杉鉾別命神社(川津来宮神社):静岡県賀茂郡河津町田中154

南禅寺:静岡県賀茂郡河津町谷津138
 

 

河津桜は、静岡県賀茂郡河津町で見ることができる、早咲きの桜の品種だ。毎年2月中旬から3月上旬にかけて開花し、日本全国でも有数の早咲き桜として知られている。河津桜は、淡いピンク色の花を咲かせる。花びらの形状は丸みを帯びた卵形で、5枚ずつが緩やかな傘のように咲き誇る。開花時期が早いため、冬の寒さがまだ残る時期でも咲くため、「冬桜」とも呼ばれている。河津桜は、自然の景色との組み合わせが美しいため、多くの人々に愛されている。河津町では、毎年「河津桜まつり」が開催され、多くの観光客が訪れる。

 

Chat GPTを使ってみたら上記の文章になった。語尾が敬体なので常体に直したがちゃんと日本語になっているし、内容も正確だ。一方、資料に頼りながら自分で書くとこうなる。

 

 

南伊豆の河津桜といえば、早咲きの桜で知られる。2月上旬から開花をはじめ、約一か月で満開になる。ソメイヨシノとは異なり、ピンク色の花を長く咲かせるので、花見のできる期間は長い。河津川沿いに800本を超える桜は思い思いの時期に花を開かせる。「河津桜まつり」では地元の飲食店や農産物を売る屋台が立ち並び、毎年多くの人々で賑わう。期間中は100万人もの観光客を集めるらしい。この桜は河津町に住む飯田氏が原木を見つけ、庭に植えたことにはじまる。その後の調査で新たな栽培品種とわかり、1974年に「カワヅザクラ」と命名された。地元の有志が河津川沿いをはじめ、町内全域に植樹したという。

 

国会答弁にChat GPTの使用を検討するとのことだが、原稿は棒読み、質問は暖簾に腕押しの首相答弁ならば構わないということなのだろう。

 

河津は以前、キノミヤ信仰を探る一環で訪れたことがある。キノミヤは来宮とも書く。神奈川県西部から東伊豆の相模湾沿岸部に集中してみられ、主に巨樹を祀ることで知られる。中でも熱海の来宮神社は有名だ。読者諸兄姉の中にも参拝した方がいるだろう。当ブログでも伊東の八幡宮来宮神社と堂の穴について取り上げたことがある。(参考*1)  神社は山の麓にあり、巨樹が林立する境内はいつも深閑としていて僕のお気に入りの場所だが、その元宮とされる堂の穴は漁港の脇を入った断崖の下の洞穴で、かつて走湯修験の行場でもあったところだ。キノミヤは来の宮、つまり海から沿岸に流れ着いた漂着神を祀るという説が有力のようだ。

 

 

 

 

 

河津のキノミヤは河津川の河口近く、田畑に囲まれた地にある。杉鉾別命神社と称する延喜式内小社で、やはり樹木神を祀る。社殿の左後ろにある神木は、高さ24m、幹周14m、樹齢千年以上とされる国の天然記念物の大楠だ。当社の創建は古代に遡り、再建が和銅年間(708-715)なので、樹齢から考えるとこの楠の前に大杉が聳えていたのかもしれない。当社の祭は「小鳥精進」「酒精進」という名で知られるが、その神徳はなんと「禁酒」なのだ。こんな伝承がある。

 

泥酔した杉鉾別命が野原を歩いていて眠くなり、枯草の中で眠ってしまった。そのうちに野火が起こり、目を覚ますと火に囲まれていた。そのときどこからか小鳥の大群がやってきて、濡れた羽から杉から次へと水滴を落としていった。おかげで危うく一命をとりとめることができた。

 

当社の氏子は12月7日から24日まで一週間酒を断ち、小鳥を捕らない。その禁を犯すと火に祟られるという。おもしろいのは、八幡宮来宮神社の祭神同様、大の酒好きであり、酒で失敗するところも共通していることだ。寄り神、漂着神とされるのだが、あるいはこのあたりで尊崇を集めていた渡来人が酒でやらかしたということなのかもしれない。

 

本題に入ろう。河津川の西岸から山に入っていったところに「伊豆ならんだの里 平安の仏像展示館」というところがある。名称の通り、平安期の木彫の仏像や神像を展示しており、なかなか見応えがある。”ならんだ”というのは仏像がならんでいるわけではなく、天平12年(749)に行基がこの地に創建したという那蘭陀寺に因んでいる。那爛陀寺は5世紀から12世紀にかけてインド北東部にあった仏教の学問府で、一大伽藍を構える密教のメッカであった。現在はナーランダ遺跡として世界文化遺産に登録されているが、これに倣って創建されたものと思われる。康和元年(1099)には実道法師により伽藍が整えられたが、永享4年(1432)の山津波(土石流)で、堂宇、仏像とも谷底に埋没したと伝わる。南禅寺(なぜんじ)と称するのは那蘭陀寺が転訛したものか。ちなみに徒然草の179段に京都六波羅にも同名の寺があったことが綴られているが、14世紀の建立であり、こちらが先立つ。平安時代の伊豆は役行者や源頼朝で知られるように都からの配流の地であり、そこに七堂伽藍が築かれていたことは刮目に値する。

 

 

 

現在の南禅寺は江戸時代に建てられた堂が残るのみで、谷津地区によって管理されている。住持はおらず、後年土砂の中から掘り出された仏像や神像はここに安置されていた。その横に展示館が建つ。入館料300円を支払って中に入る。喧噪の桜まつりとは打って変わってここを訪れる人はほとんどいない。地区のボランティアと思しき館員の方がいろいろと説明してくれてありがたい。仏像、神像が一堂に会するさまはなかなか壮観だ。仏像には明るくないが、一木造の諸仏は優美な中にも素朴さが滲んでおり、気持ちが和む。元の像容をほとんど残していないものも多くあるのだが、とくに神像群には惹かれるものがある。本来の神々は姿かたちを持たない。欠損していた方が逆に神秘の感さえ抱くのである。写真撮影は自由だったので、一部を掲載しておく。

 

薬師如来坐像

天部立像

天部立像

左:梵天立像 中:地蔵菩薩立像 右:帝釈天

中:十一面観音菩薩薬師如来坐像

神像

神像

 

おや、と思ったのは地蔵菩薩立像である。どこかに似ている仏像があった筈だと、記憶を探ってみると、宝誌立像だった。京都国立博物館にあるこの仏像は、じつに奇怪な容貌を持つ。宝誌和尚の顔面が縦に割れ、中から菩薩の顔が覗いているのである。この仏像の存在はロラン・バルトが日本文化について書いた「表徴の帝国」(ちくま文庫)の表紙で知ったが、見た瞬間に仰け反ってしまうほどの衝撃を受けた。まずはその貌をご覧いただこう。

 

宝誌(418年 - 514年)は、中国の南朝に実在した奇行や神変怪異の僧である。この僧形の像の元になったエピソードは宇治拾遺物語に見える。

 

昔、唐に宝志和尚という聖がいた。とても尊い方であったので、帝は その聖の姿を絵に描き留めよう と、絵師三人を遣わした。もし一人だと、描き違えることもあろう`と、三人が面々に描き写すべき由を言い含めて遣わし、三人の絵師が聖のもとを訪れ、しかじかの宣旨を賜り参上したとの由を述べれば `しばらく `と言い、法服の装束に着替えて現れたので、三人の絵師が各々描くべき絹地を広げ、三人並んで、筆を下ろそうとすると、また聖が `しばらく `私の真の姿があるので、それを見て描き写すがよいと言うので、すぐには描かず、聖の顔を見れば、親指の爪で、額の皮を切り、皮を左右へ引き除け、その裂け目から金色の菩薩の顔を現した。一人の絵師は十一面観音と見る。一人の絵師は聖観音と拝み奉る。各々見たままに描き写し、それを持って参上すると、帝は驚かれ、別の使いを遣わしてお尋ねになろうとしたが、かき消すようにいなくなった 。それからは`ただの人ではいらっしゃらない `と言い合った。(出典*1)



南禅寺の地蔵菩薩立像と並べてみた。ディテイルは異なるものの、全体の佇まいはよく似てはいまいか。これは僕の直観だったのだが、気になって仕方がないので宝誌立像についていろいろと調べていくと以下の一文に当たった。

 

本像は、ヒノキの一材から頭体幹部を彫成した一木造の像で、彫眼、素地を現す。頭頂から像底地付に至る頭体幹部を両前膊を含み縦一材より彫出し、木心は中央やや左前方にこめる。像の表面はほぼ全面に鑿痕を残す、この種のいわゆる鉈彫像は平安時代に東国を中心に流行したとされるが、本像も伊豆国から伝えられたことが西往寺所蔵の縁起から明らかである。この縁起によれば、本像は西往寺以前、伊豆国庭冷山に安置されていたと記されており、光舟が貞享四年(一六八七)仲秋の正日に伊豆国の山中から西往寺に移してきたという。現在、伊豆地方には庭冷山と同音の天嶺山が賀茂郡にあり、本山がこれに当たる可能性が…(出典*2 傍線筆者)

 

だとすれば、いったいどのような経緯で伊豆から京都に渡ったのだろうか。それにしても、神像の数がやけに多いことなど、この寺には謎が多い。たしかなことは、当地の人々のこれら仏像への篤い思いが今に続いていることだけだ。だが、信仰とか祈りというものは、案外とそうしたものなのかもしれない。

 

(杉桙別命神社:2020年8月24日/南禅寺:2023年2月17日)


出典

*1 日本古典文学摘集 宇治拾遺物語 巻第九 宝志和尚影の事

https://www.koten.net/uji/yaku/107/

*2 文化遺産データベース 木造宝誌立像

https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/169095

 

参考

拙稿「まれびとの漂着の果て」八幡宮来宮神社・堂の穴

https://ameblo.jp/zentayaima/entry-12582326581.html

木村博「来宮神社・八幡宮来宮神社・杉鉾別命神社」谷川健一編『日本の神々−神社と聖地- 第10巻 東海』白水社 1987年