丹生官省符神社:和歌山県伊都郡九度山町慈尊院835


年明けに土佐室戸を訪れてからというもの、弘法大師空海のことが頭を離れない。その関心は稀代の宗教者としての顔よりも、アーティストであったり、権謀術数を巧みに操る策士としての顔に向く。空海にはちょっと(いや、かなりか)人を喰ったようなところがある。それはおそらく、生まれ持った才能に加え、学問や修行に裏打ちされた自らの思想、信条への揺るぎない自信から来るものなのだが、時代や国家の枠組みを易々と越えていくあたりには一種のアナーキーさすら感じる。空海の思想の一つの到達点、象徴ともいうべき思想体系は真言密教だが、これは五感を駆使して感得するものであり、実際に経験しなければその意は汲めない。京の東寺(教王護国寺)にも何度か訪れたが、これは嵯峨天皇に下賜された官寺であり、空海は勅命を受けて仏法による国家鎮護を行う立場にあった。一方、高野山は空海自身が修行の適地を探して巡りあった場所であり、彼にとっての理想郷であった筈だ。聖も俗も、清濁も併せ呑んで止揚することが真言密教の一つの本質だと理解しているが、高野山は聖を具現する場ではなかったか。そんなことから当地に足を延ばしてみた。


高野山への参詣道は七つある。もっとも知られているのは空海が歩いた町石道である。この登山口にあたる場所に開山の縁起を伝える丹生官省符神社がある。関西新空港から車で五十分。丹生官省符神社の門前には慈尊院が建つ。ここから旅をはじめよう。


慈尊院山門


ここは空海の母、阿古屋が息子が開山した高野山を一目見ようと訪れ、亡くなるまで住んだ場所である。高野山は女人禁制であり、実母といえども山内に入ることは許されず、ここで一心に弥勒菩薩に祈っていたという。母の死後、空海はここに廟堂を建て、自らが作った弥勒菩薩像と共に祀ったと伝えられる。高野山全山の庶務を司る政所を置いた、いわば玄関口にあたる。別称「女人高野」。子授け、安産、育児への信仰が篤く、乳房の形をした絵馬が奉納されることで有名だ。拝堂の前はおっぱいでいっぱいだった。



右手に多宝塔を仰ぎ、壇上の丹生官省符神社への119段の石段を上っていく。明神鳥居の先に拝殿、その先に本殿。本殿は国の重要文化財だが、つい先頃まで修復工事を行なっていたらしい。朱の社殿が青空に映えて美しい。どこか熊野那智大社や速玉大社を思わせる造作だ。



丹生官省符神社




祭神は第一殿に丹生都比売大神(丹生明神)、高野御子大神(狩場明神)、天照大御神(天照大神)、第二殿に大食都比売大神(気比明神)、誉田別大神(八幡大神)、天児屋根大神(春日大神)、第三殿に市杵島比売大神(厳島明神)という構成で、七柱の神々を祀っている。元々は狩場明神のみが祀られていた場所だろう。狩場明神は空海を高野山に先導した地主神であり、当地の狩猟民の長と思われる。長くなるが、高野山の開創縁起を引いておこう。


お大師さまは真言密教を広める根本道場を開くために、適当な場所を求めて、各地を巡錫しておられました。ある日大和国(五條付近)で、白黒二匹の犬をつれた狩人に出会い「どこに、行かれる」とたずねられました。そこでお大師さまは「伽藍を建てるのにふさわしい場所を求めて歩いています」と答えられました。すると狩人は、「ここから少し南の紀州の山中に、あなたの求めている よい場所があります。この犬に案内させましょう」といって、そのまま姿がみえなくなりました。この狩人が、今日高野山におまつりされている狩場明神であるといわれています。お大師さまは、白黒二匹の犬に案内されて高野山に登る途中、丹生明神のお社のところまで来られました。すると、明神さまが姿を現わされて、お大師さまをお迎えし、「今菩薩がこの山にこられたのは全く私の幸せです。南は南海、北は紀ノ川、西は応神山の谷、東は大和国を境とするこの土地をあなたに永久に献上します」とつげられました。お大師さまは、この丹生明神と、高野山に登られたお大師さまは、「山の上とは思われない広い野原があり、周囲の山々はまるで蓮の花びらのようにそびえ、これこそ真言密教を広めるのに適したところだ」とお喜びになられました。しかも、お大師さまが唐で御勉強の後、帰国に際して、明州の浜辺から投げられた三鈷が、この高野山の松の枝にかかっていました。お大師さまはこの場所こそ私が求めていた土地だと、早速、真言密教の根本道場に定められました。弘仁七年(816年)、朝廷に上表して、嵯峨天皇からも許可を賜り、多勢のお弟子や職人と共に、木を切り、山を拓いて、堂塔を建て、伽藍を造られました。さきの狩場明神の御心持に報いるために、二柱の神を高野山の地主の神様としておまつりになりました。今の伽藍のお社がそれであります。(出典*1)


狩場明神


若い頃の空海は大和の大学に入学し、将来官僚を約束されていた身なのだが、僅か一年でドロップアウトし、出奔してしまう。彼が記した三教指帰(聾瞽指帰)にはその理由を「朝廷で名を競い市場で利を争う世俗の栄達は刻々にうとましく思うようになり、煙霞にとざされた山林の生活を朝夕にこいねがうようになった」(出典*2)とあり、阿波の大滝嶽、土佐の室戸崎、或いは石鎚山など、優婆塞として数年にわたって放浪しながら修行に励んだようだが、畢竟、勉学もさることながら実践の中にこそ、智慧や真実があることを見出したのだろう。その最初期に吉野金峯山や大峰を彷徨い、高野にも至っていたという仮説は多くの識者から提示されている。空海が高野山の下賜を嵯峨天皇に上表したのは四十三歳のことだが、多忙を極めた彼が若き日々を思い出し、自らの隠棲の場を求めたということなのかもしれない。やはり聖と俗が混淆している。これこそが空海という人物の真骨頂であり、慕われる理由なのだ。ついでに丹生官省符神社の「官省符」に触れておく。官省符荘とは太政官と民部省、今でいう内閣と財務省から認可された荘園である。いわばアジールであり、国家の不入を約束された場所だ。このこと一つとっても空海の周到さ、抜け目のなさを伺うことができよう。もっともこちらは「俗」の一面なのだが。


町石道


高野山に至る町石道の起点は境内右手を出て下ったところにあった。一町だけ歩いてみたが登山道とまでは言えないものの、気持ちのよい道だ。だが、緩やかな登りにせよ、根本大塔まで24km、七時間半はかかるとなると一日しごとだ。山内の僧侶でも毎度毎度そんなことはしまい。車に戻り、丹生都比売神社を目指す。


道すがら左手に小さな白い鳥居が見えた。なんだろうと車を寄せて立ち寄ると、狩場明神を祀っていた。扁平な石が立っており、脇に小さな祠がある。大理石の石碑にはこんなことが記されていた。



矢根研石


(前略)狩場明神は現在のかつらぎまち大字宮木辺りを根據とされ四方に遊猟し常にこの処にて矢の根を研ぎたりと云はれその跡がこの石であり紀伊続風高野山の部に「八幡の森又は御社の森は教良寺村の南に在り内に狩場明神矢根研石と云在り方一尺許りにて矢の根を研ぎたるやうの跡在り」と記されておる。狩場明神は又の御名を高野御子神と申し天野大社の主祭神丹生都比賣大神の御子であるとされており從って此の地は天野高野を結ぶ由緒ある史跡である。昭和五十七年九月県道新設のため現在地より西北五米の所より掘り出し昭和五十九年一月現在地に移す。昔よりの云ひ傳へによれば婦人此の石に触れば安産の霊験在りと云う。


狩場明神とは高野山麓一帯を狩猟の場としたこの地の豪族の長ということはすでに述べた。空海との邂逅は当社から東に15kmほど行った五條の犬飼山轉法輪寺とされているが、時の帝のお墨付きを戴いた空海といえども、丹、すなわち水と水銀の利権を伴う所領を譲らせるには骨が折れたことだろう。なにせ、空海が十年の期限付きの借用書を書いて、後に上手にこれを反故にしたとの民話が伝わるくらいなのだ。どうやって交渉したかは知る術もないが、丹生官省符神社の創建はほぼ間違いなく、空海が土地の領主の面目に配慮したものといってよいのではないだろうか。いやはや、空海したたかなり。


しばらく高野山について記すことにする。次は丹生都比売神社だ。壇上伽藍、根本大塔までお付き合い願いたい。


(2023年4月28日)


出典

*1 高野山真言宗金剛峰寺ホームページ「弘法大師の誕生と歴史」高野山御開創①②③

https://www.koyasan.or.jp/shingonshu/kobodaishi.html
*2 福永光司訳 空海「三教指帰 ほか」中央公論新社 2003年


参考

丸山顕徳「丹生都比売神社」谷川健一編『日本の神々−神社と聖地- 第六 伊勢・志摩・伊賀・紀伊』白水社 1986年

五来重「空海の足跡」角川書店 平成6年

五来重「高野聖」角川文庫 平成23年

司馬遼太郎「空海の風景(上・下)」2010年