摂社諏訪神社が向き合い、本社に出向いて生島、足島両神をもてなす神事があるなど興味を惹くことが多いのだが、同社の成り立ちに近づけば近づく程、その実態が遠のいていく感がある。




当社は塩田平の東部、下之郷の中心に位置する。このあたりは降雨量が少ないためか農耕に使われるため池が多く、小さいものも含めればその数400あまりにのぼるという。当社も池の中心に鎮座しており、境内の趣は庭園のようでもある。本来の参道は西側であったらしいが、東の鳥居から参道を進む。池には白鳥が一羽。東御門をくぐった先に朱塗りの神橋が架かり、注連縄が渡されている。諏訪明神はこの橋を渡って本殿に向かうのである。我々参詣者は手前の参橋を渡る。昇殿祈願の若い夫婦が右手の廊下から回り込んで本殿の中へ入っていく。御神体の土間を拝観できるわけもなく、昇殿しても仕方がない。本殿前で拝礼を済ませる。しかし、土間に手を合わせるというのも、あらためて考えると滑稽に思えて面白い。






本殿手前に磐座・磐境と墨書した木札が立っていた。苔生した複数の岩に注連縄が回されているが、おそらく最近整えられたものだろう。こうしてなにかと演出する神社がよくあるが、意図が透けて見えるのは興覚めする。日本の神々は姿がなく、かつ気まぐれで、衆人の前に顕現することは滅多にない。この磐座を依代にすることはたぶんないだろう。



御神体の土間を見ることは叶わなかったが、本殿の中にある内殿(御室)の様子は上田市の文化財というホームページでわかる。(出典*1)   御簾のかかった、茶室の躙り口のような小さな入口の中が土間になっている筈だ。手元の文献には「生島足島神社の本殿には床板がなく、その土間の大地が御霊代であると言われているが、そこには大きな井戸があり、その上を石で覆い、土をかぶせてある」とある。昭和13年の解体工事の折、その土を取り除き小粒の御影石に変えた際、宮司が確認したいう。(出典*2)現在は神職でもどうなっているか見ることは叶わないのだろう。



踵を返して本殿の反対側へ。神楽殿の裏に摂社諏訪神社がある。生島足島神社は上宮、こちらは下宮とされ、建御名方富命とその奥方の八阪刀賣命、兄の八重事代主命の三柱を祀っている。この諏訪神(建御名方富命)が、毎年秋から春にかけて生島足島神社の籠殿(こもりでん)に移り、毎夜飯を炊き、自ら生島足島神に手向ける儀式がある。御籠祭とよばれる重要な儀式だが、この神事は内殿で行われている。ここで当社ホームページから由緒を写しておこう。



創建の年代については明らかではありませんが、神代の昔、建御名方富命が諏訪の地に下降する途すがら、この地にお留まりになり、二柱の大神に奉仕し米粥を煮て献ぜられたと伝えられ、その故事は今も御籠祭という神事として伝えられています。生島神は生国魂大神、足島神は足国魂大神とも称され、共に日本全体の国の御霊として奉祀され、太古より国土の守り神として仰がれる極めて古い由緒を持つ大神であります。当社は歴代の帝の崇敬厚く、平城天皇の大同元年(806年)には神戸(封戸)の寄進があり、醍醐天皇の延喜の代(901年~922年)には名神大社に列せられています。建治年間(1275年〜1278年)には北条国時(陸奥守入道)が社殿を営繕し、地頭領家も祭祀料の田地を寄進しています。戦国時代以後も真田昌幸・信之等の武将を始め、代々の上田城主も神領を寄進し、社殿を修築するなど、崇敬を表しています。殊に天皇が都を定められる時には、必ず生島・足島の二神をその地に鎮祭される例であり、近くは明治2年、宮中に二柱の大神を親祭され、同23年勅使差遣になり、国幣中社に列せられています。


皇室や朝廷と縁の深い古社だが、一方で諏訪信仰との関わりも指摘されている。中世には「下之郷大明神」「諏方法性大明神」「下之郷上下宮」等と称された神仏習合の聖地であり、同社の北にある長福寺を神宮寺としていたようだ。武田信玄や真田氏の崇敬が篤いのは諏訪明神の武神としての性格にもよるのだろう。境内の四隅に御柱が立つことがなによりの証左だ。



さて、由緒には触れられていないが同社には元宮があるという。字名の通り、本郷から下之郷に遷座されたというのだ。映像人類学・民俗学者でドキュメンタリー作家の北村皆雄氏は「古諏訪信仰と生島足島神社」という論考の中で、長野県町村誌(昭和11年)から以下二件の記述を引いている。(出典*2)


社址

 村の西の方、字諏訪にあり。該地は古伝に上古、生国足国大神と、諏訪の御神の鎮座せるを中古下之郷へ遷座し、遺霊を字上窪へ奉還す。今尚畑畦に竹藪と古井あり。


諏訪社 雑社

 社地東西九件間三尺 東北八間三尺 面積二畝二十歩 村の南の方字上窪(上組)にあり。祭神健御名方富命。該社を泥宮大神と称す。原と字諏訪にあり。古伝に中古、下之郷へ遷座の際遺霊を当地へ遷す。故に該社泥宮大神は生国足国の神霊なるを、諏訪の御神と混同し祭りしは誤りなり。創建年月不詳、元禄十四年巳年二月建替えす。祭日四月十六日、社地中大樹あり。




遠目から見ても泥宮はここだということがよくわかる。田畑に囲まれた住宅地の一角、向かい側は上窪池というため池で、池畔の遥か先に見える低い山並みが美しい。狭い境内にはたしかに大樹があり、拝殿の造作も諏訪でよく見る格子の扉を備えている。祭神は諏訪大社に同じくタケミナカタなのだが、この佇まいはどこか諏訪の古層の神、ミシャグジを思い起こさせる。





ミシャグジを祀る祠はこれまでにもいくつか見て回っていて、肌感覚でそうとわかるのである。一見すると瓢とした田舎の鎮守の風なのだが、地中の虫、或いは蛇や蛙などがもぞもぞと蠢いているような奇妙な感覚を覚える。縄文時代から人々が感じ取ってきた精霊のような何かが、たしかにいるような気がするのだ。塩田平の縄文遺跡は200近くもある。泥宮の地には政治的な匂いのする、しかつめらしい神々は似合わない。現地案内板に見る由緒は以下の通りだ。


泥宮という名は泥を御神体として崇めたところに由来するといわれる。泥は稲を育てる母として古来神聖なものとされてきた。泥宮はその古代からの祖先の習俗を伝える宮としてきわめて貴重な存在である。古代塩田(安宗郷)の中心本郷の地にこの社がある点は特に重視しなければならない。この社を名社生島足島神社の旧跡と伝えるのも、またむべなりというべきであろう。長野県史編纂委員 黒坂周平 昭和五十九年九月 上本郷自治会


ここは文化庁指定の日本遺産でもあるのだが、このあたりをレイラインで結び、観光施策の一環としている。二至二分と縄文遺跡は結び付けて考えられることが多く、生島足島神社については「太陽が夏至には東の鳥居の真ん中から上がり、冬至には西の鳥居の真ん中に沈むよう、鳥居が太陽の至点と一致するように配置されており、まさに『太陽』と『大地』を結ぶ神社」(出典*2)とされている。泥宮はそのライン上にある。


遷座したというが、泥宮大神は本来、生島足島神と同一神ではないと思われる。最後にこのことを少し考えてみたい。生島足島神社の東方に信州最大の古墳群がある。そこは朝廷から派遣され、この地に本拠を構えた他田氏や金刺氏ら科野国造一族の墓所とされている。先に生島足島神は皇室や朝廷が奉斎したと記したが、彼ら国造がこの神を勧請したのだろう。一方、泥宮が諏訪信仰の流れを汲む土着の神(ミシャグジ)だったとすると、それぞれを祀る人々の間で覇権争いが生じていただろうことは想像に難くない。出雲から諏訪にところ払いされた建御名方命と地主神洩矢の争いと同工異曲である。


この争いは地主神の側が服従する形で決着し、このことが社殿のありようと神事に映されているように思える。国造たちはここに根を下ろす民を慮り、融和策を取った。但し、その神の在処はかねてから祀られていた本郷の泥宮から遷し、生島足島神を主に据えたのではないか。由緒とは主客が逆転しているのである。では、泥の神とはなにか。その名の通り、土の神、農耕の神である。国土守護神としての生島神、足島神をそれとなく匂わせている。縄文時代からこの地に住まう狩猟採集の民が奉ずる神とは異なる、上書きされた神ということなのではないか。生島足島神社とはレイライン上で結ばれているということではなく、東に位置する入植した国造たちの古墳群を向いていると考えた方がよさそうだ。以上が僕の仮説である。



あらためて泥宮から池越しに風景を眺め、ここに生活の中心を置いた縄文人の心象を想う。いつの時代も平和や均衡を破るのは侵略者なのである。


(2024年2月26日、2018年7月7日)


出典

*1 上田市の文化財

https://museum.umic.jp/bunkazai/document/dot9.php

*2 北村皆雄「古諏訪信仰と生島足島神社」 所収:古部族研究会編「日本原初考 古諏訪の祭祀と氏族」人間社 2017年

*3  日本本遺産ホームページ「生島足島神社本殿内殿」

https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/culturalproperties/result/5085/


参考
黒坂周平・龍野常重「生島足島神社」 谷川健一編『日本の神々−神社と聖地- 第9巻 美濃・飛騨・信濃』