於呂閇志胆沢川神社:岩手県奥州市胆沢若柳下堰袋48

於呂閇志神社(奥宮):岩手県奥州市(猿岩山)

 

北東北にアイヌ語地名が多いことは、恐山を訪れた時に知った。恐山に宇曽利湖という強酸性の湖がある。「ウソリ」は、蝦夷≒アイヌ語の「ウソロ」(窪み、湾、入江の意)であり、さらに「オソレ」に転訛したとされる。北海道と青森は海を隔てているとはいえ、縄文時代から往来があり、交易にとどまらず、移住によって相互の文化に影響をもたらしていたことは知られるところだ。

 

胆沢という地名もアイヌ語地名ではないかと思っていたのだが、調べてみるとアイヌ語で「イ(それが)サハ(山間の平地)」や夷狄の多い賊奴の奥地「夷多(イサワ)」、曲流に囲まれた扇状地「砂曲(いさわ)」といった説、また胆沢城築城に由来するという説などがあるという。

 

もう少し詳しく知りたいと文献を探していくと「随想 アイヌ語地名考(岩手県市町村別)」なる本に巡り合った。早速入手してみると、県内で社会科の教員をしておられた菅原進という方が、趣味が嵩じてつくった私家版だったのだが、560頁にも及ぶ労作に舌を巻いた。本稿の後段はかなりの部分をこの著者の論考に負うことになるのであらかじめお断りしておく。

 

 

 

 

さて、於呂閇志胆沢川神社である。おろへしいさわがわと訓む。以下、案内板から当社の由緒を写しておこう。

 

当神社は、明治四年に「於呂閇志神社」と「胆沢川神社」を同床に合祀した延暦17年(789)の延喜式神名帳に記載された神社です。胆沢川神社は大同2年(807)坂上田村麻呂の勧請と伝えられ、祭神は水速女命(みずはやめのみこと)として水神様を祀る神社であり、祭日は、九月十二日である。於呂閇志神社は、元来石淵地区の猿山に鎮座する。「於呂閇志神社略縁起」によれば弘仁元年(810、嵯峨天皇の勧請と伝えられています。祭神は、須佐之男命・木花咲耶姫命を祀り、祭日は四月二十九日。この春の例祭には、神の「よりしろ」となる椿・隈笹・お札からなる「御守札」を配る作神様としての神事がみられます。本殿には、方一間木造入母屋造で、桟唐戸には黒漆塗に金泥をもって竹に雀、九曜紋並びに桐紋を描いた旧伊達宗章廟厨子が収納されています。江戸時代初期の様式美が窺えます。平成二十年三月 奥州市教育委員会

 

前稿で紹介した愛宕山神社から東に4km程のところ、胆沢川から引いた用水、茂井羅中堰(もいらなかぜき)に並行して境内が広がる。延喜式神名帳記載の古社といっても、現於呂閇志神社は明治四年に再興、改称され、同四十年に社殿が設けられた遥拝所である。旧鎮座地は胆沢ダムのある奥州湖畔、猿岩山の山頂にあり、近世には羽黒修験の流れを汲む猿山神社であった。一方の胆沢川神社は来歴がよくわからない。胆沢川上流にあった社殿が洪水で流され、明治四年に於呂閇志神社の隣に再建されたという。二社相殿となったのは社殿が造られた明治四十年になってからだ。参拝してみるといわゆる里宮、鎮守としての風であり、神霊を象徴するなにかを感じとることはできなかった。

茂井羅中堰

 

ということで、さっそく奥宮のある猿岩に向うことにしたが、グーグルマップで確認する限りここに向う道は出てこない。いろいろ調べてみると、どうやら対岸から橋が架かっており、車でも渡れるらしい。焼石岳方面に向って20分ほど車を走らせ、胆沢ダムの西側を行くと、猿岩を望む「おろせ広場」という展望台があった。車を停めて降りてみる。

 

猿岩

 

下嵐江と字をあてて「おろせ」と訓むのだが、「おろへし」と語感が似ている。暫し、猿岩を眺める。これは岩というより山だろう。ここには「弘法の枕石」なるベッド状の巨石があって、弘法大師が猿岩山頂の於呂閇志神社を訪れた際に一夜を伏した石という。修験発祥の伝説だろうが、その後ろにはダムに沈む前の神仏習合の様子がわかる石碑や地蔵などが並んでいた。さて、おろせ広場のすぐ先にはやはり対岸に渡る橋が架かっていた。

 

弘法の枕石

 

 

 

橋は車一台がやっと通れる幅しかない。対向車がいないことを確認してそろそろと進む。猿岩山の麓に出るとほどなくして舗装路ではなくなる。しばらく行くと道が二手に分かれるので迷わず左へ。未舗装の砂利道を上っていくと山頂と思しき場所で行き止まりになった。ここに車を停める。少し下ったところに「猿岩の頭 登山口」と記された標識が立っていた。

 

 

 

奥宮は30m行った先にあった。鳥居はなく、木と漆喰で造られたと思われる質素な祠の前には石灯籠が二基あるのみである。祠の扉には賽銭入れと思われる丸い穴が開いている。賽銭を入れて、中を覗き込むと小さな神像が一体。その左の小さな祠の中には横を向いた白狐が収まっていた。たぶん普段から参拝する人はいないのだろう。祭日とその前後だけ、里宮の神職と氏子総代が訪れるといった態ではなかろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だが、ここにひとり身を置くと特有の聖性を感じることができる。頭の中で祠が取り払われた空間を想像してみる。山のてっぺん。そこは樹々に囲まれ、枝葉の間から光が差し込んでいる。時折、風が樹々を揺らす。沖縄の御嶽に極めて近い風景。これこそが聖地なのである。里宮とは比べ物にならないくらいの感興を覚える。

 

さて、「おろへし」とはなにを意味するのか。冒頭に紹介した菅原進氏はこう考証している。

 

…下嵐江(おろしえ・おろせ)…

「おろしえ」も「おろせ」もアィヌ語を語源に持つ古地名ではないか…といわれますが、これらの地名は、まさに、そのとおりであり、次のような同根、同義のアィヌ語系の古地名であると考えられます。「おろしえ・おろせ」の語源は、=アィヌ語の「オ・ウラシ・ウシ・イ(o・uras・us・i)」→「オウラスシ(ourasusi)」であり、その意味は、=「川尻の・ササ(笹)が・群生する・所」になります。

…於呂閉志(おろべし)…

「下嵐江(おろしえ)」の石淵ダム湖岸にそそり立つ「猿岩山」と呼ばれる岬状尾根頭の上に「於呂閉志(おろべし)神社」があります。その「於呂閉志神社」の「おろべし」は、地名の「おろしえ」が誤って伝えられたものだろうといわれたりしていますが、そうではなく、「おろしえ」の方が「おろべし」から転訛したものであって、正しくは「おろべし」だったろうともいわれております。このことについて、私は、「おろべし」の語源と「おろしえ」の語源は、共に同じアィヌ語地名を指す同じ意味の地名であるとし、次のように考えております。

「おろべし」は、=アィヌ語の「オ・ウラシ・ウシ・ペシ(o・uras・us・pes)」の転訛で、その意味は、=「川尻の・ササが・群生する・断崖」になります。アィヌ語の「ペシ」の意味は「崖」ですが、とくに「水際の断崖」のことを「ペシ」と呼びますから、「於呂閉志神社」のある猿岩山の断崖は、まさに、その「ペシ」の名にぴたりと当てはまります。結局は、前述した「おろしえ」と、この「おろべし」とは、これを元のアィヌ語に戻して考えると、次のような同一語源の地名だということがわかります。

a.「おろしえ」は、=アィヌ語の「オ・ウラシ・ウシ・イ(o・uras・us・i)」の転訛で、その意味は、=「川尻の・ササが・群生する・所」になります。

b.「おろべし」は、=アィヌ語の「オ・ウラシ・ウシ・ペシ(o・uras・us・pes)」の転訛で、その意味は、=「川尻の・ササが・群生する・断崖」になります。

したがって、上の〔a〕と〔b〕は、同じ「下嵐江のササの群生する猿岩山の岬状尾根頭の断崖」という同一対象物のことを、それぞれ代名詞と名詞で表す同じ意味の地名であることがわかります。(出典*1)

 

ここまで読んでおわかりの方もいらっしゃると思うが、社頭の案内板にあった「祭日は四月二十九日。この春の例祭には、神の「よりしろ」となる椿・隈笹・お札からなる『御守札』を配る」神事は、蝦夷或いはアィヌの古風を留めるものなのである。長くなるが菅原氏の著書から引用を続ける。

 

「おろしえ」の「おろべし神社」の例祭は、毎年4月29日だそうですが、その日に参拝に訪れる氏子の人たちは、神社所在の比高170mの断崖の上にある聖なる神の山「猿岩山」に自生しているサルヤマユキツバキの枝とササを手折って持ち帰り、自家の田んぼの水口に立てて、豊作祈願と虫除けのお祓いをする習わしが伝わっていたようです。(中略) この「ツバキとササの枝」は、北海道のアィヌの人たちの間に伝わる「ハシ・イナウ(枝・幣)」の習わしそのものであり、それはアィヌ語族であった古代エミシの人たちが遺した重要な祭具の一つであります。「イナゥ」の中でも「ハシ・イナゥ」は、その昔、若者が神木の小枝を手折って神に祈り、その小枝に思いを託して好きな娘に贈ると、思いが叶うということでも用いられていたように、豊作を祈る現代の胆沢の人たちが、聖なる「於呂閉志」の「猿山の丘」の「於呂閉志神社」からいただいた聖なるツバキとササの小枝に願いを込めて自家の田んぼの田の神様に祈ると、思いがかなって豊作になるということでありましょうから、この習わしは、古代のアィヌ語族の「ハシ・イナゥ」の信仰が、ほとんどそのまま現代に伝えられているということになります。(出典*1)

 

いやはやこんなにおもしろい話があるだろうか。底なしの沼にはまってしまいそうだ。当社では今もこの通りの神事を執り行っている。文末に映像のURLを貼付しておくので、ぜひご覧になっていただきたい。

 

菅原さんは1925年生まれだという。ご存命なのだろうか。

 

(2023年7月29日)

 

出典

*1 菅原進「増補改訂版 随想 アィヌ語地名考(岩手県市町村別)」2003年

 

参考

小形信夫「於呂閇志胆沢川神社」谷川健一編『日本の神々−神社と聖地- 第十二巻 東北・北海道』白水社 1984年

シリーズにっぽん農紀行ふるさとに生きる-農山漁村ドキュメンタリー映像- 「04.於呂閇志胆沢川神社、春の例大祭、豊作祈願の雪椿」家の光協会

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