丹生都比賣神社(天野大社):和歌山県かつらぎ町上天野230


天野の里に入っていくと、実に美しい田園風景が広がっていた。かつて白洲正子はこの地を訪れて「ずい分方々に旅をしたが、こんなに閑かで、うっとりするような山村を私は知らない」と書いた。芸術新潮に「かくれ里」を連載していた時分のことだろうから1970年前後のことだ。それから五十年以上経つ。おそらく今も彼女が見たままの風景であり、この地はいにしえからさほど変わっていないように思える。


丹生都比賣神社は、真国川のほぼ源流に鎮座する。主祭神は丹生都比賣命、別称丹生明神。「丹」は朱砂(辰砂-硫化水銀)のことで、これを司る神だ。古代における貴重な鉱物資源であり、寺社建築の彩色はじめ、漢方薬の用途で知られるが、顔面や身体の装飾、古墳の棺や石室の壁画、ミイラにも使われていた。高野山麓一帯は丹の産出地であったことから、この採掘や精製を行っていた土着の民の地主神であったと思われる。空海は丹生明神から高野山を譲り受けたとされるが、このことは後で触れる。



かすかに水の匂いがする。集落の最奥に鎮まった社は、森と小川に囲まれ、聖地と呼ぶに相応しい相貌だった。初夏の好天の下、心身ともに洗われるような、清々しい気分になる。神仏習合を思わせる両部鳥居をくぐると太鼓橋が架かる。渡ると禊橋と中鳥居、その先の境内は広々としていた。





正面に入母屋造、檜皮葺の楼門。楼門の朱は少し黒みがかった鈍い色だ。奈良時代に赤土の赭(そほ)に対して、「真朱」(まほそ)と呼ばれたもので、純度が高いことを表す。神社の鳥居には目の覚めるような朱が多いが、これは硫黄などを合成した人工的なもので、「銀朱」(ぎんしゅ)として区別されたという。さすが「丹」を司る神だけあって古風をとどめている。その色はほんものの朱色なのだ。造営は室町時代らしく、落ち着いた佇まいを見せるが、建築意匠のみならず「真朱」という色がもたらすものは大きい。一種の品格を与えているように思われた。



楼門の前で参拝し、左手に回り込むと本殿を望むことができる。向かって右最奥から丹生都比売大神(丹生明神)、高野御子大神(狩場明神)、大食都比売大神、市杵島比売大神と横一列に並び、手前に若宮として真言宗の僧侶、行勝上人が祀られている。この僧は、鎌倉時代に気比神宮から大食都比売大神、厳島神社から市杵島比売大神を勧請したという。




当社は空海の高野山開創から明治の初めまでは神仏習合しており、かつては経蔵や堂舎、多宝塔などを擁する仏教色の濃い神社で、神職と僧侶も五十六人いたとの由。参考に往時を復元した動画のURLを貼っておく。https://youtu.be/t4xrMxmqqaU  境内を出て左奥に進むと鎌倉から室町時代に大峯修験が建てた石造の五輪卒塔婆が四基並ぶ。神仏分離の前は太鼓橋の前にあったものをここに移したとのことだ。修験者においてもここは聖地であったのである。



聖地の多くは特定の宗教と結びつくよりも、その場の持っている聖性において聖地たり得る。当社の場合、その聖性を担保するものは「丹」そのものだろう。創建は不詳だが、二つの伝承が伝えられている。一つは「丹生大明神告門(のりと)」で、大神は伊都郡奄田村(九度山町東北部)の石口に天降り、大和国吉野郡の丹生川上水分峰に至ったのち、大和国や紀伊国など各地に忌杖(いみづえ)を刺し、開墾・田地作りをして、最後に天野原に鎮まったとするものだ。「忌杖」とは聖俗の境界を示すことだが、丹の採掘を生業とした土着民がここを聖域としたのは、良質な「丹」が豊富に産出したということに他ならない。もう一つの伝承は、釈日本紀に引かれた播磨国風土記の逸文だ。神功皇后が新羅平定に向かう際に、播磨国の国造の石坂比売命(いわさかひめのみこと)に「爾保都比売命(にほつひめのみこと)」が憑依、赤土の効用を託宣し、これを授けた。神功皇后は軍船や兵士の衣類に赤土を用いて勝利を収めたため、紀伊国の管川の藤代の峯にこの神を遷して祀った、とある。管川の藤代の峯は、高野山の東(高野町上筒香)にあり、ここもやはり丹の産地であったようだ。


管川から天野の地へは高野山開創に際して空海が遷したとされ、高野、丹生の両明神から土地を譲られたという縁起はよく知られている。だが、空海自身の著作には丹生、高野明神に関して一言も触れられていないらしい。研究者の間では、丹生都比賣神社と高野山の公式な関係がはじまったのは、永観元年(983)から検校、執行として高野山の経営を担った雅真によるとされている。高野山の壇上伽藍の西側に丹生明神、高野明神を祀る「御社」という神社があるが、これも雅真が創建したものだ。雅真は後年天野に居を移したらしく、丹生都比賣神社の遷座も彼によるものなのかもしれない。



おもしろいのは高野山麓に伝わる民話だ。孫引きになるが紹介しておこう(出典*1)。

「弘法大師と借用書」

弘法大師は高野明神から十年間の期限つきで神領地を借りうけたが、その後秘かに借用書の「十」の上に点を打って「千」とした、高野明神はそんなこととは露知らず、約束の十年が過ぎても返還がないので催促したところ、大師は借用書を盾に応じなかったという。

「借用書と白ねずみ」

弘法大師は真言密教の修法道場として高野山を開山するにあたり、、地主である丹生高野明神に千年のあいだ神領地を借り受けますとの借用書を書いて広大な土地を借り受けたが、白ねずみが現れて借用書の「千」という部分を食べてしまったので、未来永劫神領地を返還しなくてよいようになったという。また、だから高野山では白ねずみを大切にするのだともいう。


こういう話が出てくるところはいかにも空海らしい。これらは江戸時代に国学者や神道家たちの弘法大師批判を背景に生まれたものだが、前稿の丹生官省符神社でも触れたように、空海が高野山を開くには地権者との交渉は欠かせず、なんらかの関わりはあった筈だ。ひょっとすると先住の地権者たる彼らに引導を渡すため、嵯峨天皇に勅許を申し出た可能性もないとは言えない。「丹」の採掘権を掌中にするために高野山を選んだと見る向きもあるが、空海がそこまであざとい人間とは思いたくない。



話題を天野の地に戻そう。「丹生明神告門」では、丹生明神が最初に天降った場所は伊都郡奄田村、いまの慈尊院と丹生官省符神社のある場所で、そこから転々と忌杖を行い、最後に落ち着いた場所が天野である。これを鉱山民俗学で知られる若尾五雄氏は、以下のように解釈している。


本拠を和歌山県伊都郡三谷においた丹生一族は、伊都郡・那賀郡・有田郡に転々と水銀鉱床の露頭を発見して採掘に従事し、一大水銀帝国を現出したが、水銀の需要の減退または鉱脈の涸渇のため、天野と三谷で帰農し、半農半猟のかたわら金属工業を副業的につづけた。この間、水銀神であった丹生明神の信仰も変化して農耕的な水神信仰に変化した。(出典*1)


丹宇都比賣命は女神としての像容が絵に残されてはいるものの、記紀の諸神など人格神とちがってどうにも人の匂いがしない。「丹」そのものを神格化したことに加え、空海への土地譲り以外にエピソードがないからなのだろう。農耕、養蚕、織物の神徳があるというが、これらは天野の地に住まう人々の生活と直結するものだ。元をたどれば地主神、ゲニウス・ロキなのである。



天野にはほかにも、丹生明神がはじめて当地に入った場所とされる奥之沢明神、狩場明神(高野明神、高野御子神)が空海と出会った一の滝不動、空海と丹生明神の話し合いが持たれた柳沢明神などさまざまな伝承地がある。良質な米の産地だともいうし、いずれ宿をとってゆっくり散策して、夜はホタルを追いながら、満点の星空を見上げてみたいものだ。


さて、いよいよ高野山の山内である。


(2023年4月28日)


出典

*1

丸山顕徳「丹生都比売神社」谷川健一編『日本の神々−神社と聖地- 第六 伊勢・志摩・伊賀・紀伊』白水社 1986年


参考

白洲正子「かくれ里」 講談社現代文庫 1999年

松田壽男「古代の朱」ちくま文庫 2017年

司馬遼太郎「空海の風景(下)」中公文庫 2010年

愛知県西尾市立図書館 国文学研究資料館「丹生明神告門

かつらぎ町教育委員会「丹生家文書目録」 

かつらぎ町観光協会 「天野の里

丹生都比売神社