諸志御嶽:沖縄県国頭郡今帰仁村諸志

勢理客御嶽:沖縄県国頭郡今帰仁村勢理客

スムチナ御嶽:沖縄県国頭郡今帰仁村玉城

 

何度目の沖縄だろうか。八重山、宮古に加え、薩南諸島を含めればこの三十年で四十近い島々を訪れてきた。いつも気になって仕方がないのは御嶽や拝所だ。

 

今回の旅は”やんばる”を目指した。今帰仁城跡の中にある御嶽をひと廻りした後、クバの御嶽を再訪する。ここは琉球開闢の御嶽(七つとも九つとも伝えられる)のひとつで、祈りの始源の姿をいまに残す(と思われる)。昼なお暗い森の中を進むと、南方の樹々の間から僅かに光が差し込む祭場に出る。ここにいると不思議と安堵を覚えるが、それはまるで胎内にいるかのような不思議な感覚である。とにかく非常にセジ高い(霊威の強い)聖地であることは間違いない。御嶽の本質に触れたい方は、まずここを訪れるとよいと思う。

 

 

翌日は今帰仁村の主な御嶽を尋ねることにした。備瀬崎で久々のシュノーケリングを楽しんだあと、昼食に赴く。目当ての「今帰仁そば」は家族連れが行列をなしていたので、以前訪れた「道のそば」へ。ふざけた名前に聞こえるが、女将さんは至って真面目にそばをつくっており、あっさりしているが滋味深い味わいだ。近くの諸志御嶽について尋ねると、当地出身のご主人に聞いた方がいいとわざわざ呼んできてくれた。1kmほど先に行くとトンネルのようなアーチがあってそこを右折するとすぐ駐車スペースがあるとのこと。ところが行ってみるとなんの標識もなく、どこを曲がればよいのかがわからない。車を停めてまごついていると親切にもご主人が車で追いかけてきて、少し手前の道を曲がるよう教えてくれた。

 

広場に車を停めてあたりを窺うが、肝心の御嶽の場所がわからない。駐車場の向かいが小高くなっており、見上げるとこんもりと繁った森がある。御嶽は森の中にある筈なので。少し上ってみるとグランドゴルフ場があり、奥に神ハサギが二つ並んでいた。間違いない。さて御嶽はどこだろうかと振り返ると、脇に森に続く石段があった。

 

上ってみると舗装された短い参道の奥に、ひっそりと石の祭壇が設けられ、香炉が三つ載っている。よく整備された拝所だ。先のご主人が言うには、遠方から拝みに来る人がひきもきらないとの由。前述のクバの御嶽のような際立った聖性は感じられないが、大切に守られている場だということはよくわかる。
諸志集落は明治36年に諸喜田村と志慶真村が合併してできた村で、神ハサギが二つ並んでいるのもこれが理由だ。合併したとはいえ、祭祀はそれぞれの間切で行われているようだ。神ハサギ(アサギ、アシャギとも)は御嶽に降りた神が村人と交流する場所で、白衣を着た神人(カミンチュ)がこの中に入り、五穀豊穣や航海の安全、集落の安寧を祈る。四方から神が入るため壁はない、また軒が低いのは中に入るときに頭を下げるためという。

諸志御嶽のある森は植物群落として国の天然記念物に指定されている。約74科46種167属の亜熱帯植物が確認されているが、この原生林が維持されてきたのは古くから聖域として入林伐採が禁止されたことが大きいという。

 

続いて向かったのは勢理客(じっちゃく)御嶽だ。公民館を目指す。内地の、特に産土神を祀る神社には公民館が隣接することが多いが、沖縄も同様である。村の人々にとって、そこは祈りと祭りの行われる場所で、集落を統べるシンボルでもある。さらにいえばそこは祖神を祀る場であり、神社と古墳の浅からぬ関係を見てもわかる通り、元々は葬所であった処も多い。僕は敢えて確認しなかったが、諸志御嶽の森の中にも古墓があるという。

 

御嶽の立地や集落における機能についてわかりやすく解説したものがあったので、参考に掲出しておく。

 

「御嶽(ウタキ)」は村落構成の最も重要な要素です。丘の上か山の中腹にあって、村落も元来その周辺に形成されていました。御嶽は、村建てをした祖先の墓所がのちに聖地になったものが多く、いわば村落の守護神である祖霊神が祀られている所といえます。御嶽の中でも、大きな岩や樹木などに囲まれたような「イビ」と呼ばれる場所は、神の鎮座する聖なる場所で、そこには神女以外は立ち入ることが許されていません。また、「イビ」の手前は「イビヌメー」と呼ばれ、露天の石の香炉や台石が置かれています。 「神アサギ」は御嶽の近くに守護神を招いて祭を行う場所で、軒が低い壁や床もない穴屋形式の祭屋を設けている場合が多くなっています。(出典*1)

 

勢理客公民館の隣には神アサギがあり、その脇の道を歩いていくと小高い場所に森がある。森の入口には鳥居があり、目印となっているが、なければここが御嶽だとはわからない。舗装された参道を少し上ると平らな場所に出た。イビの前にコンクリートで作られた小さな拝所があり、中には二つの香炉とサンゴの塊や貝殻が置かれている。拝所越しにイビを覗いてみたが、そこは何もない空間である。

 

 

 

御嶽に魅せられた仏文学者、美術研究家の岡谷公二氏は「御嶽の思想」の中でこう記している。

 

なにもない、とは、全き帰依のあかしである。この場合、それは、空虚や欠失ではなくて、充溢であり、透明さであり、きわめて豊かな何かである。無が実となり、有が空虚に転ずるとは、沖縄の人々の信仰の根底にある逆説だと言っていい。(出典*2)

 

何もないことこそが御嶽の本質なのだ。やはり気持ちが落ち着く。集落の背後に祖神のいる森があり、森が村を守っている。これはどういうことなのか。人類の祖は森に住まい、森から出てきて、やがてホモ・サピエンスとなったといわれるが、こうした記憶は我々の遺伝子のどこかに刻まれているように思える。御嶽を訪れると、森こそ人間が還るべきところだという思いを強くする。

 

 

さて、次はスムチナ御嶽だ。クバの御嶽に同じく琉球開闢の御嶽のひとつであり、琉球国由来記(1713年)に「コモキナ嶽」として登場する御嶽である。諸志、勢理客とは異なり、玉城村の御嶽ではなく、琉球王府から任命された「玉城ノロ」の管轄する御嶽であり、玉城・謝名・平敷・仲宗根四ヶ村を束ねる。集落単位の御嶽というより、国の祭政に組み込まれたものなのだろう。

 

場所はグーグルマップにプロットされているので、これに従えば迷わずに済む。目指すは乙羽岳の中腹だ。山間の細い道を行くと、右手に森が少し開けた場所があるので、ここに車を突っ込む。入口を示す判読不能な横長の看板が樹に下がっている。車を降りて森の中に足を踏み入れると、左手にコンクリートブロックで造られた拝所の残骸。山頂に行けない者はここで拝んだのだろうか。

 

 

 

道はすぐに左右に分かれるので、左のジャングルさながらの暗い道を行く。生い茂る草木、そこここに屹立する岩塊。ハブが潜んでいやしまいか。草いきれや生き物の濃密な気配にむせかえる。しばらく森の中を進むと頭上が明るくなり、道の険しさが増す。この上が拝所だろうと岩を攀じ登る。いきなり視界が開けた。

 

 

場が空へ、海へと、すぽんと抜けている。神が遊ぶ場としてこんなに相応しいところはないだろう。クバの御嶽の背後の山の頂を踏んだ時の光景を彷彿とさせる。僕にとっての御嶽の原型は、海から少し入った場所、鬱蒼とした森の中、珊瑚の白砂が敷きつめられた祭場、樹木の根元には依代の小さな自然石と香炉といったものだが、いい意味で期待を裏切られた。じつは琉球開闢七御嶽でもこのイメージに沿うのは、久高島のフボー御嶽と南部の百名にある藪薩御嶽だけである。僕のイメージの原型は、典型なのだった。典型が物事全てを表すと考えてはいけないのだ。

 

 

 

切り立った岩はカルスト地形ならではか。よくぞこんなところに祭場をつくったものだと思うが、本来、聖地は不思議な地形やアクセスが難しいところにあるのが常で、ゆえに尋常ではない聖性を帯びるのである。ここは先の二つの御嶽のように祖神の懐に抱かれ、安寧を願い、安心を得るという性格の御嶽ではない。霊性が研ぎ澄まされ、心身が開放され、内なるわだかまりが木っ端微塵に解体される。やがてそれらは再構築され、また自らに収斂していくのだ。観念の中での話だが、世知辛い些事などどうでもよくなってしまうのである。

 

琉球の史書には、創世神アマミキヨが辺戸の安須森御嶽に続いてつくったのが、スムチナ御嶽とある。たしかに、この御嶽は安須森御嶽を拝するように立地しているのだ。明日はいよいよそこへ向かう。いったい何が待っているだろうか。

 

(2022年8月28日)

 

出典

*1 海洋博公園ホームページ  https://oki-park.jp/sp/kaiyohaku/inst/85/90

*2 岡谷公二「南の精神誌」新潮社 2000年

 

参考

今帰仁村教育委員会編「今帰仁村の文化財 ー今帰仁村文化財ガイドブックvol.2ー」 2017年

湧上元雄・大城秀子「沖縄の聖地ー拝所と御願ー」むぎ社 2000年