金剛頂寺:高知県室戸市元乙523

不動岩: 高知県室戸市元甲2746

 

山門に通ずる石段の脇に厄除、六十一歳と刻まれた石柱が立つ。石段を上っていくとところどころに1円玉が落ちている。厄落としということらしい。石段を上り切り、山門をくぐる。山腹の境内は意外にも広い。

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山門

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本堂、大師堂、鐘楼という伽藍の構成はお馴染みのものだ。どの札所も似たり寄ったりで、堂宇というものにそれほど興味のない僕はすぐに食傷してしまう。霊宝殿には仏像など重要文化財も蔵しているようだが、納経所に尋ねると住職次第で許可されるとのことで、なんだかこちらの人品骨柄を試されているような嫌な気分になり、拝観するのは遠慮した。境内で目につくものは一粒万倍の釜とか、がん封じの椿とか、自生する天然記念物のヤッコソウ、鯨八千頭の供養塔、空海の高弟であった二世住職の廟所といったもので、聖地としての感興にはいささか乏しい。

本堂

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大師堂
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鐘楼

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金剛頂寺は最御崎寺に同じく山の中腹にある。山号は龍頭山光明院だが、本来は龍頭ではなく、「龍燈」だったのではないか。龍燈ならば、前稿の最御崎寺に同じく虚空蔵求聞持法の一環としてここでも龍神に捧げる火を焚いていた筈だ。案内板には「弘法大師が大同二年(807)平城天皇の勅命を受け建立され嵯峨天皇により国家鎮護の勅願道場とされた古刹である。大師が一刀三礼し彫ったといわれる薬師如来蔵は自ら動き出し本堂に鎮座したといわれる」とあり、他に大したことは記されていない。金剛定寺と称していたが、金剛頂寺に変わったのは空海が唐から持ち帰った金剛頂経と平仄を合わせたものだろう。官寺として創建され、真言道場でもあった当寺は、多くの堂宇を構える一大伽藍であったようだが、明治三十二年(1899)年の火災で本堂と護摩堂以外は消失し、現在その面影はない。

四国遍礼霊場記(出典*1)

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ここには青年期の空海が修行を妨害されたエピソードが伝わる。「弘法大師行状絵詞」(14世紀、京都東寺蔵、重文)の巻二には室戸でのエピソードとして室戸伏龍、金剛定額が取り上げられている。いずれも魔物に修行を妨害され、これを調伏する話だ。大師堂の裏にはこれらのエピソードをレリーフにしたものが掛かっている。金剛定額はこんな話だ。


室戸岬のそばの三十町余りの所に、景勝の地がありました。大師はそこに寺を建立して、金剛定寺と名づけて住みました。ところが、またもや天狗などの魔物がやってきては、大師の修行を妨害しました。大師はすぐさま魔物を退治するための結界作法を行い、魔物とさまざまな問答をしました。そして、「私がここにいる限り、おまえたちは来てはならん。」といいました。そして、大師は寺の庭にある大きな楠の洞穴に、自分の肖像を描いておきました。すると、不思議なことに、天狗や魔物は、大師の命令どおり、そこには来なくなりました。その後、楠はいっそう枝葉も茂り、永久に変わることがありませんでした。この時の魔物は、土佐国(高知県)波多郡の足摺岬に、押し込められたということです。(出典*2) 

 

金剛定額(弘法大師行状絵 巻二第四段 部分 出典*2)

 

仏教民俗学の泰斗、五来重によれば、空海の修行当時の聖地には仏教や修験道以前の宗教者がいて、新しい宗教が入ってくることを妨害したらしい。彼らと闘い、勝ってはじめて新しい宗教がその地に根を降ろすことが出来たとしており、当地のみならずさまざまな場所でこうした妨害があったようだ。因みに釈迦においても同様の妨害を受けた伝承が知られている。

 

当寺は真言道場がゆえに明治まで女人禁制であったことは見逃せない。四国遍礼霊場記の西寺(金剛頂寺)を参照すると(出典*1)、女性の遍路は麓にある行道所の窟で拝み、同所の本尊は空海が楠の木に彫りつけた不動明王像とある。行当岬にある不動岩のことだ。番外霊場とされているが、ここは金剛頂寺の奥の院にあたり、空海修行の場でもある。行当という名称は「行道」にほかならない。行道は一般に経を唱えながら本尊や仏殿などの周囲を廻り歩くこととされるが、平安時代の行道は修験者の行そのものだったようだ。平安時代末の梁塵秘抄の「われらが修行に出でし時 珠洲の岬をかいさわり うち巡り 振り捨てて 一人越路の旅に出でて 足打せしこそあはれなりしか」という歌から、能登半島の先端、珠洲岬でも行道が行われていたことがわかる。「かいさわり、うち巡り」とは「巌壁にしがみつきながら、断崖もしくは巨巌を廻る」ことを意味し、ロッククライミングさながらの修行を行っていたようだ。

 

さて、期待に胸を膨らませて現地に行ってみると、案の定閑散の極みだ。二年前に竣工した「空海遍路文化会館」なる観光施設もあるが、人っ子一人いない。僕にとって誰もいないことはかえって好都合だ。聖地の輪郭をくっきりと感じ取ることができる。

新村不動堂(女人堂)

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不動岩はかなり大きく、草木に覆われた岩の小山といった様子だ。巨巌の上部は烏帽子のかたちをしており、中ほどには赤い前掛けをかけた地蔵が数体並んでいる。子授けを願って奉納したものだろう。傍らの新村不動堂(女人堂)で手を合わせ、不動岩の裏手に回る。裏から見るとなかなかの奇岩でその異様な造作に目を奪われる。眼前は見渡す限りの海である。足元は断崖の上にあり、下を覗きみると岩礁に波が打ち寄せている。ここで「かいさわり、うち巡り」していたなら相当に厳しい行である。

不動岩

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海に向かって左手は空海修行の地とされ、修行御座の案内板も立つ。ここに座して真言を唱えていたという見立てか。ここには東西二つの窟があって、東の窟には小さな祠に木彫の仏像(虚空蔵菩薩か)が祀られている。西の窟は東よりも大きく、なんとか寝食が出来るくらいの広さがある。ここが御厨だろう。断崖にしがみつきながら岩場を上り下りし、不動岩の周囲をぐるぐると廻り、窟の中で一心に真言を唱えている若き空海を思い浮かべてみる。

 

 

 

東の窟

 

 

西の窟の中には奉納された赤い布がぶら下がっていた。これも子授け祈願だろうか。屹立した不動岩の先端、烏帽子状に尖った部分を男根とし、穿たれた断崖の窟を女陰と見立てることもできるかもしれない。陰陽和合する場ゆえ子授けのご利益があるというのは理に適っている。

西の窟

 

 

 

 

 

真言密教には金胎不二、即ち大日如来の智慧を顕す金剛界と慈悲を表す胎蔵界を一体とする根本思想がある。これを可視化したのが曼荼羅である。経典は金剛界が金剛頂経、胎蔵界が大日経を根本経典とし、修行では金剛界が突き出た岩や岬、胎蔵界は窟とされている。この思想は真言密教体系のいたるところに埋め込まれているが、僕が不動岩のあたりを陰陽和合としたのもいわれのないことではないかもしれない。奥の院のありようからは、金剛頂寺=不動岩=金剛界、最御崎寺=御厨人窟=胎蔵界ということがいえるだろう。元々西寺(金剛頂寺)と東寺(最御崎寺)は金剛定寺として一体であり、他の札所でも二つの寺或いは山の間を行道して回ったようだ。

 

 

奥の院とされている場所は、行道を行った場所と見てよいだろう。五来重は「四国遍路の寺」の中で「札所を参拝されて時間があればかならず奥の院に行ってみてください。奥の院から発祥して現在のお寺ができたというところが非常に多いので、奥の院を見なければそのお寺の信仰なり歴史なりがわかりません。その場合、海の奥の院があるということが、四国の辺路に多い現象だということを忘れないでいただきたい」と述べている。

 

次は神峯寺と神峯神社だ。今回訪れた中でもっともおもしろかった札所である。

 

(2023年1月19日)

 

出典

*1「四国遍礼霊場記」 国立公文書館 デジタルアーカイブ

https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/F1000000000000041501.html

*2 「弘法大師行状絵巻の世界 永遠への飛翔」東寺博物館 2000年

 

参考

*1 五来重「霊場巡礼③ 四国遍路の寺(上・下)」角川書店 1996年

*2 寺内浩「平安時代の四国遍路ー辺路修行をめぐってー」

https://opac1.lib.ehime-u.ac.jp/iyokan/bdyview.do?bodyid=TD00002375&elmid=Body&fname=AN10579404_2004_17-81.pdf&loginflg=on&block_id=_6311&once=true