真宮神社:岡山県倉敷市西尾504

岩倉神社:岡山県倉敷市日畑203


倉敷市の東端、足守川沿いの丘陵地に、王墓の丘史跡公園と称する古墳群がある。周辺はきれいに区画整理された住宅地で、その東側半分に延べ面積6.5ヘクタールにもなる古代遺跡が拡がっている。弥生墳丘墓として最大級といわれる楯築遺跡や王墓山古墳で知られているが、ここに磐座が集中する場所がある。真宮(しんみや)神社と岩倉神社だ。


だが、これらを磐座といってよいかについては少し疑問が残る。磐座の定義は様々あり、学識者の間でも未だに決着をみていないようだ。とりあえず、磐座の定義をふたつ挙げておく。


「イワクラとは、縄文時代から古墳時代に形成された巨石遺構をさす。その時代時代の人間が何らかの意図を持ってその目的や役割に合致するよう磐を人工的に組み上げあるいは自然の磐そのものを活用したものと定義している。その中でも、特に神社のご神体となっているものを「磐座(いわくら)」「磐境(いわさか)」と呼んでいる。わざわざのカタカナ表記は共通名称としてイワクラ学会が提示していることである」出典:イワクラ学会ホームページ


「そこに神を招いて祭りをした岩石。その存在は聖域とされた。石神、磐境とともに石に対する信仰の一つ。祭儀が繰り返されることにより、その石自体も神聖な石として祭られるようにもなる。各地に広く信仰された形跡があり、祭礼に関係するものも多い。降臨石、腰掛石、影向石、神の足形石などさまざまな名で呼ばれ、大きさも形も各種各様である。縄文時代にも長野県尖石とか、東北地方の鮭石などは信仰の対象となっていたと思われるが、弥生時代の銅鐸埋納地以降、とくに古墳時代には岩石の側で祭祀を行った。鏡、玉、武器や土器などが放置されたまま今日に残されたものが数多く発見されている。(後略)」出典:神道事典


学究の徒にとってはテクニカルタームとして厳密さが必要なのだろうが、僕の場合はそんなことに殆ど関心がない。周辺を含めてその場の持つ空気に触れたいだけなのだ。そんな僕があえて磐座を分類するとすれば、「石そのものが神(石神)として信仰されている磐座」と「神が依り憑く媒体としての磐座」の二つなのだが、訪れた二社はいずれとも異なっていた。神そのものであるにせよ、媒体であるにせよ、通例、対象となる石は一つであり、複数の石の場合は一か所に固まっている筈だが、とにかくその数が多く、しかも神域のあちこちに散在しているのだ。

真宮神社は、楯築遺跡から南に1km弱下ったところにある。一帯は六十基を数える一大古墳群で、その外れに神社がある。鳥居をくぐり、長い石段を上った先。社殿よりも先に左手の磐座が目につく。二十個近くはある巨石が折り重なるようにして広がっている。一見すると磐座のようだが、実際には真宮古墳群6号墳という古墳だった。


案内板には「現存する王墓山古墳中最も長大な横穴式石室を有する。墳丘はすでに流出しているものの石室はほぼ完全な状態で残されている。南に開口する片袖式の石室の全長は11m、玄室長5.6m、同最大幅1.8mを測る。未調査のため墳丘規模および築造時期等については明らかではないが、径20数mほどの墳丘を有していた古墳で、六世紀後半頃に築造されたものと思われる」とある。問題はこの石積みだ。古墳全体が、巨石で覆われているように見える。同種の結構を有するもので巨大なものは奈良、明日香村の石舞台古墳が有名だが、盛り土が流れてしまった後、石室が剥き出しになり、さらに盗掘などもあって上部の巨石は散乱しているものと思われる。真宮神社に参拝し、丘陵をさらに北に進む。大池上古墳群、赤井西古墳群群、丘北端には一帯の盟主墳とされる王墓山古墳がある。墳丘のみで原型をとどめていないが、四阿には組立式の家型石棺が設置してあり、見学できる。








王墓山古墳の石棺


このほか神社東南には東谷古墳群が広がり、とにかく巨石だらけで好事家には堪らない場所だが、考えてみればここは古代の支配者層の巨大な墓地なのだ。ここに神社があるということ自体が、神々の源流に祖霊が横たわっているという証なのではないか。そして、僕たちが生きる21世紀においても、洋の東西を問わず、墓というモニュメントはそのほぼすべてが石で出来ているのである。なぜ石でなくてはならないのか。磐座、石神に関心を寄せるのであれば、このことを忘れてはならないだろう。


さて、真宮神社を出て南東に向かう。歩いても十分とかからないところに岩倉神社がある。畑の真ん中にこんもりとした森があり、中に巨大な磐座があるのだが、神域の外側も巨石だらけであり、”イワクラ”神社と称するに相応しい。


岩倉神社

鳥居をくぐり、社殿背後に足を踏み入れると、異空間に迷い込んだような錯覚を覚える。さまざまな形の巨石が微妙なバランスで座り、折り重なっていて、角度によって表情を変えるのでいくら眺めても飽きることがない。





そのありようは正に神の仕業だ。とは言え、ここは山の中や麓ではない。火山の噴火等によって自然に出来たものではないだろう。やはり人為的に構成されたものではないかと思うのである。だとすれば、気が遠くなるような労力を費やしてつくられたのだろう。誰が、何のために。そして、ここで如何なる祭祀が行われていたのか。

当社の由緒を記しておこう。

「本社は大稲船命を祭る才楽 瀬口 大手の産土神なり 吉備津彦命 吉備国へ下向の時 片岡の伊狭穂と言う人 稲を栗坂の里で刈り軍卒に命じて船に積み北に向かう 潮急にして進むこと能わず 船を廻して西の岬に泊まり 稲を積み上げて軍糧に献ず功に依り大稲船と賜う 潮の急なりし處を瀬口 稲を積みし處を稲倉と名付けた 後年泥砂流れ落ちて巉巖突峙す訛りて岩倉と言う 仁徳天皇の御宇勅して吉備津宮の五社七十二宇を創建し給う この時岬に一宇を建立す(後略)」

そうなのだ。古代吉備の海岸線は内陸部に深く入り込んでおり、足守川流域も北に40km近く入り込んだ海だったようだ。本稿で触れた王墓山古墳群も、岩倉神社も古代には海岸にほど近い場所にあったと考えてよいだろう。となると、この一帯を治めていたであろう古墳の被葬者層は海民であった可能性もある。伝説の上で鬼とされる古代吉備の支配者、温羅はこの地に渡来し、製鉄技術をもたらしたといわれる。吉備は出雲と並んで、巨石信仰の濃い地域だと勝手に思っているのだが、そのことは海民、渡来民との関係もあるのではないかと妄想したりする。浅学の僕にはとても手に負える代物ではないのだが、どこかに古代史や巨石信仰の解明に繋がるミッシングリンクが潜んでいるのではないだろうか。


吉備の巨石は極めて興味深い。今回はその1としたが、何度も訪れ、そして書くことになるだろう。なにしろご案内したいところがたくさんあるのだ。


(2019年2月2日)


出典

イワクラ学会ホームページ

http://iwakura.main.jp/

「神道事典 」國學院大学日本文化研究所編 弘文堂