弥谷寺:香川県三豊市三野町大見乙70
朝から金刀比羅宮奥社、出釈迦寺奥之院禅定と、高低差で計800m近くを登り下りしてきたので、弥谷寺へは中腹の有料駐車場から向かうことにした。それでも大師堂まで108段、本堂まで270段登る。山門からだと540段。途中に賽の河原や金剛拳菩薩像などもあるらしいが、目指すのは奥之院だ。奥之院は札所それぞれの寺の発祥地であり、空海が修行する以前から優婆塞たちの行場であったと考えられる。聖性や霊性に触れたいならぜひ奥之院を訪れることをお勧めしたい。
弥谷寺は五岳山の北東、善通寺から約8kmの弥谷山(標高382m)の中腹にある。摩崖仏と空海が修行した獅子窟で有名だ。
弥谷寺図(出典*1)
弥谷寺略縁起
抑そも当山な人皇第四十五代聖武天皇勅願にして行基菩薩の開山、弥山は神仏の住もう霊前にて弥谷は神仏の谷より弥谷山と称せり。その昔延暦の頃大師未だご幼年の御時、弥谷の岩屋にて学問ご修行あそばされし霊跡也 四国道開きの御和讃に「又弥谷に在りし時いわおに造るみほとけは、金胎両部の曼荼羅や梵音諸仏諸菩薩手をつく石も踏む岩も平一面の石仏浄土の諦相表するはこれ皆修行の跡とかや」大師「我仏道を修行成すは此の山にて」と仰せあそばされ全山岩をば一刀三禮しつつ五輪の搭を刻み給い久遠の浄土になぞらえ給う(以下略)
寺伝では行基開山とされているが、八十八ヵ所霊場には弘法大師の37ヶ所に次いで行基が開いたと伝わる寺が多く、なんと29ヶ所にも上る。実際の行基の活動範囲は畿内が中心であり、四国に赴いた記録はない。このあたりは空海に同じく、後代に付会された開基伝承と思われる。
階段を上ると左に大師堂とお目当ての獅子窟があるが、まずは本堂まで行ってみよう。右手に進み、奥の石段を上ったところに護摩堂がある。行場として使われていた窟に堂舎を嵌め込み、護摩堂としたようだ。いかにもといった設えであり、この窟だけ見ても往時の一山のありようを窺わせる。右側の岩肌に数々の小さな摩崖仏や梵字が彫られている。弥谷山は安山岩と花崗岩から成る岩山なのだが、石質によるものか風化してかたちを失ったものも多い。
続いて本堂に上る。背後の岩肌には創建時に千手観音が納められた岩穴が残るというので脇から仰いでみたが、これも風化していてよくわからない。境内の岩盤のあちこちに小さな穴が穿たれているのはこれに倣ったものか。掌に載るほどの小さな石仏を納めたのだろうか。
本堂に向って右から岩盤伝いに下りると、ひときわ整った阿弥陀三尊の摩崖仏がある。阿弥陀仏の尊顔以外は風化してほぼ原型をとどめていない。バーミヤンの石仏をミニチュアにしたらこんな感じだろうか。そういえば彼の地も石窟寺院だった。前に立つ案内板の説明文を読むとこんな一文があった。
上方本堂付近の岩壁には無数の納骨穴が彫られている。この納骨穴に対する回向の為、下方の阿弥陀三尊及び六字の名号が刻まれたものと思われる。従ってこれらは平安から鎌倉にかけてのものではないかと言われています。
この夥しい岩穴は納骨のためのものだったのだ。ここで思い出したのは「やぐら」である。やぐらは、中世武士の横穴式の墓で鎌倉に多く、ほかに南房総でもこれを見ることができる。(文末の参考*1を参照のこと) 弥谷寺の岩穴はやぐらに比べるとかなり小さいが、火葬後に分骨、あるいは小さな仏像を据えたのではないかと思われる。「死んだら山に帰る」という信仰から、弥谷山は仏山、仏谷とも呼ばれ、古くから死者供養の場であったようだ。
摩崖仏の阿弥陀三尊からくだったところには、水場の洞窟と称する窟がある。神仏の住まう須弥山への入口とされており、「お水まつり」としてここで真言の書かれた経木を洗い清め願を掛けることで、地蔵菩薩が霊山に住む神仏に願いを届けるといわれている。窟の入口は閉ざされていて中の様子を窺うことはかなわなかったが、行者たちはここでも窟籠りを行ったのだろう。弥谷寺の元々の姿は「窟」そのものではなかったか。
さて、本堂の下、大師堂に下る。ここに奥之院、獅子之岩屋がある。岩窟に被さるように堂宇が建っているので全容はよくわからない。入口で履物を脱いで上がり、内陣の本尊、千手観音に手を合わせる。「おん ばさら たらま きりく」。向かい側は建て増しされていて、護摩堂とあるのだが、ここは納骨堂である。納骨と同時に位牌も預けていくとのことで、堂の両脇には夥しい数の位牌が並んでいた。いつの頃からのことか定かではないが、「いやだに参り」といって、できるだけ弥山に近い場所で供養をしたいという思いから弥谷山へ位牌を預け、追善供養を行う風習がはじまったらしい。瀬戸内海の島々の人もここに供養に来るといい、広範囲に信仰を集めているようだ。庶民信仰に由来することもあってか、弥谷寺の永代納骨供養の費用は3万円〜5万円である。極めてリーズナブルであり、墓じまいが問題になる現代には相応のニーズがあるのではないだろうか。
内陣左手に回り込むと内々陣、ここが獅子之岩屋だ。リアルな空海像が据えられていて、ぎょっとする。後方に弘法大師と両親の像、奥に阿弥陀如来と弥勒菩薩の摩崖仏、向って左に開山した行基像。右手奥は経蔵で不動明王と毘沙門天が刻まれた扉が配されている。その横に明星之窓が設けられており、外の明かりが差し込んでいる。唐から帰朝してここに金銅の五鈷鈴(国重文)を納めたというから、若き空海が経蔵から経典を取り出して学問に励んだというのは史実なのだろう。寺伝には「獅子が咆哮をあげた形に見える事から獅子之岩屋」と呼ばれ、「獅子の咆哮は仏の説法と同じ」という仏教の信仰から、この岩屋の前で信心をおこし参拝する事で、「その身につくあらゆる厄災を獅子が食べ尽くし、その身を護る」とあった。
空海が獅子窟で修行したのはおおよそ9歳から12歳の頃とされる。まったくの想像だが、この時かれは「死」を概念として理解しようとしていたのではないか。先達は山内のさまざまな所にある窟で擬死再生の修行を行い、麓の人々はこの山を他界と信じ、亡き人を供養し、自らも供養されることを望んだ。空海も幼いころからそのことは見聞きしていただろう。子どもは七歳くらいまでに死を意識しはじめるという。少年空海、佐伯真魚も「死」への関心が日増しに膨らんでいったに違いない。長じて生誕地に近い山の中腹にある他界への入口に赴き、窟の中で死や霊魂、あの世というものを書物を読みながら徹底的に考え抜いたのではないか。もしそうであれば、弥谷寺は宗教者としての空海が誕生した場であったかもしれない。
あの世への入口、あるいは境界とされる聖地にはこれまでも多く足を運んできたが、それらの場所には明らかな共通点がある。地形でいえば、山腹や洞窟が多いが、滝、河川、湿地など水が関係するところも多い。アニミズムに通ずるが、僕たちの遠い祖先は間違いなくこれらに神々を見ていた筈である。その記憶は遺伝子のどこかに刻まれていて、そうした場に身を置いた時に眠っていた記憶が呼び覚まされるのではないか。意味もなく涙が出たり、かたまって動けなくなる、震えがとまらなくなるのは、記憶が身体を借りて表出した現象なのかもしれない。畏れるべからず。霊的な何かは自然そのものなのだ。自然に触れることで僕たちの中に備わった本能が蠢きはじめるのだ。
(2023年10月21日)
出典
*1「四国遍礼霊場記」 国立公文書館デジタルアーカイブ 四国遍礼霊場記
参考
*1 やぐら~それは中世への入口~ - 鎌倉市観光協会 | 時を楽しむ
五来重「霊場巡礼② 四国遍路の寺(上)」角川書店 1996年