出釈迦寺:香川県善通寺市吉原町1091
昼を済ませていなかったので久々に讃岐うどんを啜る。いわゆる”ぶっかけ”である。しょうがの風味とかぼすの酸味が食欲をそそる。ちくわの天ぷらを添えてみた。やや衣が固いのはご愛嬌か。単に気分の問題なのだろうが、路傍の店で食べるうどんはチェーン店のそれとはやはり違う気がする。店と馴染みの客の素っ気ないやり取り。だが互いに気心が知れているというありようが、そう感じさせるのだろう。これもひとつの民俗である。
善通寺には駐車場のある西院側から入った。西院は佐伯真魚、後の空海の生誕の地であり、佐伯氏の旧居があったところだ。一方の東院は空海が父の佐伯田公(諱は善通)から寄進を受け、師の恵果が住んだ長安の青龍寺を模して建立されたという。境内にはさまざまな堂宇が立ち並んでいるが、弘法大師空海生誕の地というほかはさして見るべきものはない。遍路よりも観光客の方が多いこともあってか、境内の巨樹を除けば大した感興は得られなかった。
善通寺から4kmほど西北に行くと我拝師山の麓に出る。出釈迦寺に参拝してから、奥之院の禅定に向かい、そして少年時代の空海が修行したといわれる捨身ヶ嶽を訪ねようと思ったが、どうにも雲行きが怪しい。出釈迦寺の山門をくぐると雨が繁くなりだした。
本堂の前でむにゃむにゃとにわか真言を唱えていると中から人の声がする。法要でもやっているのかと見ると、なんと秘仏を公開しているではないか。弘法大師生誕1250年を記念して奥之院の秘仏を引っ張り出し、本堂の中に展示してあるのだ。これは見ないわけにはいかないだろう。
納経所で拝観料を納め、本堂左手から中に入って住持の方から懇切丁寧な説明を受ける。釈迦如来、不動明王、弘法大師、普賢菩薩、如意輪観世音菩薩の五体が開帳されている。後の二体は秘仏とされていたもので、如意輪観音は天平時代に渡来したものらしい。ここで仔細には触れないが、説明の端々に「よくわからない」という言葉が挟まるあたり、その来歴には不明なことも多いようだった。
十分以上も説明を聞いただろうか。外に出ると雨足はさらに強くなっていた。納経所で奥之院への道のりを尋ねると、登り口には駐車場があり、その先少しまでは車で行けるが、道が狭い上に急坂で事故も多く、現在は通行止めにしているとの由。徒歩で片道40分はかかるらしく、この雨では行かない方がいいと諭された。
出釈迦寺の縁起は、元禄元年(1688)に書かれた四国徧礼霊場記を参照しておこう。
曼荼羅寺の奥の院という。西行は、この寺について次のように書いている。「曼荼羅寺の行道所/奥の院に登る道は手を立てたように急で、まことに骨が折れる(この世の大事)。空海が自筆の経を埋めた峰だ」。俗に、この坂を、世坂と呼んでいる。険しいため、参詣の人は杖を捨て岩に取り付いて登る。南も北も視界を遮るものがなく、一望に見渡せる。空海が観想修行をしていると、白い雲の中に釈迦如来が現れた。空海は釈迦を拝み、我拝師山と名付けた。山家集に拠ると、この辺りの人は「わかはし」と言い習わしている。「わがはいし山」の「山」も捨てて読まない。昔は塔が建っており、西行の時代までは礎石が残っていたという。この山は、善通寺五岳の一つだ。西行の時代には既に堂もなかったらしいが、近世、宗善という人が志を立て、麓に寺を建立した。また、この山の一際険しい場所を、捨身の嶽と呼んでいる。幼い頃の空海が、己の修行が成って人々を救うことが出来るか否か試すため、仏に祈って飛び降りた。天人が下ってきて、空海を受け止めた。西行の歌に、「巡り会はん事の契りと頼もしき 厳しき山の誓いみるにも」。西行の旧跡・水茎の岡は、曼荼羅寺の縁起に載せられているが、出釈迦寺にある。(出典 *2)
原文はいささか読みづらいので、伊井暇幻氏のホームページから現代語訳を拝借した。要するに出釈迦寺は曼荼羅寺奥之院の遙拝所として創建された寺であり、両寺は我拝師山を拝する一つの寺だったのである。「わかいし」は「わかいち」、即ち若一王子のことで熊野十二所権現の内、五所王子の筆頭にあたる。主に辺路(へち)に祀られる神仏習合の神で、四国では土佐に多いようだ。五来重は「わかいし」を弘法大師信仰に言寄せて「我拝師」としたのではないかという。佐伯真魚こと少年期の空海がこの山の崖から捨身して天女に救われた「捨身誓願」の話は有名だが、実際に飛び降りたかどうかは別として、実家からほど近いこの山の中で修行を積んでいたことは間違いないだろう。曼荼羅寺はもともと「世坂寺」(よさかでら)と称し、佐伯氏の氏寺として推古四年(596)に創建された八十八ケ所霊場の中で最も古い寺院である。
翌日は早朝から金刀比羅宮に参詣し、下山のあと再び出釈迦寺に向かった。寺の上にある駐車場に車を停め、舗装路となった世坂を歩いていく。奉納された石灯籠が続き、南無大師遍照金剛と記された赤い幟がはためく。弘法大師信仰の底の厚さを感じながらしばらく進むと、空海ゆかりの禅定手水場やら西行法師が腰掛けた石などがあって、その先を回り込んだあたりで山間に禅定院の建物が見えてくる。さして距離はないなと見上げつつも、足元は傾斜30度はある急坂だ。休まず登っていくと息が切れる。
最後の坂を登りきると我拝師山の扁額のかかった山門。ここまでで約40分だ。山門の上の鐘楼で鐘を撞き、山腹から善通寺の町並みを眺める。標高500mに満たない山とはいえ、なかなかの眺望である。鐘楼を下り、禅定院で手を合わせる。元々はここが札所だった。さて行場へはここからだ。堂宇の右脇にある行場への入口を潜るといきなり岩場が現れる。奥之院というものはこうでなくてはおもしろくない。鎖にしがみつかなくともなんとか登れるが、観光で来た方は怖じ気づくかもしれない。無茶せずゆっくり攀じ登っていく。やがて岩盤が少し平らなところに出た。捨身ヶ岳の頂だ。南無大師遍照金剛。
3m四方あるかないかの狭い場所に自然石でつくられた護摩壇の跡がある。護摩は空海や最澄が唐からもたらした密教の修法だが、奈良時代には伝わっていない。それ以前からあった行場なら、岩の周囲を行道し、実際に捨身を行なっていた場所ということになる。飛び降りて岩場に吸い込まれ、絶命した行者も少なからずいた筈だ。そう考えると高所は割と平気な当方も足が竦んでくる。
奈良時代以前から初期にかけて、捨身する行者は大勢いたようで、養老律令(718年)の中の僧尼令には焚身捨身を禁ずる条項がある。大峰修験には繩でからだを縛り、崖上から逆さに吊り下げる「覗き」という行がある。この行は本当に命をなくしてしまっては意味がないので、擬死再生の行として残存した捨身の一形態らしい。明治以前には願を掛けて”清水の舞台から飛び降りる”ことも行われていたわけで、宗教的行為の選択肢の一つとして古くから「捨身」があったのだろう。
もう一つ当時の行をうかがわせることがある。それは我拝師山の隣の中山を越えた先にある「火上山」の存在だ。最御崎寺や神峯寺を取り上げた記事で触れたが、ここでも山名から「龍燈」を焚いていたことがわかる。辺路修行者たちは海に接した山の頂で火を焚き、龍宮や海神に捧げていたのである。空海が修した虚空蔵求聞持法では、真言を繰ること、行道すること、聖火を焚くことの三つの条件が揃った場所が必要とされるが、行道と聖火は仏教以前からの修法だ。五来重はこれを海洋宗教の名残りではないかとしている。
始源の神はいずれも常世の神であり、海の向こうから寄り来る神であった。そしてやってきた神々はその住まいや姿、立ち居振る舞いを変えていった。海から川を遡上して山に至り、天に上る。そして再び天から山に、田に、里に降りてくる。日本神話や、今も続く民俗の数々はこのことを示している。なぜ神は”来訪”するのか。日本の神々とは何なのか。僕たちは今一度このことを考えるべきかもしれない。来し方は行く末を占うのである。
(2023年10月21日)
出典
*1 「四国遍礼霊場記」 国立公文書館デジタルアーカイブ
https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/F1000000000000041501.html
*2 伊井暇幻 我拝師山出釈迦寺(七十三番) 四国遍礼霊場記 口語訳http://iikagen.kt.fc2.com/r73.html
参考
五来重「霊場巡礼② 四国遍路の寺(上)」角川書店 1996年
筑紫申真「日本の神話」ちくま学芸文庫 2019年