楯築神社(楯築弥生墳丘墓):岡山県倉敷市矢部
古墳がブームだ。随分前にも古墳ギャルなるアニメがあったが、シンガーソングライターのまりこふんの登場あたりからだろうか、メディアも古墳を取り上げることが多くなった。NHKは「ミステリアス古墳スペシャル」なる特番をすでに三回制作しているが、2019年に百舌鳥・古市古墳群が世界遺産に登録された影響もあるのだろう。どうもこのブームを支えているのは女子中心のようだ。いわく「前方後円墳のあのくびれがカワイイ」、「石室の中に横たわることが好き」という具合で、古代史や考古学とは明らかに異なる受容のされ方である。そのかたちと大きさにはじまり、副葬品の埴輪や装飾品に魅せられて古墳を巡りはじめた女性も多いようだ。そのうちに古代ロマンに想いを馳せるという寸法なのだろうか。かくいう僕の関心も大差はない。不思議なもの、奇妙なもの、現代に生きる僕たちの想像をはるかに越えたものには抗えない。引き寄せられてしまうのである。
楯築神社は倉敷市の北東部、足守川沿いの台地の上、以前このブログでとりあげた真宮神社を擁する王墓の丘史跡公園の北端にある。吉備中山や造山古墳からも3~4kmと至近だ。一帯は古墳や磐座の集積地で神社も数多い。古代史が好きな方には堪らないところだ。訪れてみるとここはけっこうな住宅地だった。一戸建ての立派な家が多く、ドラマ「金曜日の妻たち」で有名になった東急田園都市線のつくし野あたりに雰囲気が似ている。こちらは「庄パークヒルズ」として1970年代の半ばから開発が進んだニュータウンだが、楯築遺跡もその過程で発掘されたとのことだ。
住宅地から少し丘を上がったところに王墓の丘史跡公園の小さな駐車場があり、ここに車を停めて入っていく。左手に円筒形の巨大な給水塔があって、およそ古墳に似つかわしくない光景にとまどう。ヘンなところだと思いながらこれを回り込んでいくと墳丘墓の態をなしていることがなんとなくわかってくる。ひときわ高くなった円丘のまわりには巨石が配されていて、その下にはボコボコと穴が空き、中に落ち葉が積り重なっている。これらはすべて古墳であり、一つひとつ数字を号した立札が立つ。子どもの遊び場としては面白いだろうなと思いながら、円丘部に上がってみた。
真ん中に巨石を背にした石祠が立ち、その周りを扁平な立石が不規則に囲んでいる。発掘時に傾いていたものを立て直したらしいが、まるで現代美術の野外展示のようでじつに奇妙な光景だ。そもそもこれは神社なのだろうかという疑問が湧く。神社だとしたら祭神は誰だというのだろうか。
資料によれば、当地にはかつて西山宮という神社があったが廃祀となり、天和年間(1681年~1684年)に復興されてから、楯築神社あるいは楯築明神と称するようになったという。その後、神社合祀政策のあおりを受けて大正六年(1909年)に近くの鯉喰神社に合祀されている。社殿は取り壊され、御神体の石(弧帯文石、後述)も遷されたが、大正期に地域住民の願いもあり、御神体のみ当地に戻され、宗教法人福田海(注*1)の援助により、石祠の中に収められたという。祭神は一説に吉備津彦命に従った片岡多計留(たける)とされるが定かではなく、石霊を祭神としていたのが妥当とされている。(参考1、2)
石祠の背後にある巨石は立石を利用し、他は墳丘斜面の列石を転用したらしい。資料には「立石の並んでいる円丘頂部の平坦面の端から2.5mほど下がった位置に列石がめぐっている。この列石は、上下二段にわたってめぐらされており、そのあいだには円礫が敷かれている」とあった。訪れた時にはそんな構造だということはわからなかったが、あとで想定復元図を見て合点がいった。
参考1より
円丘の中央部には祭祀に使われたと思われる祭具を集め、円礫とともに墓壙の真上にまとめて置かれていたという。出土した遺物は神社の御神体とされる弧帯文石のほか、特殊器台や壷などの土器、土の勾玉や管玉、後の埴輪に通ずる土人形、鉄器、そして炭や灰、植物の種子などである。なにをやっていたのかは憶測の域を出るものではないが、炭や灰があるということは火祭りを行っていたことはたしかだろう。問題は弧帯文石だ。発掘調査によれば、この石はふたつあり、一つは永らく御神体として祀られていた完形、もう一つは粉々になった状態で出土している。しかも後者は火で炙られた痕跡があるという。御神体の石の方は後年円丘の端に建てられた収蔵庫に収められているので、当日の実見は叶わなかったが、国立東京博物館の平成館にはこのレプリカが展示してある。
神体石を収めた収蔵庫
弧帯文石 楯築墳丘墓出土 (複製:国立東京博物館平成館)
よく観察するとわかるが、一部が人間の顔と思しきレリーフになっているのだ。一方の弧帯文石には顔がなく、しかも火で炙って粉々になっている。縄文土器や土偶、石棒との類似を思わせる。土器土偶の完形は稀であり、粉々になった状態で出土することが多い。また、石棒も火に炙られて色が変わっているものが多く、このあたりは共通している。研究者ではないのでたいした根拠もないが、この遺跡の出土物は、縄文末期の祭儀が弥生文化を吸収して古墳時代前期につながっていく証左のように思える。いずれにせよ、ここには縄文の痕跡がある。
さて、被葬者は誰かということが気になるが、その前に「温羅」の話をしておかねばならないだろう。吉備津神社および吉備津彦神社の縁起によれば、温羅は崇神紀に渡来した百済(諸説あり)の王子で、当時の備前国の支配者とされている。「鬼人神」、「吉備津冠者」の異名があり、観光名所として有名な鬼ノ城は温羅の拠点だったとされている。温羅に関する伝承は長くなるので割愛するが、要は大和朝廷が服属を求めた渡来系地方豪族の長であり、その勢力は看過できない大きさだったと思われる。いわば"まつろわぬ"者であり、渡来の異人であることもあり、「鬼」とされたのだろう。これを平らげるために、朝廷から派遣されたのが四道将軍の一人、五十狭芹彦命(いさぜりひこのみこと。後の吉備津彦命)だ。縁起には吉備中山に陣を構え、その西方にある片岡山に石の楯を築いて戦いに備えたとある。この石の楯こそ楯築神社に立っている巨石であり、社名の由来とされているものだ。丁々発止の戦いの後、温羅は捕らえられて首を刎ねられ、その後の次第は吉備津神社の鳴釜神事や、上田秋成の「吉備津の釜」につながっていくのだが、これは読者諸兄姉のよく知るところだろう。
伝承に依拠すれば墳丘墓に眠っていたのは五十狭芹彦命に連なる人物ということになるだろう。だが、”楯突き”は対抗や反抗の意でもあることを考えると、温羅の側近の誰か、あるいは温羅その人であった可能性もある。足守川を挟んで戦ったことは地勢からして想像に難くない。また、周辺に大小の古墳が蝟集していることからも、足守川西岸一帯が古代吉備を治めた豪族の拠点だったと考えることはできる。
一説に卑弥呼の墓所ともされる大和の箸墓古墳は、前方後円墳の原型であり、墓の形や様式など各地の墓文化が融合して生まれたとされる。楯築弥生式墳丘墓との共通点は鍵穴型であることに加え、古墳の頂上から出土した土器が特殊器台で、その土の成分を比較すると吉備に近いということがわかっている。近年、前方後円墳は各地の勢力の合意の象徴であり、大和朝廷=統合国家の成立を意味しているとされている。即ち、武力統一、戦争ではない国家形成を図ったとの見方が為されているのだ。では、温羅伝承はどのような背景から生まれたのか。服属を迫った大和朝廷の正当性を後世に伝えるためにつくられた物語だったのだろうか。
出雲の国譲り神話同様、まつろわぬ側に理はない。現代においても、国家であれ企業であれなんであれ、強者は弱者を呑み込んでしまうものだ。だが、呑みこまれた側の存在は決して忘れられることはない。それは文化の画期をつくり、民衆の支持を得ていたという実績があるからだ。岡山の「うらじゃ」の演舞はいまや全国区となった。総社市にも「温羅まつり」がある。製鉄、造船、製塩などの技術を当地にもたらした渡来の王子、温羅はいまも当地で愛される存在なのである。我々庶民はどちらに与するか。僕なら温羅の側に立つのだが、いかがなものだろうか。
(2018年2月2日)
注)
1 福田海 https://kotobank.jp/word/%E7%A6%8F%E7%94%B0%E6%B5%B7-1200918
参考)
1 福本明「吉備の弥生大首長墓・楯築弥生式墳丘墓」 シリーズ「遺跡を学ぶ」034 新泉社 2015年
2 竹林栄一「楯築神社」 谷川健一編『日本の神々−神社と聖地- 第二巻 山陽・四国』白水社 1984年
3 当ブログ 「吉備の巨石 古墳群と磐座 その1」真宮神社・岩倉神社
(https://ameblo.jp/zentayaima/entry-12495485880.html)