油日神社:滋賀県甲賀市甲賀町油日1042

 

桑名から多度大社、椿大神社を経て甲賀の里に入った。油日岳の西北麓、のどかな田園風景の中に鬱蒼とした杜が広がっている。前日まで強風を伴う大雨だったのが噓のように穏やかな天気に恵まれた。桜はまだ蕾のままである。みずみずしい春の気配に包まれて参道を行く。

 

見事なつくりの楼門に迎えられる。この結構だけ見ても、ここが古式を残した神社であることがよくわかる。楼門とこれに続く拝本殿は室町後期および桃山時代に造替されたもので、いずれも国の重要文化財とのことだ。見るべきは楼門を中心に左右に巡らされた廻廊だろう。均整のとれたシンメトリーをつくりだしていて、その佇まいを際立ったものにしている。この廻廊には祭の際に氏子中が参籠するらしい。全体に華麗、豪壮という風はないのだが、鄙の古社らしい朴訥さに加えて、甲賀の民らしい勁さや潔さのようなものを感じるたいへん美しい境内である。

 

楼門

 

楼門から拝殿を望む

 

拝殿

楼門と廻廊

本殿

 

 

油日神社の由緒を写しておく。

 

油日神社は南鈴鹿の霊峰油日岳の麓に鎮座する古社で、古くは油日岳を神体山とし、社殿では頂上に大明神が降臨して、油の日のような光明を発したことから油日の名が付けられたとされ、山頂には岳大明神が祀られています。油日大明神を主神とし、罔象女命(みずはのめのみこと)、猿田彦命を祀り、「日本三大実録」によれば、平安時代の元慶元年(877)の条に「油日神」が神階を授かったことがみえます。室町時代に作成された「油日大明神縁起」には、聖徳太子によって勧請された由来が説かれ、「聖徳太子絵伝」をはじめ、太子の本地である如意輪観音の懸仏が所蔵されており、中世には甲賀武士たちが聖徳太子を軍神として崇めるとともに、「甲賀の総社」として信仰されていました。明応四年(1495)に建てられた本殿は、近隣の多くの武士たちが力を合わせて寄進したもので、戦国時代には、油日神社が甲賀衆たちの拠り所となっていたことが分かります。(社頭の案内板による)

 

当社は油日岳山頂の岳神社を奥宮とする里宮にあたる。毎年9月11日には岳ごもりと称して氏子が山頂で徹夜で神火を焚き、これを翌日当社に持ち帰り、13日の大宮ごもりの種火にするという。これは、山宮と里宮の間で行われるいわゆる御生(みあれ)神事で、上賀茂神社の葵祭の前儀として行われる御阿礼神事に同じく、古式を伝えるものだ。13日には1000枚の皿に火を灯し、日が替わるまで火が消えぬようにお守りするという。

 

油日岳山頂の奥宮 岳神社(出典*1)

 

 

応仁の乱で社殿を失って荒廃し、後に再建されたが、その際の奉加帳(木板)「油日御造営御奉加之人数」には190にのぼる人や寺が記されている。そこには甲賀武士のみならず、「〇〇女」とだけ記された身分の低い女性の名もみえるという。いかに当地の人々の信仰が厚かったかが窺い知れる。そして、その信仰は「御生れ」という形でいまに繋がっているのである。氏神というよりも産土神といった方が相応しい。どこか人懐こいあたたかみがあるのだ。

 

ここに来たきっかけは白洲正子の随筆「かくれ里」だった。冒頭に登場するのが油日神社で、福太夫の面とずずいこが紹介されている。ページを繰っていたら突如現れる「ずずいこ」のインパクトはとくに強烈で、思わずのけぞったのだった。

社務所を訪ねると、緑のダウンジャケットにチノパンツというカジュアルないでたちの男性が出てきた。神職なのだろうか。「きょうは資料館の見学は叶いますか。先週電話した者なんですが」と尋ねると、「あ、電話いただいた方ですね。いまなら大丈夫です。五分ほど待っててもらえますか」と、鍵を取りに戻った。覚えていてくれたらしい。先週の電話では、年度末で近隣の神社の寄合があり、せっかくお越しいただいても対応できないと、やんわり断られたのだった。一人で切り盛りされているのかと聞くと、なにからなにまですべて一人でこなしているのでとても忙しいとのこと。「すみませんね。お忙しいのにわざわざ開けていただいて」と恐縮すると、彼は「ちょうどよかったんです。仕事がひと区切りついたところなんで。気分転換にもなるんですよ」と表情を和らげた。

 

資料館の中に入れてもらう。古文書、甲冑、懸仏、祭りの道具類など油日周辺の民俗資料が展示されている。実物の印象はやはり違う。福太夫の面は「かくれ里」の写真では怒ってこちらを睨んでいるように見えたが、平置きしてある面を顎の方から仰ぐように見ると、やや憂いを帯びた表情に映る。宮司氏によれば、この面は田楽に使われたらしい。一方のずずいこは、田祭りの時に豊作の予祝としてこの男根で地面を叩いたのでしょうとの由。他に見学者がいないこともあって、こちらの質問にも懇切丁寧に応えていただける。

 

福太夫の面(出典*1)

 

ずずい子(出典*1)

 

しばらくすると外で声がする。年嵩の参拝客が三人訪ねてきた。中に入ってくると宮司氏の説明をよそに一目散にずずいこを見に行った。「これかぁ」、「これねぇ」としきりに感心している。思わず苦笑してしまったが、観光というものはこういうものなのだ。それ以外にはあまり関心はないようで、所在なさげに館内をうろうろしている。近くの櫟野寺の仏像は見た方がいいと促されると、拝観終了が間近とあって「そらはよ行かなあかんわ。どのくらいかかりますか」と三人とも浮足立つ。そうこうするうちにまたひとり見学者が入ってきた。宮司氏は「こんな調子で他の仕事が手につかなくなるんです」とこぼした。

 

銅造如意輪観音三尊像懸仏(出典*1)

 

意匠を凝らした立派な懸仏を見ながら、神宮寺の所在について尋ねてみる。すぐ近くに別当寺があり、明治までは仏教色の方が濃かったとの由。「最近は神仏習合を見直す動きもあるようですね」と水を向けると、「お祭りの時はお寺に声を掛けて読経していただくこともありますし、こちらがお寺の方に招かれることもあります」とのこと。なんだかうれしくなる。当社を訪ねる前に櫟野寺に寄ったのだが、宝物殿には三十三体の仏像が収蔵されており、そのうち二十体は国の重文で目を見張るものばかりだった。住職になぜこんなに集まったのかを聞くと、やはり明治の神仏分離が大きく影響したらしく、廃寺になった寺の本尊などをすべて預かったとのことだった。明治の神仏分離令に伴い、極端な廃仏毀釈につながった地域もあるが、油日の地はかろうじてこれを守ったということなのだろう。いずれにせよ、当社の社殿も祭も古風を留めるのは、いにしえからこの里に暮らしてきた人々の信仰に根差すものだと思われる。

 

宮司氏にお礼を述べ、油日神社を後にする。帰途、油日岳を遠望しておこうと車を停め、外に出ると民家からご婦人が出てきた。油日岳の方角を確認してみる。「さきほど宮司さんから伺ったんですが、こちらの氏子さんたちは年に一度あの山に登るんですよね」と尋ねると、彼女はとてもうれしそうに頷いた。油日の人々にとってこの山は誇りなのである。

 

 

 

油日神社のホームページには「油日神社を含め周辺地域は観光地化されておりません。近くには櫟野寺(油日神社から1.5㎞)・大鳥神社(櫟野寺から3.6㎞)がありますが、食事処・お土産等は離れたところになりますので、特に電車・タクシー等交通の便を含め事前に下調べをして下さい」との断りがある。一方、宮司氏は最近ドラマや映画のロケが多くなり、二月にも豊川悦司、天海祐希、黒木瞳、芳根京子ら著名な俳優陣が訪れたとも。願わくば金銭目当ての観光化などせずに「かくれ里」のままであってほしいものである。

 

(2022年3月27日)

 

出典

*1 甲賀歴史民俗資料館 https://www.aburahijinjya.jp/rekimin.html

 

参考

白洲正子「かくれ里」 講談社文芸文庫

木村至弘「油日神社」 谷川健一編『日本の神々−神社と聖地- 第13巻 山城・近江』白水社 1986年

油日神社公式ホームページ https://www.aburahijinjya.jp/