根本大塔:和歌山県伊都郡高野町高野山152

 

山内の通りを歩いている観光客は外国人、特にヨーロッパ人が多い。前夜泊まった光明院にもスペイン人と思しき三人がいた。ほかは一人旅の若い男女が数名、四国遍路の満願で訪れた夫婦といったところで、そのまま当地の観光客のペルソナを表している。現在宿坊として利用可能なのは52寺を数えるが、これだけあるとその評判もピンキリである。不衛生で愛想のかけらもないと悪評甚だしき宿坊がある一方で、外国人向けの経営に徹し、一泊10万円もするところもあるらしい。

 

光明院

 

おっかなびっくりで投宿したが、光明院についていえば"当たり"だった。接客や給仕を行う若い修行僧の人当たりはよく、部屋も風呂もトイレも綺麗でなにかと行き届いていた。食事はもちろん精進料理だ。本膳、二の膳、三の膳と品数も多く、見栄えもよかったが、満腹になった割に物足りなかったのはやはり生臭ものがないせいか。あるいは般若湯を吞まなかったからか。奥之院の弘法大師には毎日朝昼の二回、生身供(しょうじんぐ)が供せられるが、これで十分かもしれない。大師の食事は庶民の食べるものと同じであり、その本義は食材への感謝である。むしろその方がありがたみがあるようにも思えるがいかがなものか。

 

 

光明院では当夕18時夕食、19時瞑想、翌朝7時勤行、7時半朝食、8時護摩祈祷といったスケジュールが組まれており、勤行と護摩祈祷には参加してみた。護摩祈祷は遠巻きに見たことは何度もあるが、近くで体験するのは初めてのことだ。むにゃむにゃと経を唱えながら護摩を焚く。杓で刻み香を掬い、真鍮の器に入れて掻き混ぜる。これを火の中に放り込むとなにやら不思議な香りが立ち込める。香といえば伽羅や白檀の香りを思い浮かべるが、それらとは明らかに違う。記憶に刻まれたあの匂い。後で思い当たったのは”カレー”だった。それもそのはず密教で使われる香は、鬱金(ターメリック)、丁子(クローブ)、桂皮(シナモン)、茴香(ういきょう/フェンネル)など、香辛料としてお馴染みのものだ。これには少々驚いた。

 

さて、護摩祈祷を終え、光明院を後にして大門へ向かう。町石道の終点であり、高野山の入口にあたる。東寺の南大門を見た時もその大きさに驚いたが、知恩院の三門にも匹敵する国内最大級の構えである。宗教建築の大きさは信者の数に比例するのだろうか。因みに高野山真言宗は548万人。伝統仏教宗派の中では真宗本願寺派、同大谷派、浄土宗に次いで4番目の教勢になる。大門の前から下を見ると標高1000mの山の上にいることを実感するが、ここから奥之院までの道はほぼ平坦で、山上にぽっかりと現れた盆地のような不思議な地形だ。俗世を離れ、自然と一体となることを希求して止まなかった空海にとって、ここは紛れもない聖地だったのである。

 

 

メインストリートの小田原通りを歩き、壇上伽藍に向かう。中門をくぐると数々の堂塔が立ち並んでいるが、いちいち解説することが目論見ではないので、今回は根本大塔のみを取り上げる。

 

 

圧巻だった。いわゆる多宝塔の原型とされるが、その外観からして異国の趣が顕著で侘び寂びなど微塵も感じさせない強烈さである。焼失により幾度も再建されており、創建時の姿はわからない。しかし、工法はともかく塔容はそれほど変わっていないのではないか。空海が入唐の折に当時の建築様式を持ち込んだのかとも思ったが、今に残る中国の、たとえば西安(唐代の長安)あたりの寺院の古塔を見てもかなり異なっている。

 

調べていくと、この大塔は南天竺(インド)にあったとされる鉄塔を模したらしい。 密教伝持の第一祖にあたる僧、龍猛が金剛頂経を得る説話を描いた絵にはこの鉄塔が見える。大塔の竣工(817)よりも後世(1140年以前か)に描かれたものだが、その塔容はたしかに似ている。

 

両部大教感得図の内、龍猛(出典*1)

 

真言密教の根本経典は「智」を説く金剛頂経と「理」を説く大日経の二つあり、これらが相互に関係してひとつの真理を表す(金胎不二)とされる。両界曼荼羅でおなじみだが、仏塔についても胎蔵界の根本大塔(東塔)に対して金剛界の西塔の二基一対とし、造作も近似する。ここにシンボルたる大塔をつくるにあたって、密教第八祖を継承した空海が設計のコンセプトに前述の説話を用いたのだろうか。いずれにせよなんらかの参考はあった筈で、唐にいる間に絵画などを通して知識を得たのかもしれない。(参考*1)

 

大塔の中に入ると、金色の仏像群とこれを囲む極彩色の柱絵に目が眩む。一層の異国感が醸成されていて、タイかどこかの寺院にいるようだ。ここで目にするものは風土、歴史、人々の生活意識の中で独自の変遷を経た鎌倉仏教とは明らかに異なっている。視覚的にはかたちや色に負うものが大きいが、突き詰めれば宗祖の理念や価値観の違いによるもので、空海の思想が現実に結晶したものといえるだろう。

 

根本大塔内部(出典*2)

 

仏像や柱の構成は立体曼荼羅である。上から見ると下図の配置となっているが、これを見たから悟りを得られるというものではない。マンダラ(Mandala)はサンスクリット語である。中心の意味を持つマンダ(Manda)と、物を所有を表す接尾語ラ(la)から為る言葉で、直訳すれば「本質を所有するもの」転じて「本質を表しているもの」になる。密教では「仏の集合した場、空間」を意味し、人間から見た仏の悟りの境地や世界観を表したものとされる。曼荼羅の表した世界観に近づくには、四度加行を十分に積んだ上で観法を繰り返す必要があるという。 凡夫が眺めるだけで直感的に悟ることなどそもそも無理なことなのだ。

出典*3

 

日本に曼荼羅を持ち込んだのは紛れもない空海その人だが、では空海はなんのために大塔の中に立体曼荼羅を構想したのか。密教は当時の仏教の最先端であったものの、一般の期待は現世利益を叶えるための加持祈祷であり、教義の理解は二の次であった。三密(動作、言葉、思想)を修してこその密教なのだが、人々の関心を引きつけ、広く膾炙させるためには仕掛けと演出が必要である。つまり、密教の宇宙観を疑似体験させるために、永遠の一発を咬ましたのである。なんとも空海らしいではないか。根本大塔は、密教空間が演出された総合芸術ともいうべきもので、発想もやることも宗教者というより稀代のアーティストである。

 

 

高野の周囲の山々は八葉の蓮華の花びらに見立てられ、山内は「浄土」の位置づけである。その真ん中に立つ大塔は、胎蔵界曼荼羅の中心部である中台八葉院である。すなわち、ここに宇宙の原理そのものである大日如来が存在するということに他ならない。それにしてもよくこんなことを考えつくものだ。

 

左:国宝 両界曼荼羅図 金剛界曼荼羅 平安時代 右:国宝 両界曼荼羅図 胎蔵界曼荼羅 平安時代(出典*4)

 

長くなるが、最後に空海が嵯峨天皇に高野山の下賜を上表した文書を転載しておく。その典雅な文体を尊重し、あえて口語訳は記さない。読者諸氏にてあたってほしい。

「紀伊国伊都郡高野の峯において入定の処を請け乞うの表」

 沙門空海言す。空海聞く、山高きときはすなわち雲雨物を潤し、水積るときはすなわち魚竜産化すと。この故に耆闍の峻嶺には能仁の迹休まず。孤岸の奇峰には観世の蹤相続く。その所由を尋ぬるに、地勢自ら爾るなり。また台嶺の五寺には禅客肩を比べ、天山の一院には定侶袂を連ぬることあり。これすなわち国の他から、民の梁なり。

 伏して惟るに、わが朝、歴代の皇帝、心を仏法に留めたまえり。金刹銀台、櫛のごとくに朝野に比び、義を談ずる竜象、寺毎に林を為す。法の興隆ここにおいて足んぬ。ただ恨むらくは、高山深嶺に四禅の客乏しく、幽藪窮厳に入定の賓希なり。実にこれ、禅教いまだ伝わらず、住処相応せざるの致すところなり。今、禅教の説に准するに、深山の平地、もつとも修禅によろし。

 空海少年の日、好んで山水を渉覧して、吉野より南に行くこと一日、さらに西に向つて去ること両日程にして、平原の幽地あり。名づけて高野という。計るに紀伊国伊都郡の南に当れり。四面高嶺にして人蹤蹊絶えたり。今思わく、上は国家の奉為に、下は諸の修行者のために荒藪を芟り夷げて、聊か修禅の一院を建立せんと。経の中に誡めあり。山河地水はことごとくこれ国主の有なり。もし比丘、他の許さざる物を受用すれば、すなわち盗罪を犯すといえり。しかのみならず、法の興隆はことごとく天心に繋れり。もしくは大、もしくは小、あえて自由にせず。望み請うらくは、かの空地を賜うことを蒙つて、早く小願を遂げん。しからばすなわち、四時に勤念してもつて雨露の施を答したてまつらん。もし天恩允許せば、請う所司に宣付したまえ。軽々しく宸扆を塵して、伏して深く悚越す。沙門空海、誠惶誠恐、謹みて言す。

 弘仁七年六月十九日 沙門空海上表す。(出典*5)

この稿でちょうど150稿になった。初めての投稿が2018年6月14日なので五年間綴ってきたことになる。いつもお読みいただき、感謝に堪えない。きりもよいので、空海に関係する聖地についてはここでいったん筆を措くことにする。

 

(2023年4月29日)

 

出典

*1 両部大経感得図 藤田美術館

*2 金剛峯寺 Wikipedia Wikipedia

*3 「壇上伽藍」修行の場を曼荼羅化した高野山二大聖地の一角 空海の聖地を訪ねる。  Discover Japan 2020年

*4 立体曼荼羅 東寺ホームページ

*5 空海「性霊集」抄 角川ソフィア文庫 令和5年

 

参考

*1 真鍋俊照『南天鉄塔図』について 密教文化 密教研究会 1983年

*2 真鍋 俊照「マンダラは何を語っているか」講談社現代新書 1991年

*3 松永有慶「高野山」岩波新書 2014年