岡太神社・大瀧神社

下宮:福井県越前市大滝町23-10

上宮:福井県越前市大滝町(大徳山)


昨年越前の温泉を訪れた際に観光名所を紹介するパンフレットを見ていて、この神社の社殿の写真に目が釘付けになってしまった。その時は参拝することがかなわなかったが幸いにも年内に再び同地を訪れる機会を得たので、ぜひ紹介しておきたい。


岡太神社・大瀧神社は、越前和紙の里にある。三大和紙といえば、越前、美濃、土佐だが、紙の神様を祀る神社は全国で当社のみである。紙の博物館や製紙業が点在する町中は、ひっそりとしているが奥ゆかしさを感じさせる。


まずは当社のリーフレットから由緒を引いておこう。


当神社は権現山の頂にある上宮(奥の院)とその麓に建つ下宮からなっており、奥の院には大瀧神社と紙祖紙岡太神社の両本殿が並び建ち、下宮は両社の里宮となっている。歴史の上では岡太神社が古く、今より千五百年ほど前、この里に紙漉きの業を伝えた女神、川上御前を紙祖の神として祀り、「延喜式神名帳」(926)にも記載されている古社である。一方、大瀧神社は推古天皇の御代(592-638)大友連大瀧の勧請に始まり、ついで、養老三年(719)この地を訪れた泰澄大師は、産土神である川上御前を守護神として祀り、国常立尊・伊弉諾尊を主祭神として十一面観世音菩薩を本地とする神仏習合の社を創建、大瀧児(ちご)権現として別当寺大瀧寺を建立した。



先に下宮を訪ねた。南面した境内は横に広く、巨樹が林立している。その中央にある石段を上り、神門をくぐると社殿。拝殿は入母屋造で正面から見るとさしたる感興は得られないが、左右に回り込むとその造作に驚嘆する。ただただ見事という他はない。屋根の意匠を山の峰、滝の流れに擬える向きもあるが、まるで生き物のようで、くねりながら躍動する龍神を思わせる。本殿両側面に施された彫刻もこれまた見事で、技巧の限りが尽くされているという印象を持つ。なにはともあれ画像と動画をご覧いただきたい。








造営は天保15年(1844)だ。永平寺の勅使門を造った大久保勘左衛門という名棟梁が手掛けた。建築様式は権現造といい、本殿と拝殿を石の間または相の間でつないだものだが、発祥とされる久能山東照宮とは趣が異なる。なんらかの原型を持っていたのではないかと調べると、兵庫県丹波市の柏原八幡宮の社殿に設計図が似ているという。こちらは天正13年(1535)に再々建されたものというから、三百年以上先行している。ただし、波打つ屋根の意匠は当社にしか見られない。アートは概して原型を持つものだと思うが、そこに新たな何かを加える営みこそが創造というべきものだろう。AIは果たしてこうした創造を可能とするのだろうか。



出典:柏原八幡宮ホームページ


社殿に向って左に堂舎があったので立ち寄ってみた。さして期待もしていなかったが、中には平安前期のものとされる十一面観音像が安置されていた。大瀧神社の前身、大瀧児権現の別当寺であった大瀧寺は、平泉寺(白山神社)の末寺で室町期には四十八坊、僧七百余名を数え、隆盛を極めたという。この観音像はその本尊と思われる。白山比咩神(=菊理媛命)の本地仏を調べてみるとやはり十一面観音だった。当社もまた織田信長の一向一揆討伐に際して焼き払われているのだが、僧兵集団として看過できない存在だったのだろう。





下宮の参拝を終えると午後三時半を回っていた。じつは上宮があることは下宮を訪れるまで知らなかったのだが、ここまで来て行かないわけにはいかない。日没までまだ時間がある。片道三十分ということなので、上宮のある大徳山に登ってみることにした。




ほぼ原生林といってよい社叢の中を行く。途中の明神鳥居を過ぎてしばらく進むと道は平坦に近くなり、苦もなく辿り着くことができた。拝殿の先の石段を上った正面に大瀧神社、右に岡太神社、左に八幡社の本殿が並ぶ。社殿に特筆すべきことはないが、下にある磐座と石組で囲われた井戸が気になる。手水舎のようだが、おそらく湧き水で御神水だろう。手漉きの和紙は全工程で水が必要になるが、水ならなんでもよいというわけではなく、ミネラルの少ない軟水が適している。「紙」の神はこの地の「水」の神を必要としたのである。




この地に製紙技術をもたらした川上御前については以下の伝承がある。


今から1500年ほど前、岡太川上流の宮ヶ谷というところに、ある日美しい女性が現れて「この地は田畑が少ないから生活に困っているであろう。しかし、この村には清らかな水が流れ、豊かな緑の木々に恵まれているから、これからは紙を漉いて生活をたてるがよい。」と告げられ、自ら衣を脱いで傍らの木の枝に掛け、丁寧に紙の漉き方を村人に授けられました。村人は「お名前は」と訪ねると、「岡太川の上流に住む者」とだけ答えて姿を消されました。村人は感激して、それ以来、紙漉きを生業として続けてきました。これが今もなお岡本五箇(大滝・岩本・不老・新在家・定友)に語り継がれる伝承で、越前和紙の起源とされています。(現地案内板より転載)



さて、この川上御前、継体天皇と縁があった渡来民だという。継体天皇の出自は古事記では近江、日本書紀では近江で生まれたが父が亡くなり、母の故郷である越前(現坂井市丸岡あたり)で育てられ、男大迹王(ヲホドノオウ)として五世紀末の越前地方を統治していたとされる。この出自にはいまだ議論があり、決着はついていないが、古代の道を考えると越前と関わりがあったことは間違いない。越前国は三国、敦賀といった良港を介して、多くの渡来人や文物が渡来した先進の地であり、紙漉きの技術も朝鮮半島から持ち込まれたと思われる。おそらく、川上御前は百済あたりからこの地方に渡ってきた織姫だったのではないだろうか。


だが、「紙」よりも前に「水」への信仰があった筈だ。日本の聖地は多かれ少なかれ水と関わりを持っている。旧石器時代からこのかた、およそ集落の傍には必ず川があった。川は平野をつくり、居住や農耕を可能とする。その川に水をもたらすのは山である。そうした関係をもって地図で当地を眺めると、農耕を営むにはいささか狭隘な土地であり、大きな収穫は望めなかったように思える。日本に製紙技術が伝わったのは6世紀から7世紀頃とされ、漢字や仏教の伝来と時を同じくする。事物の記録や写経により紙の需要が見込まれる中で、製紙技術を有する渡来民に委嘱して適地を探させ、産業としての製紙の定着を図ったのではないだろうか。水質がよく、またコウゾやミツマタなど原料を栽培するにも適地であったのだろう。かくして、里人は付加価値のとれる製紙業を営むようになったのである。


爾来1500年。現在、越前和紙は出荷額5億円弱、シェアは全国トップで2割以上を占める。だが、職人の数は僅か80人といい、高齢化も進む。和紙の用途は幅広く、その可能性も限りなくあると思っているのだが、便箋や葉書、障子や襖など、我々の日常から遠ざかっていくものもまた多い。伝統工芸の宿命とはいえ、衰微の一途をたどっていくというのはあまりに寂しいことである。それらはなにより日本を象徴する文化の一つなのだ。この先、永らえていくには何が必要なのだろう。そして僕たちにはなにが出来るのだろうか。


(2023年11月11日)


参考)

水間徹雄・建築巡礼の旅 https://mizumakjt.fc2.net/blog-entry-231.html

日本経済新聞 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO49228460Q9A830C1LB0000/ 2019年8月31日

足立尚計「大滝神社・岡太神社」 谷川健一編『日本の神々ー神社と聖地』第八巻「北陸」 白水社 1985年