磐神社:岩手県奥州市衣川区石神99

女石神社(松山寺境内):岩手県奥州市衣川区女石50

愛宕山神社:岩手県奥州市胆沢若柳愛宕176

 

この三年ばかり三陸への出張が年二回ほどあって、これにかこつけて岩手や宮城をよく旅するようになった。東北、特に北東北はまだまだ人口に膾炙しない聖地が多い。当時の中央、大和の歴史や文化とは異なる視点から切り込むと思いもしなかった地平が開かれる。それは僕にとってなかなかにスリリングな経験だ。この稿では奥州胆沢をとりあげることにしたい。

 

胆沢は、平安時代以前の蝦夷の有力族長の一人、阿弖流爲(アテルイ)の根拠地であり、後に坂上田村麻呂が鎮守府として胆沢城を築いた地だ。水に恵まれた肥沃な地で弥生時代には米がつくられるなど古くから農耕が盛んであり、三大散居集落の一つとされる。このあたりを車で走っていると、季節を問わずとにかく気持ちがいい。そうした場所に磐座があると知ったので訪ねてみた。磐神社はこれぞ散居集落という田圃の中にある。参道の先、小さな森の中に佇む姿は、伊勢の神服織機殿神社や神麻績機殿神社を思わせる。実に美しい。まずは社頭の案内板を見てみよう。

 

 

 

延喜式内奥州一百社の内で胆沢七社の一とされ、古代より崇敬された神で ある。この神社は男石大明神とも称し、 松山寺境内の女石神社と合せた陰陽の二神で日本武尊、稲葉姫命をまつるとされ、二社に分れるが当社が本社となっている。ご神体は東西10.2m、 南北8.8m、高さ4.2mの自然石で古来社殿は設けないならわしであったが、明治30年頃、近郷の氏子の強い 要望による寄付金で拝殿が建築された。なお、当社のすぐ右前方には安倍館 があり、安倍氏は当社を守護神(荒覇吐神)として尊崇し、磐井以南に威を振う拠点をこの地に形成したと伝え られる。

 

 

一般に式内社と聞いてイメージするありようでは全くない。「古来社殿を設けないならわし」とあるので、明治の半ばまでは田畑の真ん中に磐座がぽつんと坐しているだけだったのだ。まず、そのこと自体に痺れてしまう。社殿を持たない神社はこれまでもいろいろと見てきたが、元々神は常住しないのである。神輿に乗って渡御したり、勧請によって他の土地で祀られたりするように、本来移動する性質を持っている。また、神々は社殿を設けることを嫌い、これを建てる度に倒壊したという話も伝わる。きっと束縛されることを嫌うのだろう。祈りを捧げれば神籬や磐座に憑りつき、気分次第で託宣するような存在なのだ。

 

 

本殿の前で拝礼を済ませ、すぐに裏手に回り込む。おぉ、あったあった。お目当ての磐座である。ぐるりと回り込んで四方から写真に収める。現在は拝殿もあり、玉垣も巡らせてあるが、往古の人々はこの剥き出しの岩石を拝していたわけだ。延喜式内社に連なるのであれば、朝廷から官社として認識され、新嘗祭には幣帛を受け取ってもいたのである。俄かには信じ難いが、現代という眼鏡をかけて物事を見ることは戒めるべきだろう。前述したように、磐座は一般に神の依り代とされるが、これは磐座というより石神と呼ぶべきものか。この岩石自体が神であることは男石大明神という別称でもわかる。

 

 

 

続いて女石神社の磐座を見にすぐ近くの松山寺に向う。山門の左手の小祠の背後に、男石に比べてふた回りほど小さい岩が座し、注連縄が回されている。岩には裂け目が入っていて、これを女陰に見立てるのはなんだかなぁと思いながら、しげしげと観察する。陰陽で一対ということらしいが、男石は男根を思わせる形ではなく、これらは後々の見立てと思われる。日本武尊と稲葉姫を祀ったのも後世の付会だろう。

 

 

 

 

間違いないことはこの地には古くから岩石信仰が存在していたことだ。当地から15km西北、胆沢川の南には縄文前期後葉の環状集落、大清水上遺跡がある。この岩への信仰もひょっとしたら縄文時代に遡るかもしれない。遺跡の付近にも岩の小山を神体とする神社があるというので、車を走らせた。

 

胆沢川に並行して走る仙北街道は桜並木が続き、なんとも気持ちがいい。昨年の12月半ばにも一度訪れているが、花咲く時期にも来てみたいものだと思いながら、駐車場に車を寄せた。社頭に「奥州胆沢パワースポット 秋田三吉 愛宕山神社」と記した幟が立っている。とはいえ、先客は中年女性二人。このあたりに宿泊していれば別だろうが、観光客がわざわざ行く場所ではない。だが、鳥居の向こうに見えたピラミッドのような岩山はこれまでに見たことのない代物だった。

 

 

 

 

前回訪れた時は雪が積もっていてその様相がよくわからなかったのだが、まるで富士塚のようだ。社頭の幟に秋田三吉とあったので、太平山を模してつくられたものなのだろうか。先客がてっぺんから降りてきたので、こちらも登ってみることにする。感覚としてはやはり富士塚に近いが、号数を示す石標などはない。代わりに石祠や石碑。頂上に上ってみると結構な高さがある。15mはあるだろうか。祠の前で手を合わせ、中を覗いてみると石祠が収まっていた。目を凝らすとその中には木造の神像がこちらを向いていた。おっと失礼。

 

 

 

 

 

 

幼い子どもとお母さんがやってきた。この土地の人だろう。地元の信仰は篤いように感じる。このあたりの地名は「愛宕」で近くの小学校もこの地名を冠する。案内板には、こう記されていた。

 

愛宕は、元々は「愛宕原」と呼ばれ、松林と原野の広がる所でした。江戸時代を通して、ここには一軒の民家もなく、明治になって、いくつかの分教場を統合して愛宕分教場(愛宕小学校の前身)が建設された頃から、ぽつぽつと民家が増加し始め、県道(現在の国道)を定期バスが走り始めると、この地域の中心地として「散居」の中の住宅密集地になり、現在に至っています。愛宕の地名は、「愛宕さま」と呼ぶこの岩山の頂上に鎮座する「愛宕社」に由来します。昭和三十一年、増沢ダム建設に伴い、上衣川字増沢の愛宕社がここに合祀されました。「愛宕さま」は火防・火伏せや疫病除けの神様(権現様)として信仰されてきました。愛宕コミュニティのシンボルとして、平成十年、現在の形に整備されました。参道口から三基の石碑が並んでいます。順に「馬頭観世音」「愛宕岩供養」「梵字(十一字)」碑です。平成十一年三月 胆沢町

 

この文では前後の脈絡がよくわからないが、古くからこのあたりで信仰を寄せていたのだろう。愛宕の総本社は京都の愛宕山の山頂にある愛宕神社で、修験道のメッカの一つだ。とすると、この岩山は秋田の太平山を行場とした修験者たちが愛宕山を模して巨石を積んだものなのか。愛宕山も大平山も役小角の開山なので、そうした想像も出来なくはないが、記録などどこにもない。ただ、この山の周囲には巨石がごろごろしていて、なんとなくだが規則性のようなものも伺える。

 

 

富士塚の伝承や、近くの角塚古墳に寄せて古墳といった見立てもあるのだが、文字として記録にないということは、相当古くからこの岩山はあった筈である。僕の仮説は、元々ここは縄文人の祭祀場で、おそらくは環状列石があり、二分二至のどこかのタイミングで西の焼石岳に沈む太陽を拝していた、というものだ。先述した大清水上遺跡との距離はわずか5kmなのである。

さて、後編では於呂閇志胆沢川神社をとりあげ、当地とアイヌの関係について考えてみたい。

 

(2023年7月29日、2022年12月18日)

 

参考

山田政博「東北石神様百選」プランニング・オフィス社 2022年

巨石巡礼「愛宕社」http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_tohoku/iwa_atago/atago.htm