青龍寺:土佐市宇佐町竜163

青龍寺奥の院:高知県土佐市竜

 

今回の旅は高知県仁淀川町観光協会のお招きによるものだった。当地の観光や飲食、宿泊施設を体験し、改善点を含めた意見交換を行うという主旨である。二泊三日の行程で最終日は15時に解散し、19時過ぎのエアで帰京する予定だったので、最後にどこかもう一ヶ所と探し、土佐市の札所、青龍寺に向かうことにした。前乗りして幾つかの札所を訪れた経験から、奥の院にこそ見るべきものがある筈だと思い、こちらを先に訪れた。

 

宇佐大橋を渡ると左手に地元で人気のビーチ「竜の浜」が広がる。少し先で右折すると青龍寺に至るがそのまま半島の突端部を回り込む。しばらく進むと奥の院の標識が見えてくる。標識の下がハイキングコースの入り口のようだ。かつて近くに駐車場があったらしいが閉鎖されており、向かい側のかなり広い路側帯に車を寄せ、早速登っていく。

 

 

 

 

黒潮が洗う岬の樹叢はどこも似たところがあって、熊野古道の高野坂あたりを歩いているような気になる。いかにも奥の院に向かう道らしいと思いながら進むと、ものの五分で着いてしまい、いささか拍子抜けする。冬の曇天の夕暮れということもあって、あたりは薄暗い。何者かがじっと息をひそめているような気配を感じる。数基の鳥居をくぐっていく。鳥居の奉納が多いということはこの場への信仰が篤いということだ。不思議なことにくぐり終えると厳かな空間に変わっていた。参道、鳥居、注連縄、幣束、手水舎といった設えは否が応でも場の聖性を高める。逆にそうしたなんらかの”しるし”がなければ人々はそこを聖地と認識しない。堂舎に通ずる最後の鳥居の両柱には、真新しい榊が供えられていた。

 

 

 

 



 

 

鳥居の左脇に「これよりさき土足禁止 信者一同」との立て札。トタン屋根を乗せて石で押さえた下足箱のようなものまである。これは従わないわけにはいかない。南国の土佐とはいえ、真冬である。裸足はご勘弁願って、靴を脱ぐ。石畳の参道はきれいに掃き清められていて、不具合はない。両脇に居並ぶ不動明王の眷属、三十六童子の間を仏堂の前まで進む。供花は真新しく、この場を篤く信仰する人々が、おそらくは毎日掃除をし、花を替え、祈りを捧げているのだろう。そこにあるのはまったき信仰のありようなのだが、こうした日々の行いは、そこに人がいなくとも場に堆積しているように思われる。ノウマク サンマンダ バザラダン カン、ノウマク サンマンダ バザラダン カン、ノウマク サンマンダ バザラダン カン。

 

 

 

 

空海は入唐したのち、長安の青龍寺で真言宗第七祖の恵果和尚から密教を学び、第八祖となった。大同元年(806)に帰朝する際、恵果への恩に報いるため、東に向かって独鈷杵を投げ、適地に落ちるようにと祈願した。帰朝後、布教の折に当地に至った時、独鈷杵は現在の奥の院のある山の老松にあると感得し、ときの嵯峨天皇(在位809〜23)にこれを奏上したと伝わる。弘仁6年(815)にはこの地に堂宇を建立し、不動明王像を安置、寺名は恩師に因んで青龍寺、山号は唐から放った「独鈷」とされた。かつては土佐七大寺の一つに名を連ね、末寺四ヶ寺、脇坊六坊を擁する名刹だったようだ。本尊の波切不動明王は空海一行が入唐した際、海上の暴風雨を鎮めるべく祈願した際に現れたと伝えられている。

 

この唐から投げた独鈷が松の枝にかかっていたという縁起は、高野山金剛峯寺の開創縁起の前段とほぼ同じである。金剛峯寺の縁起を引いておく。

 

弘法大師が都遥かに都を離れ、しかも約1000mの高峰であるこの高野山を発見されたことには古くから伝えられる物語があります。それは、弘法大師が2カ年の入唐留学を終え、唐の明州の浜より帰国の途につかれようとしていた時、伽藍建立の地を示し給えと念じ、持っていた三鈷(さんこ)を投げられた。その三鈷は空中を飛行して現在の壇上伽藍の建つ壇上に落ちていたという。弘法大師はこの三鈷を求め、今の大和の宇智郡に入られた時そこで異様な姿をした一人の猟師にあった。手に弓と矢を持ち黒と白の二匹の犬を連れていた。弘法大師はその犬に導かれ、紀の川を渡り嶮しい山中に入ると、そこでまた一人の女性に出会い「わたしはこの山の主です。あなたに協力致しましょう」と語られ、さらに山中深くに進んでいくと、そこに忽然と幽邃な大地があった。そして、そこの1本の松の木に明州の浜から投げた三鈷がかかっているのを見つけ子の地こそ真言密教にふさわしい地であると判断しこの山を開くことを決意されました。(出典*1)

 

仁王門

 

 

さて、車に戻ってから青龍寺に行ってみた。仁王門から続く長い石段を登りきった正面には本堂。その左に大師堂、右に薬師堂と鎮守の白山大権現社が並ぶ。手前には不動明王の石像。例によって三鈷剣と羂索を手にし、憤怒の表情で睨みをきかせている。この伽藍はもとは薬師如来を祀っており、如意山道場院光明法寺と称していた。また、石段の下、現在の納経所がある庫裡のあたりは摩尼山龍宝院赤木寺であったという。現在の独鈷山伊舎那院青龍寺は、奥の院を含む三つの寺院が習合したものなのである。奥の院にあった堂舎は火事で焼けたらしく、そこまで行かなくて済むように本尊を現在地に移し、それまでの本尊の薬師如来と鎮守の白山権現は右側に動かしたということのようだ。五来重は、札所の性質として、もとは弘法大師が修行するような行場であったものが、山頂から麓など、次第に参拝しやすい平地に移していくことが儘あるという。いうまでもないが、青龍寺のもともとの札所は奥の院にあった。

本堂

 

大師堂

 

薬師堂

 

白山大権現社

 

 

 

この寺は恵果に所縁があるため、恵果堂に加えて恵果の墓なるものまであり、また平成に建てられた美しい三重塔などもあるが、これらはどちらでもよい。問題は当地の信仰の源である。引っかかるのは「竜」という地名、青龍寺という寺名、竜の浜、そして龍の池である。

 

龍の池は青龍寺を出て右手にある。道がなく近くまで行くすべがないが、空撮で見るとけっこう大きな池だ。土佐市のホームページにこんなエピソードが載っている。

 

青龍寺の東に大きな池があり蓮が生え繁っていた。この池は昔、青龍寺が出来た時に、八人の天女が天降り一夜に掘ったという。七葉(七枚)掘った時夜が明けたので、後一葉が残ったと伝えられ、この池の名を七葉の池とも云う。この池には昔から色々の怪奇な伝説がある。昔一人の老婆が洗濯に行ったまま行方が分らなくなり、部落総出で探しまわったが、とうとう探し出すことが出来なかった。ところが数日の後、この老婆が全身を十個に切られて池の隣の田に無惨な死体となって横たわっていた。それでその田を今に十田と言っている。

(後略。出典*2)

 

青龍寺の奥之院のある横浪半島は、これまでとりあげてきた室戸の御厨人窟や不動岩に同じく、もともとは仏教伝来以前の海洋宗教に基づいた辺路(へち)であり、行場であったと思われる。そしてその行場は山中ではなく、おそらく現在の奥の院の先の断崖にあった筈だ。Google Mapで俯瞰してみると、案の定200m先の崖下に小さな入江があった。

 

 

訪れてはいないが、この入江には青龍窟という窟がある。また独鈷を投げて掛かった松はかつて「龍燈松」と呼ばれ、実際に奥の院の不動堂にあったそうだ。(太平洋戦争の最中、松根油を採取するために伐られたとの由)  行者たちは青龍窟に籠って、日中は断崖にへばりつきながら登り降りし、夜は奥の院のある場所で龍燈を焚いていたのである。はたして若き空海もその一人であったのだろうか。

 

龍神を信じる方は訪れてみるのも一興だろう。そうした信仰を持たない当方の身辺も、近ごろなにやら運気が上がってきたような気がする。

 

(2023年1月22日)


 

出典

*1 高野山真言宗金剛峯寺ホームページ https://www.koyasan.or.jp/sp/kongobuji/

*2 土佐市ホームページ https://www.city.tosa.lg.jp/fudoki/minwa.php

 

参考

五来重「霊場巡礼③ 四国遍路の寺(下)」角川書店 1996年