那谷寺:石川県小松市那谷町ユ122

 

山門をくぐるとまっすぐな参道が長く続いていた。既視感を覚え、記憶を探ってみると大津の石山寺だった。俳人芭蕉も同じように感じたのだろうか。「おくのほそ道」にはこう記されている。

 

山中の温泉に行ほど、白根が嶽跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山の法皇、三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置し給ひて、那谷と名付給ふと也。那智・谷汲の二字をわかち侍りしとぞ。奇石さまざまに、古松植ならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。

 

「石山の石より白し秋の風」

 

 

山門をくぐってすぐ左手には金堂華王殿。往時は開山堂と称した。中興、花山法皇ゆかりの堂舎だ。南北朝時代に一向一揆により焼失し、平成二年に再建されたものだ。金堂の脇から庭園に出られる。別に拝観料が必要だが、訪れた日は無料で開放されていた。この庭園で目を惹くのは三尊石と呼ばれている巨岩だ。阿弥陀三尊の来迎に擬えたものだが、嘗てはこれ自体が信仰の対象であっただろうことが窺える。三尊石の手前には隧道があり、ここを胎内くぐりのように通ってまた金堂に戻るつくりになっている。

 

 

 

 

 

金堂を出て参道を進む。一面が苔生していて緑が美しい。しばらく行くと左手に池がある。これを挟んで奇岩遊仙境が見えてくる。山肌は岩が剥き出しになっており、大きく口を開けた大小の岩窟が見える。窟の中には石仏が祀られ、その間を縫うように石段が巡らされていている。周囲の樹木は少し色づき、絵を嗜む人なら格好の題材である。仙人が作庭した巨大な庭園のようにも見え、ぜひこの岩窟を巡ってみたいと思ったのだが、残念ながら現在は安全と景観保護のため立入禁止となっていた。岩窟はタフォニと称する岩盤や岩塊の表面につくられた風化穴なのだが、風化が進むとオーバーハングして崩落の危険性がある。仕方がない。

 

 

 

タフォニは、三陸の浄土ヶ浜、室戸岬など海岸部でお目にかかることが多いが、規模が大きくなるとそれは聖地として信仰の対象となる。洋の東西を問わず、人間はこうした奇岩や巨岩に畏怖の念を抱き、そこに神仏を見るのだ。タフォニによる聖地の代表例は山形の立石寺(山寺)近くの垂水遺跡ではないだろうか。そこは仙山線に沿って立つ千手院の裏山にあるが訪れる人も少なく、幽邃の地といってよい。慈覚大師円仁が窟籠りをしたと伝えられ、山中を少し歩くと修験の行場跡がある。ここ那谷寺でも開基した泰澄をはじめ、多くの行者が奇岩遊仙境のどこかで、遠くに白山を望みながら虚空蔵求聞持法や自然智行などを修めたのではなかったか。

垂水遺跡

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簡単に縁起を記しておこう。奈良時代、越前国に生まれた修験僧泰澄はこの岩山で修行の折、岩窟の中で観世音菩薩を感得した。岩山の麓におりてみると一羽の鳥が大石をつついているのでこれを除けてみたところ、下から観音像が現れた。さっそく当地の吏官にかけあって堂を建て、この像を安置したのがはじまりという。当時は那谷寺ではなく、自生山岩屋寺と称した。養老元年(717)のことだ。中興は寛和年中(985)花山院による。ここを訪れた花山院は岩窟に聖性を感じ取り、この岩山に居を構え、入寛禅定法皇と号した。この時、一所で西国三十三所の霊場巡礼にまさるとして、第一番の那智山の「那」と、第三十三番谷汲山の「谷」を取って「那谷寺」に寺号を改めたという。花山院が当地で没したという伝承やこれに因む地名もあるのだがそれは措こう。平安時代には250もの坊を構えるなど大いに栄えたが、南北朝時代を挟んで荒廃し、これを江戸時代に再興したのが加賀藩主の前田利常である。今ある重文の堂舎はこの時に建造されたものだ。それにしても泰澄はともかく、花山院、前田利常といった奇行をもって知られる御仁がこの寺を愛し、大切にしたことに奇妙な因縁を感じる。

 

 

奇岩遊仙境のある岩山の脇から石段を上ると本堂の大悲閣に至る。ここに秘仏の十一面観音像を安置しているが、三十三年に一度の御開帳との由。代わりに懸造りを楽しむことにする。やはり岩窟に喰いこむようにつくられている。加賀藩のお抱え大工で気多大社の社殿も手掛けた山上善右衛門の仕事だ。すぐれた工芸品で知られる加賀ならではである。繊細な中にも芯のようなものが感じられ、落ち着いた佇まいに興趣を覚える。

 

 

 

懸造りの本殿を持つ寺院の多くは観音を祀っている。小諸の布引山釈尊寺の項でも触れたが、観音は岩盤の上や岩窟の中に顕現し、そこに祀られる。当初は小さな祠堂の中に観音像を収めていたが、平安期の観音信仰の隆盛において参籠がブームになると、大勢の人々が詰めかけるようになり、過ごす空間が必要となる。ところが場所は岩場であり、建築スペースは限られる。そんな背景から懸造りといった工法で、本殿下の空間を確保したということのようだ。長谷寺も清水寺も石山寺も、身分の低い者は懸造りの社殿の下に筵など敷いて参籠したのだろう。

 

大悲閣 内陣(出典*1)

胎内くぐり(出典*1)

 

本堂では胎内くぐりが出来る。というか皆そうしているので、並んで本尊の周りをぐるりと回る。これは窟籠りと同じでとどのつまり擬死再生なのだが、なんだか皆楽しそうだ。それにしても窟籠りとはどのような修行なのだろうか。手元の書籍にあった大峯修験の窟籠りに関するくだりを転載しておこう。

 

六月九日から秋口にかけ」柳澤師は笙の窟に籠居した。窟内に二人用のテントを張り、水は窟内にしたたり落ちる水を用いた。食料は五穀絶ちのためにソバ粉を運び上げた。あとは梅干し、わずかなハチミツとマーガリン。食事は朝と昼の一日二回。インド以来の僧侶の正式な生活に従った。10日に一度ほどの連絡役が来る以外は完全に一人であった。黄昏時はことに淋しかったという。午前二時に起床。未明、午前久九時、午後二時に約二時間の読経。修行中、蔵王権現の真言を百万遍、不動明王の真言は十万遍唱え尽くした。70日目ぐらい、仮眠中の幻覚でありながら柳澤師自らが「すさまじい」と表現する体験があった。笙の窟の本尊である不動明王が姿を現わし、結跏趺坐の柳澤師を斜め後ろに突き飛ばし地面にたたきつけた。すると彼の尾骶骨から脊椎へと、じつに火柱が上がるのが見え、下半身が燃えるように熱くなったのである。これが幻覚のみに終わればそれまでのことなのだが、これは始まりであった。何の始まりであるのか。拝む時の感覚がそれまでとはまったく異なってしまったのである。どのようにか。数珠を繰り真言を唱え、また経を誦する時、尾骶骨が振動しそこから音声が出る錯覚をもたらすのである。むろん声は喉から出ている。また窟内の不動明王像が自分に向かって念誦しているような感覚もあった。さらに歓喜の心がほとばしったり、全身に異様な力が漲ってくることがあった。その体験を境に柳澤師の宗教的内面世界はまったく変容したのだった。(出典*1)

 

なかなか凄まじいのだが、修験者の行というものは本来こういうものなのだろう。泰澄らの修験僧が生きた時代でもそう変わりはない筈だ。いずれにせよ、目指したのはこうした境地に至ることそのものである。では、なぜその場が窟なのか。雨露を凌げることはもちろんだが、「自然と一体になる」ことにもっとも適した場だからであろう。いわゆる「自然智」(じねんち)である。那谷寺のホームページではこう説明されている。

 

自然智は小さな草庵や岩屋の中で、自然より得られる生まれながらの智恵を求める行です。那谷寺は深山で緑に包まれ、岩屋を有していたため、自然智の道場となりました。自然とは「自ずから然る」。神も仏も宇宙の法則に帰す、「自然こそ神仏」の教えを大切に守り続けています。(出典*1)

三重塔

 

護摩堂

 

鐘楼

 

大悲閣を出て、重文の三重塔、護摩堂、鐘楼などを巡り、参道に戻る。境内は広い。宝物殿も含めてゆっくり見て回れば二時間はかかるだろう。那谷寺は観光名所で紅葉の時期にはバスで多くの人が訪れる。できれば早朝か夕方、人の少ない時間に訪れれば、「自然智」のおこぼれにあずかれるかもしれない。 

(2023年11月11日)

 

 

出典

*1 那谷寺ホームページ https://natadera.com/

*2 藤田庄市 「修行と信仰―変わるからだ 変わるこころ―」 岩波書店 2016年

 

参考

陣出達朗 「那谷寺」 北国出版 1985年

木崎馨山、室山孝 「那谷寺の歴史と白山・泰澄」 北國新聞出版局 2017年