獨股山 前山寺    長野県上田市前山300
龍王山 中禅寺:長野県上田市前山1721

塩野神社:長野県上田市前山1681

 

久々の信濃への旅は上田あたりを巡ることにした。意外といっては失礼だが、上田市の西南に広がる塩田平一帯は「信州の鎌倉」と呼ばれ、寺社建築、仏像、古墳などに見るべきものが多い。国宝、重文がすべてというつもりはないが国指定の文化財の数も多く、訪れると必ず発見があると思う。温泉も数多く、関東から赴く聖地巡りの穴場かもしれない。

 

ここで紹介する二寺一社はいずれも独鈷山の麓にあって、二寺はいずれも平安時代前期、塩野神社はさらにこれを遡るものと思われる。今回の旅の目的のひとつに上田あたりの三重塔を巡ることがあったので、まずは前山寺から参拝する。前山寺(ぜんさんじ)は重文の三重塔を擁する古刹だ。寺伝では、弘仁年中(812年)に弘法大師空海が護摩修行の霊場として開創したと伝えられる。元弘年中(1331年)讃岐国善通寺より長秀上人が来止し、正法院を現在の地に移し、前山寺を開山したとあるので、実際には鎌倉から室町時代に発展したのだろう。(詳しくは参考*1の論文を参照)前山の地は中世以降、塩田北条氏、信濃村上氏、甲斐武田氏によって治められたが、前山寺は塩田城の鬼門に位置することもあり、祈禱寺として武将の信仰が厚かったという。武田勝頼は寺領を寄進し、当寺にはその朱印状が残る。

 

庭には折からの雪が積り、生き物の足跡が点々と続いている。山門の先に三重塔が見える。室町時代初期の建造らしく、質素だがたいへん洗練され、落ち着いた風情だ。雪の白、塔の黒、そして空の青。コントラストがじつに美しい。未完成の完成の塔と言われ、窓も扉も、廻廊も勾欄もないが、その押し黙ったようなさまにはストイックな宗教性を感じる。いや、これは素晴らしい。塔の周りをぐるぐると廻り、あちこちから写真を撮ってみる。

振り返ると本堂。このずんぐりした茅葺の、いかにも信州にありそうなお堂の、なんと美しいことか。諸宗の仏堂の中では控えめに映るが、仏法を護持するに相応しいつくりで、このような寺の檀家になれば些事に煩わされることなく、終生を安寧に送ることができるのではないかとまで思わせる。茅葺の向背には「本」の一字が刻まれている。寺務所に詰めていたご住職に伺うと、本堂の「本」でもあるが火難を避けるための「水」でもあり、一種の隠し文字との由。このあたりもおくゆかしい。境内には村山槐多の作品はじめ夭折した画家の作品を収める美術館や、くるみおはぎという銘菓があったりと、とにかく総じてセンスがよく、押しつけがましさなど微塵もない。

 

続いて、中禅寺へ。当寺の創建も空海に因み、天長年間(824~834年)に巡行の際、人々が旱魃に苦しんでいるのを救うため堂宇を建立し、祈雨を行ったのがはじまりという。山号の龍王山は寺の背後にそびえる独鈷山の支峰の名で、そこには龍王が祀られ、修験の行場であったとのことだ。その名残は、寺から下ったところにある登山口にある鳥居に見られる。

 

 

参道右手の仁王門では平安時代末の金剛力士像が迎える。仁王門をくぐると国重文の薬師堂。ずっしりとしている。寺のリーフレットには鎌倉時代初期の建立、藤原時代の「阿弥陀堂形式」で造られ、岩手の中尊寺金色堂と同形とある。中部日本ではもっとも古い堂らしく、地面にしっかりと根を張った、土着した凄みを感じる。その姿は数百年生きながらえている樹木のようにも映る。柱を触ってみると、往時の木が持っていたであろう微かな温もりが手に伝わってきた。

中には同じく重文の木造薬師如来坐像、神将立像が収められているというが、雪のためか扉はかたく閉ざされていた。

 薬師如来坐像・神将立像(出典*2)

 


薬師如来坐像・神将立像(出典*2)

 

塩野神社に向かう。中禅寺とはわずか200mの距離しかなく、隣接地にあるといってよい。杉並木の参道の向こうに鳥居が見える。まずは、手元の資料から由緒を写しておこう。

 

小県郡屈指の古社で、貞観15年(873)に正六位上となり(『三代実録』)、延長五年(927)の『延喜式』神名帳には小県郡五座のなかの一座(小社)として登載されている。祭神は素戔嗚命・大己貴命・少彦名命の三柱で、社伝によれば、白鳳元年(673)に出雲から独鈷山の東峯の鷲岩に勧請され、のちに参拝の便をはかって現在地に移されたという。(出典*1)

 

参道を進み、塩野川に架かった神橋を渡る。その先には拝殿ならぬ勅使殿(みかどや)がある。造作は二階建ての楼閣で、江戸時代に建てられ、寛延3年(1750)に再建との由。なかなか趣きがある。人ひとりおらず、雪中深閑としており、境内には神さびた空気が漂う。

 

 

 

社殿前には複数の巨岩で構成された磐座があり、それぞれの岩の上に小祠が設けられている。前に白山社、竜王社、子安社、天満宮社など社名を記した札が立つ。その奥には山神社の祠。水神を祀る場所には磐座があることが多いが、ここも水神を祀るのだろうか。前記の出典から再度引用する。

 

塩田平は年間降雨量が1000ミリに満たない乾燥地で、水を最も貴重とする地帯である。塩野川の沢水は前述の鷲岩の所から流れ出ており、この岩と沢水が古代の開拓者たちの信仰となったことはきわめて自然の成り行きであったと思われる。塩野川に架かる太鼓橋を渡ると、右側に大きな岩が並び立っている。その上にはそれぞれ石の祠が安置されていて、全体が見事な磐座となっており、塩野神社の原形はこの磐座ではないかともいわれている。(出典*1)

 

その通りなのだろう。ここは水、そしてその源である山を祀った場、即ち独鈷山の山麓、塩野川の流域につくられた祭祀場なのである。中禅寺の縁起に伝わる空海の祈雨伝承もおそらくは同根と思われる。祈雨については、天長元年(824年)、勅命により京都神泉苑で東寺の空海と西寺の守敏が祈雨修法を競い、空海が勝利したという事蹟が知られている。中禅寺の開刹と時期を同じくするので、空海の弟子が当地に祈雨の修法を伝えたのかもしれない。

 

水は山からもたらされ、川となって里、そして人を潤す。一方、降り続く大雨は、山の土砂崩れや川の氾濫を引き起こし、里も人も甚大な被害を被る。祈止雨はかつて天皇自らが祈る国家儀礼であり、偶然にせよなんにせよ、つい先頃まではなんとかやり繰りしてきたのだ。翻って今日はどうか。世界中で旱魃や洪水が起きていることは承知の通りだ。祈止雨の儀礼に代わるものがあるとすれば、それは温暖化の抑制以外にないだろう。僕たちは荒ぶる神々を鎮めなければならない。そんなことを考えながら独鈷山を仰ぎ見る。さっきまで青かった空には、灰色の雲が厚く垂れ込めはじめていた。

(2022年2月5日)

 

出典

*1 黒坂周平・龍野常重「塩野神社」 谷川健一編『日本の神々−神社と聖地- 第9巻 美濃・飛騨・信濃』白水社 1987年

*2 上田市の文化財

 

 

参考

*1 伊藤尚徳「信州上田獨股山前山寺所蔵聖教調査報告―中世聖教を中心として―」2019年

https://www.jstage.jst.go.jp/article/chisangakuho/68/0/68_105/_pdf/-char/ja