黒森神社:岩手県宮古市山口第4地割132


三ツ石神社:岩手県盛岡市名須川町2−1

報恩寺:岩手県盛岡市名須川町31−5

櫻山神社:岩手県盛岡市内丸1−42


出張ついでに聖地を訪ねることがある。コロナ禍に加え、当方は先頃定年退職した嘱託の身で、出張はほぼないのだが、それでも年に一、二度は機会に恵まれる。特に関心を向けていなかった場所に出張が決まると、俄かに当地の聖地や民俗を調べたりするのだが、これが思いのほかおもしろい。今回の行先は陸中、岩手県である。


盛岡駅には10時前に着いた。宮古での待ち合わせは14時半と時間がある。駅前でレンタカーを借り、まずは近くにあるいくつかの聖地を訪ねてみた。本題とは関係ないが紹介しておこう。ひとつめは三ツ石神社。駅前から車で数分のところにある。境内には鬼が手形を押したと伝わる三つの巨石があって、これが「岩手」の県名の起源だという。悪さをする鬼を三ツ石神社の祭神が捕らえてこの岩に縛りつけ、二度と悪さをしないよう約束の手形を押させたと云う。祭神は三ツ石様と呼ばれる地主神らしく、古くからの巨石信仰だろう。市中の住宅地に三つもの巨石がどっかり腰を据えているのがおもしろい。


続いて、歩いて五分のところにある古刹、報恩寺に向かう。三ツ石神社周辺には19もの寺院があって、北山寺院群と呼ばれる観光スポットとなっている。報恩寺は五百羅漢が有名で、享保二十年に建造された羅漢堂の中は壮観である。さまざまな姿かたちの羅漢が所狭しと居並んでいる。表情やしぐさは現実の人間を思わせ、見ているとじつに愉快な気持ちになる。中には、マルコポーロやフビライ・ハンを模したといわれる像もある。京都の九人の仏師が制作したというが、よくこれほど多様な像容を表現できるものだと感嘆する。



次は、盛岡城跡の一角にある櫻山神社だ。江戸中期に初代盛岡藩主の南部信直とその後裔三柱を合祀したもので、殿様の神格化などにはまったく食指が動かないが、社殿脇を上ったところにある烏帽子岩はなかなか見応えがあった。案内板によれば、盛岡城築城時に当地を掘り下げたところ、大きさ二丈の巨石が出てきたが、その場所が城内の祖神を祀る神域にあったので宝大石とされ、吉兆のシンボルとして祀られたとある。ところで、日本最北の延喜式内社は岩手県紫波町にある志賀理和気神社、坂上田村麻呂の蝦夷討伐の前線となった場所である。少なくとも奈良時代においては、盛岡には大和朝廷の力、文化は及んでおらず、中央の祭儀とは無縁の、より素朴な信仰があった筈で、これを象徴するのが三ツ石であり、烏帽子岩などへの巨石信仰ではないだろうか。鬼や阿弖流為(アテルイ)のことに言及したくなってくるが、それはさて措こう。目的地はあくまで黒森神社だ。


「廻り神楽」というドキュメンタリーフィルムがある。黒森神楽を扱ったもので、僕は巣鴨で開催された自主上映会でそれを見た。そもそも黒森神社を知ったのは黒森神楽を通してである。どちらかというと僕は神楽など民俗芸能諸事よりも神仏を祀る儀礼、さらにいえば神霊の宿る場そのものに関心が向く。だが、この神楽についていえば、映像を通してにせよ、なにか鬼気迫るものを感じたのだ。


よく聞く話だが、神楽の舞い手は面を被ったその瞬間、神々が憑依するという。古くから伝えられ、使われてきた面の裏側の、あの黴臭い、歴代の舞い手の吐いたくぐもったいきれを吸うからなのだろうか。映像の中の舞い手の所作は、とうに当人の身体能力を超えているように映り、時にヒップホップのダンサーさながらだった。これはどういうことなのか、なにがそうさせているのだろうというのがはじまりである。


黒森神社の由緒と神楽については、宮古市のホームページに委ねよう。


黒森神社と権現様

標高330メートル余りの黒森山は、宮古市街地の北側に位置し、かつては、その名が示すように一山が巨木に覆われ欝蒼として昼なお暗い山であったという。山頂に大きな杉があり、宮古湾を航海する漁業者などの目印(あて山)ともなったことから、陸中沿岸の漁業・交易を守護する山として広く信仰を集めてきた。黒森山麓の発掘調査により、奈良時代(8世紀)のものとされる密教法具が出土し、黒森山が古代から地域信仰の拠点であったことが窺われる。黒森神社は近世(江戸時代)までは、「黒森大権現社」などと呼ばれ神仏習合の霊山であった。1334(建武元)年の鉄鉢(県指定)をはじめ、1370(応安3)年からの棟札が現存し、歴代藩主によって手厚く守護されてきた。権現様(獅子頭)は、南北朝初期と推定される無銘のもの、1485(文明17)年のものをはじめ、20頭が「御隠居様」として保存されている。黒森神楽の起源や巡行の始まりは不明であるが、1678(延宝6)年には現在のような範囲を巡行していたことが、盛岡藩及び地元の古文書で確認できる。(出典*1)


盛岡市内から宮古を目指してひたすら車を走らせる。概ね1時間半、宮古市街に入る手前で黒森山に入っていく。麓の住宅地から一本道を進むとすぐに三叉路に出る。左の道に入り、300mほど行くと右に駐車場、左手が黒森神社。参道の入口には「イタコ石」なる陽石のような石を祀った簡素な祠が建つ。側面には由緒を説明する板が下がっていた。「当時、黒森神社は女人禁制のお山であった。何処よりか行脚の巫女来り、女人禁制の当山に登らんとす。麓より銭橋をかけてかけて登しが、村人その下山の遅きを怪みて尋ねしにこのいたこ石の所にて銭橋絶え草履を残して行方不明となりしかば、村人憐みてこ処に石碑を建立せしものなりと」とある。続いて、以下の注釈。・慶安3年(1651年)造立 ・1尺8寸の石碑、文字などは流れて見えず。・銭橋、道に銭をしきて渡ること ・旧道の峠より昭和50年移す。・平成6年5月吉日、祠を立てる。

銭橋のことは知らなかった。ご関心の向きは参考*1を参照されたい。女人禁制のこの山に歩き巫女が敢えて登ろうとしたのは、それほどの神威で知られたからなのだろう。




参道の石段を登っていく。紫陽花の花が美しい。少し上ると鳥居、その先の赤龍池には石橋が架かり、左に弁天堂。正面の石段を上ると本殿である。本殿手前には御本社旧跡と記された石碑と思しき自然石が立ち、周りに結界が巡らされている。当社から下った場所に「古黒森」と称する森があるが、古墳と推定される旧社地でそこから祭神を遷したようだ。


本殿の両脇には、左に白山堂、右に不動明王堂、薬師堂などが並び、境内には新しい神楽殿も建っている。山間にありがちな神社で特筆すべきことはないが、当日は梅雨の合間で晴れ渡っており、咲き乱れる紫陽花も相俟って、巨樹が林立するこの神域は凛としており、清々しさを覚えたのだった。





当社の創建は不詳で、坂上田村麿の蝦夷征討に由来する話もあるようだが、ここでは貴種流離譚を紹介しておこう。


垂仁天皇の第二皇子(一説に推古帝の弟宮とも伝える)が故あって勅勘をこうむり、宮古浦に配流の身となって磯鶏村柏木平に寓していたが、日々鬱憂に堪えず、ある日海に投身して果てた。里人は大いに驚き浦中を探したが亡骸が見つからなかったので、皇子が日ごろ愛育していた鶏を舟に乗せて尋ね、鶏鳴したあたりで亡骸を得た。この旨を朝廷に報告したところ、高い場所に葬祭すべしとの仰せがあり、黒森山は四十八谷を有する霊場であるとして山中に陵廟を築き葬ったのがその始まりという。本殿から約100m下った谷間に円形の小さい森があって、古陵とも本宮様あるいは古黒森とも称し、是津親王を祀った御陵と伝えている。(出典*2)


黒森山は修験の山であり、黒森神社も明治までは黒森権現と称していた。かつて関八州の修験者にもその名の聞こえた、三陸最大の修験行場であったようだ。黒森神楽についても彼ら修験者が芸能を通じて黒森権現の神徳を運んだもので、伊勢大神楽に通ずる巡行を行っていた。黒森神楽の舞が面白いのは巡行を重ねる内に、見世物的要素が強くなっていったことにあると思われる。そもそも修験者には行を背景とした高い身体能力があるのだ。少々のアクロバットはものともしないはずである。現在の黒森神楽もその舞の趣向を見る限りでしかないが、こうした伝統を受け継いでいるのではなかろうか。




黒森神社から浄土ヶ浜に向かい、下北半島の仏ヶ浦にも似た海上の奇岩を眺めたあと、被災企業を訪問した。千両男山で知られる菱屋酒造店だ。取締役のMさんは「きょうから今年の塩ウニの出荷が始まるのでぜひ食べていってほしい。日本一美味しいと自負している」と仰った。僕は黒森神社に千両男山が奉納されていたことをお話しし、海の豊穣は山によってもたらされること、その山からの水で作られた酒ということをブランドストーリーにしてはどうかと提案した。彼女は六人という少ない所帯で、あれもこれもやるのは大変と言いながらも、僕が「黒森神社」と発した時に一瞬だが目が輝いた。黒森山もまた、当地に暮らす人々にとって大きな誇りなのである。


(2022年7月4日)


参考)
*1 国際日本文化研究センター 怪異・妖怪伝承データベースhttps://www.nichibun.ac.jp/YoukaiCard/1231756.html

*2   小形信夫「黒森神社」谷川健一編『日本の神々−神社と聖地- 第12巻 東北・北海道』白水社 1984年