高山稲荷神社:青森県つがる市牛潟町鷲野沢147-1
椎名林檎の「歌舞伎町の女王」のMVには千本鳥居が出てくる。新宿歌舞伎町のはずれにある花園神社。彼女は境内にある小さな千本鳥居の中でギターをかき鳴らしていた。歌詞にも楽曲にも1970年前後の空気が漂っていて、たとえるなら映画「女囚さそり」シリーズに描かれる世界を彷彿とさせた。この曲がヒットした当時、僕は新宿ゴールデン街に行きつけのバーがあって、よく花園神社の境内を通り抜けて店に通ったが、この曲に出会うまで千本鳥居など意識したことはなかった。この神社の境内には赤が似合う。唐十郎がここで紅テントを旗揚げしたこともあるからだろう。それは遠い記憶の中で時折顔を覗かせる、見世物小屋の風景でもあった。千本鳥居は異界への通路なのだ。
閑話休題。高山稲荷神社もまた千本鳥居で名高い。津軽平野の最北西、海沿いの丘にある。写真映えすることもあって津軽の観光名所のひとつだ。
大きな駐車場はほぼ埋まっていた。参拝者はカップル、家族連れ、女子旅の一行と老若男女幅広く、コロナ禍などどこ吹く風という様子で皆楽し気に歩いている。境内は広く、段丘を重ねた形になっている。まずは参道下の鳥居をくぐり、石段を上る。左手に手水舎と命婦社、そして本社の社殿。この他に人名を冠した三五郎稲荷、大島稲荷、千代稲荷、作丈一稲荷、よんこ稲荷、熊五郎稲荷、東側の奥には三王神社と摂末社が点在する。稲荷神は中世以降に京都伏見から日本各地に膨大な数の分霊がなされ、屋敷神などを含めれば三万社を優に超えるといわれる。ここにある祠の多くは、地元の篤信者が祖霊や氏神を祀ったか、巫者の霊夢や託宣によって建立されたものと思われる。
本社社殿
摂末社
右手奥に三王社。山王鳥居が見える。
これら社祠に特段見るべきものはないので、ひと回りして千本鳥居を見に行く。本社の社殿の前から分かれた道を上り、段丘の上まで来ると社叢が開け、庭園が見渡せる。正面に池、中の島には龍神が祀ってある。この龍神宮の先から神明宮へと続いているのが千本鳥居で、距離にして100mと少しあるだろうか。俯瞰すると龍の姿になっているのがわかる。
龍神宮
千本鳥居
神明宮
千本鳥居の終点は神明宮だ。そこには写真撮影のスポットが設えてあり、めいめい写真やら映像を撮っている。画像はSNSに投稿され、たくさんの「いいね!」がついて、さらに参拝者を呼ぶのだろう。ここは庭園とされ、龍神宮も神明宮も稲荷信仰とは異なる文脈で作られたものだ。一貫性のないヘンな庭園だが、津軽らしいといえば津軽らしい。当社の由緒を見てみよう。
当社の御創建の年代は詳らかではないが、鎌倉から室町にかけて此のあたりを統治していた豪族安藤氏の創建と伝えられる。江戸時代の古地図には、高山の地は三王(山王)坊山と記されており、当社の境内社である三王神社御創建の社伝には、山王坊日吉神社を中心に十三宗寺建ち並ぶ一大霊場があり、安藤氏の祈願所として栄えるも一四四三年(嘉吉三)[または、一四三二年(永享四)]頃に南部勢の焼き討ちにより焼失。この時、山王大神様が黄金の光を放って流れ星のように高山の聖地に降り鎮まれた、と伝えられる。稲荷神社創建の社伝には、江戸時代の元禄十四年(一七〇一年)播磨子に赤穂藩主浅野内匠頭長矩の江戸城中での刃傷事件による藩取り潰しの際、赤穂城内に祀っていた稲荷大神の御霊代を藩士の寺坂三五郎が奉戴し、流浪の果て津軽の弘前城下に萬し、その後鯵ヶ沢に移り住み「赤穂屋」と号し醸造業を営み栄える。その子孫がお島に移住するにあたり、この高山の霊地に祀れとのお告げにより遷し祀った、と伝えられる。これらを総合して考えると、元々は三王神社が祀られ、その後江戸時代に稲荷神社が創建され、江戸時代の稲荷信仰の隆盛とともに稲荷神社が繁栄し、元々の山王神社が後退したものと考えられる。(出典*1)
山王から稲荷へと祭神が上書きされているが、こうしたことはよくある話だ。東京の我が家近くの神社も平安時代までは春日神を祀っていたが、源頼朝が戦勝祈願に訪れたことをきっかけに八幡神に替わり、今は天照大神、菅原道真と一緒に小さな祠に相殿している。国つ神から天つ神へ替わるなど、政治的背景から祭神が替わることは歴史をみても明らかだ。記紀に名のみえる著名な祭神を祀っていても、社伝を紐解けばはじまりは地主神ということが儘ある。
津軽の民俗学者、森山泰太郎は車力村の村人からの伝聞としてこう記している。「高山稲荷の神使は三匹の狐で、黒狐は熊五郎稲荷といい、白狐はよく遠方に使者に出かけるという。昔からこの高山の付近には狐がたくさん住んでおり、ときおり村人に吉凶を予告してくれた。あすは浜が大量だとなると、狐が神社の鳥居にのぼって『コーン、コーン』と鳴く。これを聞くと村人は、コンコン泣きをしたからあすは大漁だと喜び合った。反対に、海の大シケや難船でもあると、『グワン、グワン』といかにも悲しげに鳴きまわり、村に変事が起こるときも、同じ鳴き声であわただしく走り回るという」。稲荷信仰は当社に限らず津軽の漁村一帯に広く分布しているらしい。同氏は当社の成立を「津軽の漁村の素朴な狐信仰が、日本海の七里長浜に連なる砂丘の高地を聖地として集約されたもの」としている。
当社は漁民の民俗信仰を起源としたためか、神社明細帳に記載のない無社格の神社だった。明治期には初代宮司を中心に社格獲得のための嘆願を五度にわたり行っている。その活動の一環として教派神道の一つである神習教の布教を行ったが、この地でオカミサンと呼ばれる民間巫者に修行させ、教導職免許を与えたとされる。お墨つきを得た彼らはメディアとなって布教に勤しみ、教勢の拡大に大いに貢献したという。ここもまた津軽の巫者、そして彼らを頼みとする人々にとって特別な場所なのである。
だが、千本鳥居を抜けてもシャーマニックな雰囲気は少しも感じられない。そろそろ戻ろうとした時、神明宮の裏手に見えたのは奇妙な光景だった。狐の石像がずらり整列し、その先に小祠や堂舎が無造作に立ち並ぶ。狐たちはいずれも赤か薄紫の前掛けをかけ、表情はいかめしいものから滑稽なものまでさまざまだ。よく見ると猫もいる。打ち棄てられたものではないと思うが、どこか寂寞とした感がするのは祀り手がいなくなったからだろうか。これらはかつて巫者や信者によって建てられたもので、当社のまわりに乱立していたものをここに移設したらしい。千本鳥居の果ての霊狐の住む異界は、そうした信仰の厚さを象徴しているように思えた。
当社が広く信仰を集めたのは前述の通り巫者を媒介としたためだが、その基底にあるものは祭神の神徳よりもこの地に昔からあった狐信仰だろう。稲荷(≒神使としての狐)を大切に祀らなければ家に不幸が及び、逆にちゃんと祀れば障礙は除かれ、願いも叶うという教えが信仰の中心だったのではないか。先祖および係累の墓に関わる同種の託宣に同じく、いわば災因論である。古来から狐は人に憑き、託宣を行っていた。また、修験や歩き巫女は子狐を飼い慣らして使っていたという話もある。巫術と狐の相性は抜群なのだ。そう考えると高山稲荷神社の創建は、狐ありきだったといってよいかもしれない。
話を振り出しに戻す。なぜ千本鳥居なのか。伏見稲荷大社を模したといえばそうかもしれない。だが、いかなるものをつくろうとも、宗教的設えである前に観光を意図せざるを得ないのだ。洋の東西を問わず、著名な聖地はほぼ観光地なのである。奇瑞でも巨大な構造物でもなんでもよいが、耳目を集める特段の何か(それが俗悪極まりないなものだとしても)がなければ人々は足を運ばず、それはやがて宗教施設の衰退につながっていく。千本鳥居は格好の設えだろう。因みに当社には氏子はいない。2021年5月30日の陸奥新報の記事によれば、この千本鳥居は老朽化により、建て替えるとのことだ。
(2020年8月24日)
出典
*1 高山稲荷神社ホームページ https://takayamainari.jp/
参考
森山泰太郎「高山稲荷神社」 日本の神々 神社と聖地第十二巻 東北・北海道 谷川健一編 白水社 1984年
村上昌「巫者のいる日常-津軽のカミサマから都心のスピリチュアルセラピストまで-」春風社 2017年
石塚尊俊「日本の憑きもの」未來社 1989年
櫻井徳太郎編「民間信仰辞典」東京堂出版 1980年
加藤敬「イタコとオシラサマ-東北異界巡礼-」学習研究社 2003年
近藤喜博「稲荷信仰」はなわ新書 2006年
中村陽監修「イチから知りたい日本の神さま2 稲荷大神」戒光祥出版 2009年