比婆山御陵:広島県庄原市比和町三河内

熊野神社:広島県庄原市西城町熊野1160

比婆山に登ってきた。山頂近くに伊邪那美の陵墓と伝わる磐境があり、以前から気になっていたのだ。たまたま尾道で酒友と一献傾ける予定があったので、少し遠いが訪ねてみることにした。


比婆山連峰のひとつ、立烏帽子山の中腹を目指す。島根との県境にあるが、尾道から向かうよりも出雲や松江からの方が近い。このあたりは西日本きっての豪雪地帯だ。ワニ(サメ)を食すること、荒神信仰、神楽などの地域文化からは石見や出雲との関わりがうかがえる。


まずは登山口から三十分、池ノ段という平坦なところまで登る。かつて牛の放牧が行われていたという見晴らしのよい場所だ。ここから北に烏帽子山が望めるが、その山頂近くにちょぼちょぼと黒い茂みが微かに見える。自生するイチイの林でこの下が御陵だという。



池の段からの道はほぼ直線だ。緩やかに下り、越原越(おっぱらごえ)という分岐からまた緩やかに登っていく。よく整備されていて、とても歩きやすい道である。ブナの原生林に入っていくあたりから靄がかかってきた。登りはじめた時間が遅かったので行きあう人は少なくなり、ひっそりとした山道には神秘的な空気が漂う。しばらく進むと門栂(もんとが)と呼ばれるイチイの神木。そこは神いますところへの入口だ。



一帯は平地で、御陵は周囲から少し高くなったブナの林の中にあった。誰もいない森、風が樹々の枝葉を揺らす。寂寥とした風景に黄泉の国を想う。手前の小さな祠には新鮮な果物や野菜、芋や椎茸などの供物。きっと日を置かずに供えられているのだろう。こういうところに信仰の厚さを感じる。




ほぼ真ん中あたりに長方体と思しき巨石が斜めに傾いでいる。石棺の上に載った蓋のようでもあり、古墳に見えなくもない。御陵は10m×15mくらいの長円形の丘で、周囲を巡ると真ん中の巨石以外にも二、三の巨石が認められる。配置に規則性は読み取れないが、伊邪那美の陵墓ではないにしても、なんらかの祭祀が行われていた可能性は高い。




御陵から道を少し戻ると伊邪那美を祀った命主社の祠がある。その後ろに太鼓岩がでんと座り、周囲には巨石が散在している。さらに道を進むと産子の岩戸と呼ばれる真っ二つに割れた巨石。山麓には御陵を取り巻くように多くの神籠石が配されているというが、これらが遥拝所とされていたことなどを考え合わせると、御陵を中心とする広域の巨石信仰圏があったことは間違いないように思われる。





来た道を池ノ平に戻る。夕方近くになり、もうほとんど登山者はいない。見渡す山々は紅葉に染まり、じつに鮮やかな景色を満喫したのだった。



下山して比婆山温泉熊の湯という民宿に投宿する。駐車場には車一台。宿に明かりはなく、人のいる気配がしない。営業しているのか疑わしいほどで、本当にここだろうかと恐る恐る玄関をあけて声を掛ける。七十代半ば過ぎと思しき年嵩の男性が出てきた。どうやらこのおじいさんがひとりで切り盛りしているらしい。予約の旨を告げると二階の二間を抜いた大きな部屋に通された。食事はすぐ支度できるし、風呂も沸いているという。きょうの客はどうやら僕だけのようだ。早速ひと風呂浴びることにした。温泉に浸かると、ところどころぬるい。湯の出る蛇口から離れたところや下の方は冷たいくらいだ。慌てて湯を足す。ちょっと嫌な予感がする。食事は大丈夫だろうか。



夕食はいわゆる旅館のそれではないが、鴨鍋も出ておいしくいただけた。湯の温度について尋ねると、鉱泉なので元湯の温度は冷たいそうだ。島根、鳥取、岡山、山口と周辺はすべて温泉だが広島だけは鉱泉しか出ないとの由。とはいえ、効用は覿面で寝ている間にかなりの汗を掻き、浴衣を二度も着替えたのだった。


翌朝は比婆山麓の熊野神社に向かった。比婆山への登拝口にあたる当社の創建は明らかではないが、社伝では和銅六年(713年)には存在し、天平元年(729年)に社殿が建てられたという。かつては比婆大神社と称した古社である。



門前の大鳥居のあたりが騒がしい。氏子か町衆か老若男女の有志が境内の草刈りや掃除を行っている。朝の荘厳な空気を期待していたが仕方あるまい。参道を進むと老杉が林立している。中には樹齢千年を超えるものもあるという。中でもっとも大きな樹は「天狗の休み樹」と呼ばれている。天狗といえば修験だ。神社明細帳によれば比婆大神社を熊野神社に改めたのは仁明天皇の御代、嘉祥元年(848年)のことで、熊野修験の信仰が厚かったことによる。元々は比婆山大神を祀っていたが、一宮には伊邪那美神、二宮には速玉男神、三宮には黄泉事解男神が祀られており、熊野信仰の影響が色濃くうかがえる。ご存じの通り、熊野の「花の窟」もまた伊邪那美の葬地なのである。



一宮を参拝する。出雲を思わせる堂々たる注連縄が掛かっている。賽銭箱の真ん中にいる木彫りの鳥は烏を模したのだろうか。当社には「烏大夫」という烏を司る専任の神官もいたらしいが、その代わりなのかもしれない。一宮の左手には木造の鳥居。その右には三宝荒神社、左には牛馬荒神社の祠。どちらも荒神であり、このあたりの民間信仰を反映している。因みに三宝荒神は修験が奉ずる仏神だ。鳥居の先、川沿いのなだらかな坂を登っていく。







しばらく行くと二宮。この前に磐座と金蔵神社の祠がある。社殿の建つ前にはこの磐座で祭祀が行われていた。金蔵神社は伊邪那美が産んだ鉱山の神、金山毘古を祭神とする。かつてはこの巨岩の上に祀っていたらしい。前泊した宿の横の小山の上にもこの神が祀られていたが、主人に訊くと比婆山周辺は鉄穴流し(かんなながし)という方法で最近まで砂鉄の精製を行っていたとの由。この磐座は「神の蔵(かんのくら)」というが「金の蔵」の意であろう。比婆山の北に隣接する奥出雲や雲南は”たたら製鉄”のメッカであり、この山で採れた砂鉄を原料としたことは間違いない。比婆山は古代から鉄資源をもたらした聖地でもあった。




続いて三宮へ。この先を登っていくと那智の滝がある。落ち葉を掃いていた男性に距離を尋ねた。片道二十分とのことなので、迷わず先を行く。登るにつれて杉からブナへと植生が変わっていく。足元の落葉は見事に色づき、カンバスに描かれた絵のようだ。落葉を拾いながら歩いてくと微かに水の落ちる音が聞こえてきた。古名は「鳥尾の滝」、尾長鳥に見立てたという。スケールは紀伊熊野の本家に比ぶべくもないが、幾重にも分かれて水の落ちていくさまは繊細な美しさだ。色づいた樹々の葉がはらりはらりと落ち、滝壷に溜まっていく。




下山した時には掃除は終わっていた。ひっそりとした境内には瑞々しい空気が漲っている。

清々しい気分だ。修験道の擬死再生ではないが、昨日の御陵登拝も含めてなんだか我が身があらたまったような感を覚えた。


古事記には「故、その神避りし伊邪那美神は出雲國と伯耆國との堺の比婆山に葬りき」とある。その伝承地は図に示した通りだが、これらは中国山地きっての鉱山地帯で北東に向かってほぼ一直線に並んでいる。また、参考にプロットした船通山(鳥上山)は最も真砂砂鉄の含有量が多い山で、須佐之男命は八岐大蛇退治のためにこの山の麓に降ったとされている。八岐大蛇とは蛇行し、暴れる斐伊川の比喩であるとともに「緋」の川でもあるのだ。船通山から流れる水に砂鉄が含まれていたことがなによりの証左である。伊邪那美がどこに身罷ったかを比定するのは詮なきことだが、一帯が日本有数の鉄の産地であったことが神話や伝承につながったと見ることもできるだろう。大和朝廷が出雲に国譲りを迫ったのも鉄を求めてのことだったのかもしれない。同じことは修験者にもいえる。彼らは山岳抖擻を行う一方で、鉱物資源を求めて各地を渡り歩いていたともいわれる。熊野修験も比婆山を行場としながらも、目的は鉄にあったのではないだろうか。



鉄に限らず、鉱物に関わる神々の話は実におもしろい。次は水銀を司る水の神、丹生都比売を探して吉野、葛城、高野をめぐる旅でもしてみようか。


(2022年10月22日、23日)


参考)

庄原市比婆山熊野神社解説本編集委員会「日本誕生の女神 伊邪那美が眠る比婆の山」庄原市×南々社 平成29年

田淵実夫「熊野神社」 谷川健一編『日本の神々−神社と聖地- 第2巻 山陽・四国』白水社 1984年