神峯寺:高知県安芸郡安田町唐浜2594
神峯神社:高知県安芸郡安田町唐浜
紺碧の大海を左手に見てのんびりと車を走らせる。冬とはいえ陽射しはあたたかく、長閑な午後だ。こうしたところで育つ人間の器量は大きくなるのだろう。現代は別にしても近世、近代にはジョン万次郎はじめ坂本龍馬や中岡慎太郎ら勤王の志士、板垣退助、後藤象二郎、岩﨑彌太郞…とさまざまな人材を輩出した土地柄である。家庭はもちろんだが、生育環境が人格の形成に与える影響は計り知れない。そのどれかひとつでも違ったものであれば、彼らは世に出なかったかもしれない。たとえば、龍馬に乙女という大きな姉がいなければ彼の人生はまた違ったものになっただろう。それは我々が「縁」とか「運」と呼んでいるもので、時に救われたり、時に見放されたりと翻弄される。仏教でいう縁起であり、南方マンダラであり、複雑系である。
神峯神社 一之鳥居
唐浜の集落に入り、案内標識にしたがって神峯寺に向かう。道すがら神峯神社の鳥居が立っていて、神社が先か寺が先かなどと詮なきことを考えながら、神峰山の中腹に向かって車を走らせる。はじめ平坦だった道はやがて勾配がきつくなり、ヘアピンカーブが九十九折に、これでもかと続いていく。車が息を切らせるほどの急勾配にシフトレバーを下げる。土佐で唯一の”遍路ころがし”だと知ったのは後のこと。真っ縦、山登りで言えば直登に近い道なのである。麓の神峯神社の鳥居からの高低差で402m、1時間強はかかる。いやはや歩き遍路も大変な道のりである。四国遍礼霊場記にはこう記されている。
此山高く峙ちてのぼる事壱里なり。絶頂よりのぞむに、眼界のをよぶ所諸山みな山下につらなり、子孫のごとし。幽径九折にして、黒き髪も黄になんぬ。魔境なるの故に申の刻より後は人行事を得ず。むかしは堂塔おほくありしときこへたりといへ共、一時火災ありてより、今は本堂・大師堂・鎮守のみ也。養心庵と云あり、参詣の人ハ是に息ふ。此あたりに食ず貝といふものあり。
(出典*1)
駐車場に車を停め、続く坂道を上っていくと道は二岐に分かれる。左が神峯寺、右が神峯神社への山道で二の鳥居が立っている。右へ行く人は皆無だが、こちらの方が神さびていて、いかにも聖地への道という感じだ。神社の方が上にあるようなので、まずは神峯寺の山門をくぐる。納経所と鐘楼のあるところから朱の手摺りのついた石段が続く。この上が本堂と大師堂だ。
神峯寺 山門
縁起は、寺伝では神功皇后が三韓出兵に当たって勅命を下し、天照大神ほか諸神を祀ったことが起りとなっている。神峯神社のことだ。「天平二年(730年)には、聖武天皇の勅命により行基菩薩が十一面観音の尊像を刻み、これを本尊として安置。大同四年(809年)に平城天皇の勅命により弘法大師が神仏合祭の上、四国二七番目の札所と定めた」とされている。もちろん史実ではないだろう。神功皇后、行基、空海の三者ともに多くの伝説に彩られており、この寺伝も後世の付会が多いと考えるべきか。事実はここが神仏習合した聖地であったことのみである。神仏分離令に伴い、明治四年に神峯神社を残して廃寺となり、本尊は金剛頂寺に預けられたが明治二十年にこれを戻し、堂宇も再建されたとのことだ。
神峯寺 本堂
神峯寺 経堂
神峯寺 大師堂
本堂で十一面観音菩薩の真言をたどたどしく唱えたあと、神峯神社に向かう山道へ。本堂のある場所から250m登っていくのだが、樟や杉の巨樹が林立し、いかにも遍路の古道といった情景だ。登るにつれて空気が変わり、場の聖性が際立ってくる。
登りきったところは開けていた。野面積みの石垣はまるで小さな城郭のようで、当社に威厳を与えている。石段を上った正面には下方を睥睨するかのように本殿が建っている。これはいい。僕が理想とする聖地の典型だ。案内板には「大山祇命を祭神とし、天照大神、天児屋根命、応神天皇を併せ祀る。神峯神社日記によると今を去る二六〇〇年余の昔、神武天皇東征のみぎり『神の峯として石を積み神籬を立て祭られたるたるに起源す』とある」と記されていた。
神峯神社 境内
神峯神社 本殿
本殿の右横、右後方には祠があって、それぞれ龍田社、豊受社とされている。豊受社の祠の脇には、燈明巖の案内板があった。「社殿の右の小道を上った処に燈明巖と呼ぶ巨岩がある。大古から夜半になるとこの岩が青白く輝き光を放っていたのでこの名が起こったといわれる。また数々の困難や異変が起る前兆にこの燈明巖が光るとも語り伝えられており、近世では、日清、日露戦争、関東大震災、日支事変、太平洋戦争、南海大震災等にみられた」。
そんなバカな、とも思うが、とにかく実見せねばと小道を上り、回り込んでみるとぼこぼこと穴の開いたヘンな巨岩があった。残念なことに当方が撮った画像を逸失してしまったので、Wikipediaの神峯神社に載っていたものをお借りして掲載しておく。
燈明巖
(出典*2)
仏教民俗学者、五来重は講演の中でこう話している。「燈明巖という岩があって、世の中に異変があると、大晦日にこの岩が光を放つのだそうです。昔はここに修行者がいて火を焚いていたことを、そういったのだと思います。大晦日に龍燈があがったというのは、大晦日は大いに焚いたからでしょう」。(出典*3)前々稿の最御崎寺でも触れたが、五来の言うようにここも龍燈を焚いた行場であり、龍燈巖が燈明巌に転じたのだろう。山中を少し歩くと、燈明巖に限らず、ほかにも磐座といってよい奇岩、巨岩がひしめいていた。いかにも修験者が好みそうな場所であり、空海も当地を訪れ、行に励んだであろうことは想像に難くない。
当社はいまでこそ神峯寺の奥の院の扱いだが社寺一体となった札所であり、単に「神峯」と称していたらしい。というより、元々は神社が札所で神官が納経に応じていたようだ。日本に仏教が伝わった時期は、公的な記録では日本書紀が552年、元興寺縁起および上宮聖徳法王帝説は538年とされており、後者とされるのが一般的だ。もちろんこれよりも前から聖地は存在しており、とりわけ山は水分の地として、或いは祖霊の坐す場所として神聖視されてきた。仏教など体系化した思想がもたらされる以前にも、自然崇拝の一環として山中の洞窟などを修行の場とした行者はいたであろう。神峯もそうした山のひとつであり、行基や空海らが同地を訪れる遥か前から霊山として認識されていた筈である。
四国八十八ヶ所霊場の内、空海が修行の地として「三教指帰」に記したのは、序に「躋攀阿国大滝嶽」(徳島・大滝山/太龍寺)および「勤念土州室戸岬(高知・御厨人窟/最御崎寺)、巻下の仮名乞児に「或跨石峯 以絶粮轗軻」(愛媛・石鎚山/横峰寺)の僅か三ヶ所である。それらはいずれも寺院となる以前の聖地であり、行場であった。空海の青年期にあたる延暦年間(八世紀末)における仏教はいまだ国家鎮護のための学問のひとつであり、鄙においては仏教そのものが人口に膾炙した宗教ではなかったと思われる。寧ろそのことが修験道や密教を生み出したといえるかもしれない。斗藪する行者において、神仏、社寺の区別などない。聖地でなにを感得するかは信仰や修行者の勝手なのである。神峯は神仏習合以前のそうした聖地のありようをいまに伝えているように思われる。
それにしても空海はなぜ修行に身を投じたのだろうか。彼は京の大学の明経科に在籍し、官僚としての将来をほぼ約束されたエリートだった。だが、ある日やむにやまれぬ思いからドロップアウトして山林に分け入り、修行をはじめた。十八歳の発心である。「三教指帰」の序にはこう書き連ねられている。
「かくて私は、朝廷で名を競い市場で利を争う世俗の栄達は刻々にうとましく思うようになり、煙霞にとざされた山林の生活を朝夕にこいねがうようになった。軽やかな衣服をまとい肥えた馬にまたがり、流れる水のように疾駆する高級車の贅沢な生活ぶりを見ると、電(いなずま)のごとく幻のごとき人生のはかなさに対する嘆きがたちまちにこみあげてき、体の不具なもの、ぼろをまとった貧しい人々を見ると、どのような因果でこうなったのかという哀しみの止むことがない。目にふれるものすべてが私に悟りへの道ををすすめ、吹く風のつなぎとめようがないように、私の出家の志をおしとどめることは誰にもできない」(出典*4)
さすがは空海、シビれるぞ。
(2023年1月19日)
出典
*1「四国遍礼霊場記」 国立公文書館 デジタルアーカイブ https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/F1000000000000041501.html
*2 神峯神社 Wikipedea https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%B3%AF%E7%A5%9E%E7%A4%BE
*3 五来重「霊場巡礼③ 四国遍路の寺(下)」角川書店 1996年
*4 空海(福永光司訳)「三教指帰ほか」中央公論新社 2003年