御厨人窟:高知県室戸市室戸岬町
最御崎寺:高知県室戸市室戸岬町4058-1
津照寺:高知県室戸市室津2652-イ
御厨人窟の最奥には女性のお遍路さんが額づいていた。般若心経だろうか一心不乱にお経を唱えている。遠巻きに眺めていると読経に混ざって嗚咽が漏れ聞こえてきた。なにやら深刻な事情がありそうだ。独りにしておこうと御厨人窟の見学は後にして、先に隣の神明窟へ向かう。ここには天照大御神を祀っている。アマテル、後のアマテラスは古くは海洋神の性格を有し、真言宗では大日如来の化身とされていた。窟の奥行きはさほどない。小さな石祠を拝してから外に出てあらためて御厨人窟を窺うと、さきほどの女性が出てきた。齢三十代半ばといったところだろうか。泣き腫らした顔だが気持ちを新たにしたのか、体格には大きめの登山ザックを背負い、たしかな足取りで次の札所に向かっていった。女性の歩き遍路は珍しい。どういう理由で発心したのか。きっと、よほどのことがあったのだ。
神明窟
天照大御神を祀る石祠
室戸岬の突端にある御厨人窟は、空海が虚空蔵求聞持法を修した行場である。虚空蔵求聞持法は、虚空蔵菩薩の真言を百万遍唱えれば、すぐにあらゆる経典の教えの意味を理解し暗記できるというもので、今でいうなら超記憶メソッドである。空海の修行中に明星(金星、虚空蔵菩薩の応化)が口の中に入り、菩薩の威を顕したというが、その場所を厳密にいえば御厨人窟や神明窟ではなく、御厨人窟の左にある小さな窟らしい。最御崎寺に至る登山口の脇に一夜建立堂という窟があり、これを求聞持窟とするという寺伝もあるが、仏教民俗学者の五来重は御厨人窟から500mも離れていることを考えると、無理があるとしている。
御厨人窟
そもそも御厨人窟は修行の場ではなく、生活の場だったようだ。厨は台所の意であり、修行以外の時間を過ごす場だ。寺院でいえば庫裡である。隣の窟が本堂というわけだ。この小さな窟は求聞持窟というが、現地に赴くと弘法大師修行之地という石碑が立つのみで、そのいわれなどどこにも記されていない。かくいう僕も五来重の著書であとから知ったのである。概してそういうもので、聖地の本質は意図せず匿されていることもあるように思う。
求聞持窟。御厨人窟の左手にある。
それぞれの窟の中に身を置いてみると海に接する場ということもあって、どこか沖縄の御嶽に近しい印象を覚える。ところで、御厨人窟に祀られているのは空海だと思い、皆手を合わせているのだが、ここに祀られているのは愛慢・愛語という二人の菩薩である。平安時代の遍路修行ではお供が食事などの世話をしたらしく、室戸ではこの二人がその役に当たったとされている。
御厨人窟を出て西に進み、途中の登山口から遍路道を登っていくと最御崎寺である。歩き遍路は山道を20分以上登るが、車ならすぐだ。駐車場には数台車が停まっており、車やバスでの巡礼者の方が圧倒的に多いことにあらためて気づく。遍路は歩いてこそと思うのだが、そこは忙しい現今のこと。移動手段は問わず、とにかくコンプリートすればよいのだろう。ほぼ観光といってよいが、遍路する人数は近年大幅に減少しているらしい。歩き遍路は年間約2,500人足らずで、結願者7万8千人の3%に満たない。しかも外国人の構成比が年々上がっており、2017年では16.6%になるという。なおかつ、参照したレポートには「お遍路さんを増やすには、外国人に期待するしかない」という記述まで見られた。こちらが思っていたのとは随分と様相が違うのである。
最御崎寺 山門
閑話休題。最御崎寺の山号は明星院。真言宗豊山派に連なり、本山は大和の長谷寺。開創はもちろん空海である。縁起は案内板に拠ろう。
最御崎寺は大同二年(807)、唐から帰った弘法大師が再びこの地を訪れて、お寺を建立し、虚空蔵菩薩を刻んで本尊として安置したのがはじまりという。足利時代に諸国に安国寺をおいたとき、土佐の安国寺となり、その後も皇室や土佐の領主の尊崇があつく、七堂伽藍の整った巨刹であったという、
最御崎寺 本堂
最御崎寺 手前:旧鐘楼、奥:現鐘楼
遍路道を登ると左手に山門、これをくぐると本堂まで一直線に参道が続く。左手に大師堂、右手前に旧鐘楼、その隣に現鐘楼。境内は広く、往時の隆盛が偲ばれる。参道脇には室戸に伝わる空海の七不思議のひとつ、鐘石がある。小石で叩くと鐘のような音を発し、その響きは冥途まで届くといわれているらしい。たしかに叩くと金属音がする。斑レイ岩だというが、おそらくは固まる際に一部が空洞化したものと思われる。奇瑞や不思議な物事はすべて空海に事寄せられるのである。
最御崎寺 手前:鐘石。奥:大師堂
最御崎寺は室戸岬の突端にある岬と解釈されるが、元々は「火つ御崎寺」であり、当地では火を焚いていたらしい。五来重によれば、求聞持法を修する場所は、真言を繰ること、行道をすること、聖火を焚くことの三つの条件が揃わなければならない。真言を百万遍唱えること自体は五十日くらいで終わってしまい、しかも飽きるので行道と火を焚くことが欠かせないという。真言自体は、養老元年(717)に中国で翻訳され、養老二年に日本に渡ってきたというが、空海以前からあった辺路を巡る修行と習合して、日本の求聞持法になったようだ。古代海洋宗教においては海と陸の境、窟などを巡って修行する「辺路」(熊野の大辺路(おおへち)に同じ)を行っており、これが「遍路」の原型である。また、そうした行道の場は札所ではなく、奥の院の周辺にあったようだ。御厨人窟も最御崎寺の奥の院である。また、最御崎寺に限らず、辺路修行者たちは海に接した山の上で火を焚いていた。それは龍宮や海神に捧げた火であるとともに、航海の目印ともなった筈である。
最御崎寺を後にして次の札所、津照寺へ。ここは24番の最御崎寺と26番の金剛頂寺の中間に位置する。今昔物語集にも登場する古刹だが、札所に加えられたのは室町時代になってからという。津照寺のある室津の町には漁協があり、狭い路地のある町並みは正に昔の漁村のもので、懐かしさを覚える。昼時だったので町に一軒しかないと思われる寿司屋に入ってみた。
店に入るとカウンター席で主人がドラマを見ていた。客は僕ひとりらしい。すこし驚いた様子で席を立ち上がり、支度をはじめた。にぎりの松をいただく。土佐らしく酢飯の酢はややきつめで、舎利も大きく、江戸前と看板を掲げるものの洗練には遠いが、ハガツオ、ユメカサゴ、マトダイなど地魚が滅法うまい。七十代半ばと思しき親父さんと話が盛り上がる。
店内に貼ってあるお品書きの中にマンボウがあった。「この辺はマンボウを食べるんですね」「昔は肉が食べられなかったんでね。肉といえば海のもんばかりで、マンボウも食べるけど昔はカメとかイルカをよく食べてたんです。いまは小学校でカメを卵から育てて海に帰したりするんで、さすがに食べなくなったけどね」「サメはどうですか?」「サメも食べます。もちろんクジラも。とにかくなんでも食べた。室戸の連中はなんでも食べよると言われとった」「ここも人口は減ってるんでしょう?」「室戸市で1万2千人切ったかな。遠洋漁業がなくなったからね。船乗るんがおらんようになって、どんどん人が減っとるんです。仕事ないからね。学校卒業したら外に働きに出て戻って来ん。外から来る人もおらんのです。それなのに津波が来よるかもしれんと、市役所を50億もかけて山の方に移すというんだ。50億ですよ、50億。高齢化してるこの地域でね、市長は市債を発行するとゆうとるけどね、どうせ税金で跳ね返ってくるんでしょう。山の方に1時間に1本無料でバスを出すとかいうてるけどそんなん面倒臭うて乗るもんおらへん。そんなことより、保育園や学校は海の近くにあるんです。市役所よりそっちの方が先だろうと」。憤懣やるかたない様子だ。「でね、室戸岬はプレートの関係で最近持ち上がってるらしいんですわ。地震は十年以内って話もある。とにかく高知の東っ側って不便なんですわ。道は一本しかないし。西はよう整備されとるけどね」
地方はどこも同じだなと思う。都市部の周縁ならいざ知らず、都市から離れれば離れるほど深刻なのである。四国の面積は全国の約5.0%、人口は約3.1%、製造品出荷額で約2.9%、県内総生産の合計では約2.7%という。八十八ヶ所の霊場も世界遺産に認定されれば少しは事情が変わるかもしれないが十年、二十年先を考えると暗澹たる気持ちになる。いずれ鄙にある聖地はその維持すら難しくなるのではないか。
津照寺 山門
津照寺に話を戻そう。山門をくぐると右手に大師堂があり、小山のてっぺんに向かって石段が続く。頂上近くには途中に城の天守のような一風変わった門があり、鐘楼を兼ねている。少し上った右奥が本堂だ。本堂、大師堂ともに昭和に再建されたもので、感興には乏しい。ここでは今昔物語集の説話を紹介しておこう。
室戸津の津寺の付近が火事に見舞われたとき、一人の小僧が現れて家々に火を消すよう触れてまわった。人々が集まってくると本堂から等身大の地蔵菩薩と毘沙門天が飛び出て消化につとめたが、小僧を探すといつの間にか消え失せていた。小僧は地蔵菩薩の化身とされ、以来室津を通る船人や心ある者は皆この寺に詣で、地蔵菩薩と毘沙門天に結縁を奉った。
本尊は延命地蔵尊、別名楫取地蔵と称するが、これは「火事」取りに由来するものか。土佐藩主初代山内一豊が海難を逃れた話も伝わっており、或いは「舵」取りなのか。いずれにせよ当寺は小山の頂に堂舎を構えており、古くから山当てとして海洋民から頼りにされていたことは間違いないだろう。
室戸岬灯台(最御崎寺山門から徒歩すぐ)
しばらくは土佐の空海の足跡を辿ってみたい。次稿では金剛頂寺と空海修行の地、不動岩に向かう。
(2023年1月19日)
参考
五来重「霊場巡礼③ 四国遍路の寺(下)」角川書店 1996年
空海(福永光司訳)「三教指帰ほか」中央公論新社 2003年
小峯和明校注「今昔物語集四」新 日本古典文学体系36 岩波書店 2001年
遍路宿泊施設の現状・課題等調査 - 四国経済連合会https://yonkeiren.jp/pdf/henrochosa_gaiyou20190618.pdf