守屋神社:長野県伊那市高遠町藤沢
守屋神社奥宮:長野県伊那市高遠町藤沢(守屋山東峰山頂)
御頭御社宮司総社:長野県茅野市宮川389
(前稿より続く)
さて、守屋神社の祭神だが、これがなんと物部守屋なのだ。諏訪の神といえば、多くは建御名方命や八坂刀売命の系譜に連なるが、いったいどういういきさつでこの物部守屋を祀るようになったのだろうか。物部氏は、古墳時代から飛鳥時代にかけて権勢を誇った古代氏族であり、饒速日命を祖とする。製鉄や武器の製造にはじまり、軍事や祭祀を司ったとされるが、なにより仏教を巡る蘇我氏との対立でよく知られる。丁未の乱(587年)において、物部守屋は蘇我馬子を中心とする追討軍に殺され、残った一族は各地に散り散りになったのだが、その残党が諏訪にまで逃げ、守屋山に隠れていたというのである。
物部守屋(出典*1)
守屋神社には由緒の類は残っておらず、いくつかの古文書から推理するほかないようだが、物部守屋に連なる者が当地に逃れてきて守屋山に潜んでいたという記述は複数認められ、また守屋山東南麓の藤澤片倉には守屋姓が非常に多く、物部守屋大連を奉じていること、守屋山中に物部氏の興りとなった鍛冶を思わせる「鋳物師ヶ釜」という地名が残ることなどから、あながち眉唾ともいえないように思われる。(参考*1)山頂の奥宮は北側の諏訪大社ではなく、東南を向いており、下った山麓には里宮、その先には藤澤片倉の集落が広がっている。やはり諏訪明神とは異なる系譜の神を祀っていると理解した方がよいように思える。
守屋神社と諏訪大社上社の位置関係
守屋神社
守屋神社奥宮
一方、明治の初めまで諏訪大社上社の祭祀を執り仕切ってきた神長官守矢氏は、その祖を物部守屋の息子の武麿としており、守矢家(神長官守矢資料館)の裏手には武麿のものと伝わる古墳もある。古代の統治において祭祀を司ることが必要条件だったとすれば、かつて田中基氏が指摘したように、守屋山中に忍んでいた物部武麿を守矢氏が養子として迎えたということも考えられよう。(参考*2)
結局、守屋山の神はもともと山の神、あくまで祈雨信仰に基づく神であり、洩矢族は祭政体制の強化のために、物部守屋の"モリヤ"という音を利用し、平仄を合わせたと考えるのが妥当ではないだろうか。或いは、なんらかの政治的な意図をもって後世に付会されたものかもしれない。いずれにせよ、事の真偽は謎である。
さて、洩矢神は当地の祖先神、地主神といってよいと思うが、その祭祀には「ミシャグジ」なる諏訪の古層の神が大きく関わってくる。そもそも僕が諏訪に大きな関心を寄せるようになったのは正にミシャグジがきっかけなのだ。ミシャグジは柳田國男の「石神問答」で知ったが、現在の僕の住まいの近くにも「石神井」という地名が残り、かねてから「これはいったいなんじゃらほい」と思っていたのだった。いろいろと調べ、祀られた場所を訪ねるうちにその輪郭が朧気ながらわかってきたのだが、ミシャグジは「神」というよりも「精霊」の一種である。一般に神社が祀っている神々とはかなりニュアンスが異なるので、ここでもあえて「精霊」としておきたい。非常に抽象性が高く、その姿かたちなど想像もさせない存在である。諏訪の考古学者、藤森栄一氏は、著書「諏訪大社」の中でこのように述べている。
神長官守矢氏の奉斎していた洩矢神は、ミシャグチと呼ばれる神々を統括している神で、ミシャグチは御社宮司、御左口神などいろいろな漢字が転用されている。むろん、記・紀に主役をつとめるような神ではなく、自分が死んで、その死骸から新しいさまざまな命をよみがえらせる ― 保食神・オオゲツヒメ、ときには豊受大神・猿田彦神・天鈿女命などのような表現をとる ― 自然神で、食物、生産または土地についての強い権限をもっていた。ミシャグチ神の祭祀は、いま多く廃祠となってしまったが、古くは、中部日本全体に広く分布していた。多くは一小単位の聚落、つまり村々の神で、村の台地の上や谷口などにあり、はじめは社殿をもたず、巨木、巨岩、尖った石、立石、棹などに降りてくるナイーブな自然神であったようである。さらに、このミシャグチ祭政を総括する位置にあったのが、大祝諏訪神の先住者であった洩矢神である。(出典*2)
御頭御社宮司総社
なんとなくイメージがつかめたかと思うが、ミシャグジの総元締めが洩矢神、つまり神長官守矢氏の祖先なのである。諏訪大社上社前宮と本宮を結ぶ道のちょうど中間地点には、守矢家の屋敷が現存する。敷地内には御頭御社宮司総社が祀られ、建築家の藤森照信氏が設計した資料館が併設されている。僕はここが大好きで何度も訪れているが、風の通りのよい、なんともさわやかな場所で、いつ行ってもとてもいい気分にさせられる。御頭御社宮司総社は丘の上に築かれた石垣の上に祀られている。そこに御柱は建つものの、鳥居や狛犬などはある筈もなく、一般の神社とは異なる佇まいを見せている。木の祠には地酒のカップと木の実、そして鹿の角が供えてあった。いつも思うのだが、ここに二礼二拍手一礼は似つかわしくない。僕は一礼して静かに手を合わせるのみで、なにかを祈願するということもしない。そんな自分を顧みて、はじめて信仰の意味に気づかされるのである。
それでは神長官はなにを行っていたのだろうか。神事そのものは口伝であり、具体的なことは秘されているのだが、田中基氏は古文書に残る大祝の即位儀式の記述から、祭祀の構造が窺えるという。
永い潔斎期間において身心を清浄し、スピリットの憑きやすい状態になった童児が、当日、カエデの樹の根本にある石の上に葦を敷いて立ち、神長・守矢氏によってカエデの樹に降ろした精霊を根元の石に宿し、それを童児に憑ける、という構造です。このことによって少年は大祝になる。(中略) ミサグジは樹でも石でも少年そのものでもなかったのです。そして同時に樹でも、石棒でも、童児・大祝でもあったのです。樹や石を媒介とし、潔斎によって体をカラッポに洗浄した少年の身体を容器として、出たり入ったりする外来魂だったのです。その精霊を空より降ろし、体に憑けることをミサグジ降ろしと言い、神長もっぱらの役でした。その外来魂・ミサグジを装填したがゆえに大祝になった童児は、生き神様・現人神と考えられたのです。(出典*3)
神長官守矢氏は世襲のシャーマンなのであった。このブログでは、前宮の近くにある諏訪七木の一、峯の湛について書いたことがあるが(参考*3)、ここでも神長はミシャグジを降ろしていた。また、諏訪、茅野、富士見のあたりを車で流していると、たまに樹下の祠に遭遇することがあるが、祠の中には石棒ならずとも、大概石が入っている。このように、ミシャグジ降ろしには樹木や石棒が介在することもあって、どこか縄文の残り香のようなものを感じる。ご存じの通り、八ヶ岳南麓は縄文集落の密集地帯なのだ。僕はそこに太古から当地の人々の生活に溶け込み、気まぐれに漂う精霊たちの痕跡を見る。それは若狭大島のニソの杜、指宿や大隅半島のモイドン、沖縄の名もなき御嶽や拝所などで受けた印象と同じものであった。古層の神々の本質を突き詰めていくと、結局は樹木、森に行きつくように思えてならない。
ミシャグチ研究の嚆矢といえば、茅野の今井野菊さんである。中部から関東にかけて2,300ヶ所を超える場所を踏査、報告されており、その執念ともいうべき探求心には平伏するほかない。文末に参考として挙げた古部族研究会による日本原初考 全三冊の巻末には彼女のインタビューが掲載されている。その語り口はチャーミングで、話の中身はとてもスリリングだ。諏訪信仰、洩矢神、ミシャグチなどに興味を持たれたら、この三部作はぜひお読みいただきたいと思う。そして、ミシャグジを祀る路傍の祠を訪ねてみてほしい。
御頭御社宮司総社には、きょうもさわやかな風が吹いているだろうか。
(2022年4月9日・10日)
出典
*1 文化遺産オンライン
*2 藤森栄一「諏訪大社」中央公論美術出版 1975年
*3 田中基「洩矢祭政体の原始農耕儀礼要素」 古部族研究会編 日本原初考「古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究」所収 人間社文庫 2017年
参考
*1 原直正「守屋山の習俗と伝承」 山本ひろ子編著「諏訪学」所収 国書刊行会 2018年
*2 田中基「穴巣始と外来魂」 古部族研究会編 日本原初考「諏訪信仰の発生と展開」所収 人間社文庫 2017年
*3 拙稿「諏訪 峯の湛」 https://ameblo.jp/zentayaima/entry-12391004762.html
古部族研究会編 日本原初考「古諏訪の祭祀と氏族」 人間社文庫 2017年