北向観音堂:長野県上田市別所温泉1656

常楽寺:長野県上田市別所温泉2347

安楽寺:長野県上田市別所温泉2361

別所神社:長野県上田市別所温泉2338


信州塩田平にある別所温泉は古くから知られた名湯である。日本武尊がこのあたりの七ヶ所に温泉を開いたという伝説から「七苦離(ななくり)の湯」とも呼ばれたという。清少納言は枕草子(能因本 117段)の中で「湯は、ななくりの湯、玉造の湯、有馬の湯」と記しているが、この「ななくり」は一般には三重県の榊原温泉に比定されているようだ。どちらを指しているのかここで質すことはしないが、別所も東山道を往来する人々を通じて都にその名が聞こえていたであろう。清少納言が訪れたことのないところを名湯の筆頭に挙げたとしたら、それはそれで面白い。



ここは二年前に一度訪れている。その時は北向観音と安楽寺の国宝三重塔を拝観しただけで泊まらずじまいだったが、町の落ち着いた佇まいが気に入り、一度は泊まって温泉もゆっくり楽しみたいと思っていたのだ。宿は花屋にした。大正六年の創業で、建物は登録有形文化財だ。さまざまなところにセンスが感じられ、サービスも行き届いたよい宿である。昼頃に着いて荷物を預け、早速散策に出掛けた。



まずは北向観音へ。宿の脇の坂の小道を上っていくとやがて山裾の堂舎が見えてくる。雪がぱらつく町中は三連休最終日の昼時、人通りも疎らでなんともいい風情だ。宿で借りた傘をさしてのんびりと歩く。宿を出て七分あまりで観音堂へ。境内に読経する声が微かに響く。案内板には以下説明があった。


本尊は千手観世音菩薩で北斗星が暗夜の指針となるように、この北向きの、み仏は衆生を現世利益に導く霊験があり、南向きの善光と相対し古来両尊を参詣しなければ片詣りになるといわれている。天長2年(825年平安時代)常楽寺背後の山が激しく鳴道を続けた末、地裂け人畜に被害をあたえたので、これを鎮めるため慈覚大師が大護摩を履すると紫雲立ちこめ金色の光と共に観世音菩薩霊像が現れた。大師自らこの霊像を彫み遷座供養したと伝えられる。



観音堂の傍には温泉薬師瑠璃殿という懸造りの堂舎がある。焼失によって文化6年(1809)に再建されたものだが、なかなか見応えがある。堂の前には北原白秋の歌碑が立っている。大正末に家族と別所へ遊びに来た北原白秋はわずか数日で百六十二首の短歌を詠んだという。それだけ感興が深かったのだろう。



さて腹が減ったので蕎麦でも手繰ろうと参道にある目当ての店に赴くが、12時半で既に看板を下ろしていた。もう一軒の目当ての「そば久」へ。車は宿に置いてきたので心置きなく昼酒が呑める。早速ビールと地酒をいただく。出てきた蕎麦も香りよく、つゆもほどよい辛さで僕好み。至福のひと時である。



この店から歩いてすぐのところに別所神社と常楽寺がある。別所神社は鎌倉時代初めの建久年間(1190〜1199)に熊野本宮大社の分祀により創建され、明治の神仏分離令で熊野社から別所神社に改められた。本殿は上田市の文化財で日本文化遺産にも指定されている。脇に立つ神楽殿からは塩田平の眺望も楽しめる。町を見下ろしてみると、いかにも産土が鎮座するに相応しい場所だと思わせる。





別所神社の境内を出て右手の坂を上ると常楽寺だ。山門をくぐった先の本堂の茅葺き屋根にはうっすらと雪化粧が施されている。江戸時代中期の様式というが、どっしりと地に根をおろしたようなさまが心を落ち着かせる。常楽寺は北向観音堂の本坊にあたり、同じく天長2年(825年)に創建された天台宗の古刹である。本尊は妙観察智弥陀如来(みょうかんざっちみだにょらい)。珍しい阿弥陀仏らしい。妙観察智とは五智の一つで「絶対的客観の立場から物事を見て考察する智慧」のこと。意識を変化することで得られ、存在おのおのに固有の姿(自相)とすべての存在に共通する姿(共相)とを把握する智慧だという。わかったようなわからないような。いやはや密教は奥が深い。



本堂の左手にある道を行くと両側に歴代の寺僧の無縫塔が立ち並び、石造の仏塔群が参詣者を迎える。中央のひときわ大きい多宝塔の周りに数基の多層塔が立つ。多宝塔は国の重要文化財だ。案内板に記された縁起を写しておこう。




銘文によれば、天長2年(825)、火焔の中から北向観音がこの地に出現した。そこで、木造の宝塔を建立したが、寿永年間(1182〜1184)に焼失した。弘長2年(1262)本塔を造立し、金銀泥で書かれた一切経一部を奉納したとある。石造多宝塔の類例は全国的に見ても少なく、特に重要文化財指定となると、本塔と滋賀県の小菩提寺の二基にすぎない。さらに本塔は、笠や裳階が鎌倉時代の多宝塔の典型を示しており、全国的に見てもたいへん貴重な遺例である。(上田市教育委員会)


ふと気づいたのだが「常楽寺背後の山が激しく鳴道を続けた末、地裂け」たり、「火焔の中から北向観音がこの地に出現」というのは、地震に他ならないのではないか。825年の信州に地震の記録はないが、762年(続日本紀)と841年(続日本後紀)には大規模な地震の記録が残る。ここは糸魚川-静岡構造線断層帯に位置し、周辺には浅間山をはじめ火山も多い。公の記録に見えない地震も数多くあっただろう。では、慈覚大師円仁は巡錫中に当地で地震に見舞われたのだろうか。円仁は三十歳の時(弘仁14年(823)か)に比叡山に籠山しており、六年間は山を出ていない。当寺の創建とは時期の辻褄が合わないのである。地震の報せを受けて遠く比叡山の山中で護摩祈祷を行い、弟子に指示して開山したということなのだろうか。円仁が開山、再興したとされる寺は優に500ヶ寺を超える。一人ではとても為せる業ではないだろう。行基や空海同様、開山縁起の多くはそういうものだと考えた方がよいのかもしれない。


さて、最後は安楽寺だ。常楽寺から5分ほどで境内入口にあたる黒門に至る。その先、右手の長い石段を上ると山門だ。先に縁起を紹介しておこう。




伝承では天平年間(729-749年)、行基の建立とも言い、平安時代の天長年間(824-834年)の創立とも言うが、鎌倉時代以前の歴史は判然としなく、平安時代末期には律宗寺院であったとされています。安楽寺の存在が歴史的に裏付けられるのは、鎌倉時代、実質的な開山である樵谷惟仙が住してからです。樵谷惟仙は、信濃出身の臨済宗の僧で、生没年ははっきりしないが、13世紀半ばに宋に留学し、著名な禅僧の蘭渓道隆(鎌倉建長寺開山)が来日するのと同じ船で寛元4年(1246年)、日本へ帰国したと言われております。2世住職の幼牛恵仁は宋の僧侶で、やはり樵谷惟仙が二度目の入宋より帰国するのと同じ船で来日しました。鎌倉時代の安楽寺は塩田荘を領した塩田北条氏の庇護を得て栄えたが、室町時代以降衰退し、古い建物は八角三重塔を残すのみである。天正8年(1580年)頃、曹洞宗通幻派の高山順京(こうざんじゅんきょう)によって再興され、以後曹洞宗寺院となっております。(出典*1)


山門から左に十六羅漢堂、右に鐘楼を見ながら進むと本堂へ。参拝の後、脇の受付で拝観料を支払い、右手の石段を上るとすぐに八角三重塔が見えてくる。雪をまとった塔容はなんとも美しい。塔の周りをぐるぐるまわり、ためつすがめつする。このあたりには前山寺、大法寺、信濃国分寺など国宝、重文に指定された三重塔が多くあるが、その中でも格段に美しいと思う。一見すると四重塔に見えるが、初重は裳階(もこし:ひさし又は霧よけの類)をつけたものだという。国内に現存する唯一の八角塔であり、禅寺の建築様式としても極めて珍しいものだ。しばし塔を眺め、開山と二世住職の木像(国重文)や経蔵を拝観して、安楽寺を後にした。



ここ別所温泉は寺社巡りのみならず、泉質、宿、情緒のいずれにも優れ、秋には松茸三昧も出来るらしい。複数の女性の友人が推しているのだが、その友人の一人から不思議な話を聞いたので最後に紹介しておこう。宿で坊さんの幽霊を見たと言うのである。宿の名は伏せる。彼女は四畳半の前室に僧が横を向いて坐している姿をはっきりと見てしまい、総毛立って主室の奥に駆け込んだ。しばらくしておそるおそる振り返ると僧の姿は忽然と消えていたという。寺を巡ってから投宿したのでひょっとしたら連れてきてしまったのかもしれないが、しかしお祓いするにも相手は坊さんである。僧侶対決をしてもらうわけにもいくまい。僧の霊を見るということはどうやら吉兆らしく、気にすることはないのではと言っておいた。なぜ現れたのかは気になるところだが、その理由はきっと彼女自身の中にあるのだろう。なにかを知らせに来たのか、或いは守護が必要と思われたのか。僕はなんとなく常楽寺の本堂の裏に並ぶ無縫塔のどなたかではないかという気がしているのだが、いかがなものだろうか。

(2024年2月25日、2022年2月5日)


出典・参考
*1 曹洞宗 崇福山 安楽寺 https://anrakuji.com/index.html


参考

天台宗別格本山 北向観音・常楽寺 https://www.kitamuki-kannon.com/jorakuji/