羽黒岩(羽黒堂):岩手県遠野市綾織町新里8地割

巌龍神社:岩手県遠野市小友町33地割4

山崎金精様:岩手県遠野市土淵町栃内16地割100

呼ばれ石:岩手県遠野市宮守町上宮守18地割


遠野にはさまざまな巨石信仰がある。いわゆる磐座とは少し趣が違って、神々の依り代というよりも、岩石自体がなんらかの物語を纏っている。このブログで以前紹介した「続石」がそれらの代表だが、こうした石のエピソードは柳田國男の「遠野物語」にも数多く採録されている。ここでは四つほど取り上げてみたい。


まず、羽黒岩だ。釜石線の綾織駅と遠野駅の中間、道の駅からほど近い場所にある。黒い下駄のモニュメントが目印だが、背後の山の中腹にあるので10分程度山道を歩く。遠野物語拾遺10を引いておこう。



綾織村字山口の羽黒様では今あるとがり岩という大岩と、矢立松という松の木とが、おがり(成長)競べをしたという伝説がある。岩の方は頭が少し欠けているが、これは天狗が石の分際として、樹木と丈競べをするなどはけしからぬことだと言って、下駄で蹴欠いた跡だといっている。一説には石がおがり負けてくやしがって、ごせを焼いて(怒って)自分で二つに裂けたともいうそうな。松の名を矢立松というわけは、昔田村将軍がこの樹に矢を射立てたからだという話だが、先年山師の手にかかって伐り倒された時に、八十本ばかりの鉄矢の根がその幹から出た。今でもその鏃は光明寺に保存せられている。(出典*1)





二の鳥居、三の鳥居をくぐり、急坂を上がると平らかに開けていた。社殿には出羽神社の扁額。ここは出羽は羽黒修験の行場だったのだろう。社殿の裏手には斜めに二つに裂けた巨岩が見える。羽黒岩だ。近寄るとかなりの大きさで、高さは10m近くはありそうだ。羽黒岩の横にもいくつか巨石が並んでいる。裏に回り込んでみてわかったのだが、大きな岩塊の一部が崩れるか削れるかして出来たものらしい。修験が好みそうな窟もある。羽黒岩の脇の松が矢立松かとも思ったが、幹回りから考えると坂上田村麻呂の時代のものではないようだ。とはいえ、羽黒堂の創建は平安時代とも伝えられることからすると、古くから山伏の聖地であったようだ。当地から4kmほど西に行ったところには、たしかに光明寺という寺があった。鉄矢の鏃はいまも保存されているのだろうか。













次は巌龍神社だ。小友川に架かる橋の手前に車を寄せる。橋の向こうには高さ54mの巨岩が聳え立っている。巨岩というよりも山で、壮大さを感じさせる景観だ。参拝は早々に済ませ、岩塊の近くから見上げて観察する。山の一部が縦方向に欠けて岩肌が剥き出しになっているのだが、岩が削れた部分は龍の鱗を想わせ、その様子はたしかに龍が天に向かって昇っているかのように見える。修験者によくある見立てだ。ひょっとするとこの岩山を行場としていたのかもしれない。








当社の由緒を記しておこう。

巌龍神社の創建の時代はあきらかではないが、『小友村勝蹟志』によると、小友村の常楽寺の開祖無門和尚が、寺の鎮護として不動明王を勧請して巌龍山大聖寺と称し、不動巌を本尊としてあがめ、羽黒派修験の源龍院が、別当職をつとめるようになったと伝えられる。元禄年間(1688~1704年)には拝殿が建立、次いで文化六年(1809年)本殿が建立された。明治五年には神仏分離政策のため、祭神を日本武尊尊に改め、巌龍神社となった。



写真家で宗教民俗学者でもある内藤正敏氏は、著書「聞き書き 遠野物語」の中で、こう記している。「山伏・源龍院が旧暦9月28、29日に行う祭があった。不動岩には竜が昇るような形をした割れ目があり、その割れ目を山伏が読経しながら頂上まで登った。これは、明らかに修験で重視する胎内くぐりの儀式化であり、修験道的な再生の儀礼であった」。いやはや。「これ登るんかいっ!」というのが僕の正直な感想である。


大きな岩を見てきたので、あと二つ小ぶりなものをお目にかけよう。遠野で有名なカッパ淵から5km。早池峰山の東南麓、山崎地区に「山崎金精様」がある。金精様なので子宝祈願の陽石として祀られている。この土地のご婦人方は、ここに奉納されている赤い小枕を二つ借りてきて腰元に置き、願いが叶えられれば二つにしてお返しするならわしがあるという。この金精様も遠野物語拾遺16にとりあげられている。




土淵村字栃内の和野という処の石神は、一本の石棒で畠の中に立ち、女の腰の痛みを治すといっていた。畠の持主がこれを邪魔にして、その石棒を抜いて他へ棄てようと思って下の土を掘って見たら、おびただしい人骨が出た。それで祟りを畏れて今でもそのままにしてある。故伊能先生の話に、石棒の立っている下を掘って、多くの人骨が出た例は小友村の蝦夷塚にもあったという。綾織村でもそういう話が二か所まであった。(出典*1)



ここは縄文遺跡、それも墓所だったのではないか。この金精様も元はといえば石棒だろう。石棒の多くには火で炙った跡があって、その部分が赤く変色している。検分して確かめようかとも思ったが、注連縄が巻かれ、真新しい紙垂を下げた金精様を前にすると、さすがにそうはいかない。背後の山頂には賽の河原があり、中世の人々は”死と再生のまんだら”をここにつくっていたらしい。遠野にはいくつもの縄文遺跡がある。発掘されてこそいないが、ここも縄文遺跡であった可能性は高いだろう。夕方に訪れたこともあって、あたりは暮れなずんできた。墓所であることがわかったからか、なんとなく不気味で物の怪でも現れるのではないかと思った。


最後は「呼ばれ石」だ。そもそもここは目的地ではなかった。石神のある立石稲荷神社を探していて、たまたま見つけたのである。結局、立石稲荷への道はわからずじまいだったが、思わぬ拾い物をした。





この石には以下のエピソードがある。


上宮守から塚沢へ行く国道沿いに大きな岩がある。いつのころかは定かではないが、この巨岩の付近で働いていた者たちが、遠く離れたところにいる仲間に、昼飯だよと叫ぶと、その巨岩もその声に応じて同じことを言い、その岩の上のほうに同じような岩がもう一つあって、同じように応じる。何となく薄気味が悪いので、人々は狐狸の仕業だろうと言って、猟師に頼んで一発石に打つと、それからその岩は人間が叫んでも呼応しなくなったという。今でもその岩には鉄砲傷が残っているという。 


遠野物語にこの話は採録されていないが、非常に遠野らしい話だ。呼ばれ石は国道396号線から入った脇道にあり、また石自体さほど大きなものではない。普通ならまず通り過ぎてしまう場所だが、ここには「遠野資産第23号」と記されたモニュメントと案内板が立っている。「遠野遺産」とは、遠野市が2019年にはじめた文化資産の保護・活用制度だ。総務省は「遠野らしさ」を構成する重要な文化遺産や自然が保護され将来へと引き継がれるだけでなく、市民の手で地域資源を再発見し、保護・活用する過程で、魅力ある地域づくりとふるさとへの誇りが醸成される、双方向的な効果のある市独自の制度、と紹介している。



遠野遺産には、現在までに有形無形あわせて169件が認定されており、本稿で紹介した四つの巨石も構成資産なのである。地域文化の掘り起こしは、教育委員会や郷土史家だけでは限りがあろう。柳田國男と佐々木喜善が出会わなければ、遠野はまた違った土地柄になっていたかもしれない。柳田は「遠野物語」初版の序にこう記している。


国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。


(2022年7月28日、 2023年7月30日)


出典

*1 柳田国男「新版 遠野物語 付・遠野物語拾遺」角川ソフィア文庫 令和4年


参考

内藤正敏「聞き書き 遠野物語」新人物往来社 昭和53年

山田政博「東北石神様百選」プランニング・オフィス社 2022年