続石(つづきいし):岩手県遠野市綾織町上綾織6地割


綾織村山口の続石は、この頃学者のいうドルメンというものによく似ている。二つ並んだ六尺ばかりの台石の上に、幅が一間半、長さ五間もある大石が横に乗せられ、その下を鳥居のように人が通り抜けて行くことができる。武蔵坊弁慶の作ったものであるという。昔弁慶がこの仕事をするために、いったんこの笠石を持って来て、今の泣石という別の大岩の上に乗せた。そうするとその泣石が、おれは位の高い石であるのに、一生永代他の大石の下になるのは残念だといって、一夜じゅう泣き明かした。弁慶はそんなら他の石を台にしようと、再びその石に足を掛けて持ち運んで、今の台石の上に置いた。それゆえに続石の笠石には弁慶の足形の窪みがある。泣石という名もその時からついた。今でも涙のように雫を垂らして、続石の脇に立っている。(出典*1 遠野物語拾遺11)


遠野といえば、柳田國男の「遠野物語」だ。"佐々木喜善の"と言い換えてもよいかもしれない。遠野の民間伝承の聞き書きを集めたものだが、日本の民俗学の普及にこの書がはたした役割は大きい。


平泉から遠野の里に入って最初に向かったのは続石だ。東北にある巨石の中でも有名なものの一つだろう。


遠野インターチェンジを降りて、猿ヶ石川沿いに道を戻る。案内標識に「続石」と記されているので迷うことはない。道沿いには観光駐車場が設けられていた。


駐車場の脇が登山口だ。山を登るとは予想していなかった。しかも、いきなり熊出没注意の看板。先客はおらず、僕一人なので、手持ちのペットボトルをべこべこ鳴らしながら(熊は聞きなれない音を警戒するらしい)、雑草生い茂る道を登っていく。しばらく進むと三叉路に石標が立っている。左が続石、右が不動岩とある。不動岩のある山は例外なく修験の行場である。明治になるまではここでも山林抖擻が行われていた筈だ。



標識から左手の道を登っていくと開けた平場に出た。湧き水があったので喉を潤す。あたりには苔生した石が散らばり、弁慶の昼寝場と記された石柱が立っている。右手上方に目を遣ると、笠石らしき偏平な石。こちらが続石だ。左手を仰ぐと樹々の間に卵のような巨石。これが泣石か。弁慶の昼寝場はこの二つの巨石を臨める場所にあり、その様子からは祭祀場の跡を思わせる。




まずは、泣石から観察してみる。近くに寄ると思いの外大きく、威風堂々としており、自ら「位が高い」というのも頷ける。正面からは歪な卵のような形に見えるが、回り込むと斜面に喰い込むように立っており、後ろからは烏帽子のようにも見えて、その姿が定まらない。周囲の岩石の中では突出して大きな岩であり、ひときわの存在感があることからすると、この岩そのものが信仰の対象であったように思える。だが、この大岩が雫を垂らしている姿を想像してみると、僕の品性が下品なのかどうにも卑猥な感じが拭えなかった。








さて、続石だ。まず、その形状に痺れてしまう。二つの台となる巨石の上に蓋をするように笠石が載っているのだが、この絶妙に過ぎるバランスは人為によるものとはとても思えない。といって風化やなんらかの偶然によるものではないことは一見して明らかなのである。古墳ではないが、その印象は飛鳥の石舞台に近い。




形はほぼドルメン(注*1)といってよいが、この巨石構造物の下には果たして墓があるのかどうか。写真家で民俗学の徒でもある内藤正敏氏は、二つの台石の間の岩板の上で強く足ぶみすると地下で大太鼓をたたいたようなにぶい共鳴音がしたといい、続石の地下には人工的な空洞があるらしいとする。だとすればドルメン説もあながち否定できないが、日本のドルメンは長崎県はじめ九州北西部に数基認められるものの本州ではこれを見ない。また、北東北の古墳はいずれも古墳時代末期の前方後円墳や円墳であり、ドルメンのつくられた弥生時代とは築造年代も相容れない。この不思議な巨石構造物はいったいなんなのだろうか。





ひとつの可能性は祈りの場に設えられたモニュメント、鳥居のようなものではないかという説である。続石のすぐ上には山の神の祠があるが、祠ではなくその背後の山を拝するとしたらどうだろうか。内藤氏をはじめ、先人の指摘もあるので周囲の山とこれを拝する里宮などの位置関係を確認してみた。



Googleマップにプロットしてみたのでご覧いただきたい。遠野物語には当地の三女神が母神から山を与えられる話が出てくるが、彼女たちは現在神遣神社のある場所からそれぞれ早池峰、六角牛、石神の山に降った。(遠野物語2) 伊豆、六神牛、石神の各神社はこれらの山々を遥拝する場所である。続石は石神山(石上山)の中腹にあって、山の神の祠を通してこの山の頂を向き、さらにその延長線上に早池峰山があることがわかる。ここは石神山、そして早池峰山に祈りを通す場所であり、神域の入口の表徴なのだ。続石という名称もそこから来たものではないかと思う。やはり機能としては鳥居に近く、異界との境界を示していると言えるかもしれない。


遠野物語には「鳥御前」という仇名を持つ鷹匠が、続石の上あたりの山中で男女の赤ら顔の山人を見た話が収録されている。鳥御前は先に進もうと腰刀で山人に打ちかかったが、制止されて前後を失い、谷底で気絶しているところを発見された。三日ほど病に伏し、その後亡くなるが、山伏が言うには山の神たちの遊ぶところを邪魔したので祟りをうけたとの由。文末に十余年程前の話とあるので、明治三十年頃のことだろう。遠野物語にはこうした山人に関する話が他にも出てくるが、そもそも山は「神います」聖地であり、里人がみだりに入ることは憚られたのである。三女神の話にも「若き三人の女神各三つの山に住し、今もこれを領したまふゆゑに、遠野の女どもはその妬みを恐れて今もこの山に遊ばずといへり。」とある。そういえば山の神は女神で同性が山に入るのを嫌うという。不細工な容姿のオコゼを好んだり、男が一物を晒すのを喜ぶという話を思い出した。





さて、最後に難問がひとつ。続石が人工物だとすれば、これをどうやって作ったのかという問題である。そもそもこれら巨石をどうやってここに運び、台となる石を立て、さらにその上に笠石を載せたのか。まさか弁慶の仕業ではあるまい。石舞台古墳築造の再現ドキュメンタリーを見たことがあるが、仮に似たような方法があったにしても、ここは平地ではなく、山あいの狭い場所である。まず不可能と考えるのが普通だが、先の内藤氏は石舞台古墳の築造法を引き合いに、こんな仮説を提示している。


その内容を簡単にいえば、まず石室をつくっておいて、それを土砂で充たし、外部にも左右に土砂の斜道(沙梯)をつくって、その上をコロを使ってすべらせながら、巨石をひっぱりあげるというものであった。この時、巨石の下面が自然のままで凹凸があれば、コロが使用できないので、修羅と呼ぶ台枠に、テコを使って巨石をのせる必要があった。(中略)おそらく、斜道の原理はそのまま続石にも応用されたと思う。しかし、私は続石の場合、土砂ではなく、“雪”の斜道が使われたのではないかと思うのだ。雪の斜道ならコロを使う必要がないので修羅はいらない。そのため、テコで巨石を修羅にのせるめんどうな作業もいらないのである。(中略)だいたい、東北の山村では石垣用の石や庭石は冬の雪がある間に、山からソリでおろしてくるのが常識だった。(出典*2)


慧眼というほかないが、その土地の民俗に通暁していなければこうした発想は出てこない。ながらく東北の民俗に触れてきた著者ならではである。



続石については他に類を見ないものだけにさらなる解明が俟たれるが、宗教的な目的でつくられた構造物であることは間違いないだろう。今回の旅では、遠野の巖龍神社、花巻の丹内山神社なども訪れたが、いずれも成立の基底には巨石への信仰があった。僕としては思いもよらない鉱脈を掘り当てた感がある。さて、岩手についてはここでいったん筆を措き、次稿からしばらくは沖縄の御嶽をとりあげてみたい。ご期待を乞う。


(2022年7月27日)


注)

*1 ドルメン(Dolmen)

新石器時代から鉄器時代にかけて、世界各地で作られた巨大な石の墳墓。数個の自然石で墓室を作り、上に大きな自然石板を載せたもので、巨石記念物の一。支石墓(しせきぼ)。

(出典:小学館デジタル大辞泉)


出典)

*1  柳田國男「新版 遠野物語 付遠野物語拾遺」KADOKAWA 令和4年

*2 内藤正敏「聞き書き 遠野物語」新人物往来社 昭和53年


参考)

野本寛一「民俗探訪 石と日本人」樹石社 昭和57年