西の高野山 弘法寺:青森県つがる市木造吹原屏風山1-244


五所川原を過ぎると雨は小降りになり、西の空が明るくなりはじめた。東北道から津軽自動車道に入り、つがる市内を日本海に向けて横断する。目指すは十三湖の南にある屏風山だ。屛風山といっても山ではなく、海岸近くの砂丘地でメロンやスイカの産地である。一帯は池沼が多数点在する湿原でもあり、国内最大の風力発電所を構えている。水田の中に白い巨塔が林立し、ブレードがせわしなく回っている。そんな風景の中に弘法寺はある。

弘法寺の縁起はよくわからないが、最近リニューアルしたというホームページには開創、住職変遷として以下の記述がある。

・7代目住職の位牌 ~貞和4年(1348年)7月6日~

・海野円海氏(中興初代)円澄氏(二代目)

・白戸教道(三代目)

・白戸正徳(四代目・六代目)

・白戸裕道(五代目)

仮に一代二十年として七代遡れば開創は中世、鎌倉時代初めだ。文書等の記録は残っていないにしても古刹である。洪水等の天災で寺が消失した時期があり、明治時代に再興、高野山九十九寺と称していた。後、昭和27年に山号を「西の高野山」に変更したとの由。”東”の高野山ではないかと思うが、かつての地名が西津軽郡高野であったことや、西方の極楽浄土に擬えてこの山号にしたようだ。

本尊は弘法大師空海、本堂には不動明王、愛染明王、千手観音など諸仏が安置されている。また境内には地蔵、龍神、観音仏、稲荷、大黒天に恵比寿、タヌキにカエルと、さまざまな神仏が祀られている。こうした節操のなさにかつては呆れたものだが、このカオスは津軽はじめ青森の信仰の真骨頂ともいえるもので、慣れてしまうとむしろそのおおらかさが心地よくなってくる。

この地にはイタコやゴミソ…いまはカミサマと称する民間巫者が存在する。彼らの修業、或いは生業と関わりの深い聖地として、川倉賽の河原地蔵尊、赤倉霊場、高山稲荷神社、猿賀神社、久渡寺、そしてここ弘法寺などが知られ、多くは伝統宗教の枠組みでは説明しきれない固有の民間信仰を纏っており、その根底には少なからず救済が含まれている。弘法寺は冥婚と人形の奉納でよく知られており、ホームページには以下の案内がある。(出典*2)


ブライダル供養

幼いうちに、または未婚で亡くなった方のため、花嫁の人形を奉納して彼岸での幸せを願うという、独自の供養が津軽にはあります。花嫁人形供養、黄泉の祝言と呼ばれていました。弘法寺はその中心として、県内外からたくさんの花嫁人形が奉納されてきました。現在もおよそ900の花嫁人形が安置されております。現在では、花嫁人形のみでなく、ドールやフィギュアといったものも奉納されています。


ブライダル供養の手順

奉納される人形をご用意していただきます。(ご希望をうかがい、当寺でご用意もいたします)

ご来寺または郵送にて人形を奉納、供養堂にてご供養いたします。

基本15年間の供養安置料8万円+お焚き上げ供養料2万円 計10万円


さて、山門の脇を回り込み、駐車場とされた奥のスペースに車を停める。お盆の近い月曜日の夕方。曇天の下の境内には人影はない。山門まで戻り、本堂を参拝することにした。本堂の手前左手には修行する弘法大師の石像、寝姿のお休み大師、六地蔵、祠などが配置されている。雨あがりの風が樹々の間を吹き抜け、枝葉が音を立てると、こちらの心もざわつき、少々不気味さを覚える。





恐る恐る引き戸を開けて本堂の中へ。誰もいない。靴を脱ぎ、仏間にあがる。正面に不動明王。左右にもさまざまな仏像が安置されている。堂内いたるところ金色と原色が入り混ざっており、絢爛というより混沌に近いそのさまに、ねぶたを見るような”青森らしさ”を感じる。前の座卓にはおみくじ、お守り、お札、御朱印帳に奉納の金魚ねぶた灯籠まで、所狭しと授与品が並んでいる。正座して不動明王に合掌したあと、お札を頂くことにしてお代を三宝に納めた。なにせ人がいないのでこれでよいのか戸惑い、庫裡の方に幾度か声を掛ける。と、奥から「はーい」と女性の声。廊下をばたばたと走ってきた。どうやら住職の奥さまのようだ。

授与品のお代は三宝に納めればよいか確認し、本題の冥婚のことを尋ねてみた。

「こちらは若くして亡くなった方の冥婚の供養をされていらっしゃいますね。人形が奉納されていると伺っているんですが、拝見することは叶いますでしょうか」。彼女は少し躊躇いの色をみせながら、「はい。こちらに花嫁人形を奉納いただいてまして、本来供養される方だけしかお通ししていないんですが、、、」との由。が、ひと呼吸おいてから「、、、ご覧いただいても構いませんよ」と見学のお許しをいただいた。閉門が近い時間、他に参拝者がいないこともあったのだろう。感謝である。

仏間の脇の廊下を進み、右手に案内される。電気を点けるとそこは収蔵庫のようで、三段の木の棚にガラスケースに入った花嫁、花婿の人形が居並んでいた。「奥までありますからご自由にどうぞ」と促される。だが、気のせいか薄い靄がかかっているように見えて、なかなか足が前に進まない。ガラスケースには故人の氏名と住所が記された紙札、人形の後ろには梵字と真言が記された紙片が貼られ、額に入った故人の写真や好きだった飲料、趣味の遺品などが一緒に収められている。歩くと左右からこれら人形と写真の中の故人の視線が自分に注がれる。その数は夥しいもので900体もあるという。若くして亡くなった子らへの思慕が情念となって渦を巻いていて、一つひとつ見て歩くことなどとても出来るものではない。戦後まもなくと思われる古いのものもあって、それらは太平洋戦争で戦死した兵士のものだという。



(出典*1:供養される方々に配慮し、人形堂内の画像は弘法寺ホームページに拠った)


奥さまによれば、これら人形を奉納する習俗は、弘法寺のほか川倉賽の河原地蔵尊や恐山にあるが、昔から行われていたものではなく、戦後徐々に増えていき、近年は件数が減ってきたとのこと。日本人形も今ではあまり見なくなったが、海外では人気のようで最近また作られるようになったらしい。リカちゃん、バービーや、モンチッチなどのぬいぐるみも散見される。更新、無期限と書かれた札があったので、どのくらいの期間預かるのかと聞くと、15年は安置しておき、その後は収蔵庫が一杯になってしまうのでお焚き上げを行っているという。奉納者によって永代供養を望む場合もあり、無期で預かるようだ。


収蔵庫の向かいには天蓋幡(注*1)も多数下がっている。川倉の地蔵堂でも見たことがあったので、奉納に至る背景を聞くと、カミサマ(津軽の民間巫者、シャーマン)を通じて天蓋幡の奉納を指示されるとのことだった。

村上昌の「巫者のいる日常」には、カミサマEへのインタビューに基づく以下の記述がある。


天蓋幡


「先祖の供養が不十分であると生者の不幸の原因となる。先祖供養のためには、ホトケの位上げが必要であり、それは供養で有名な西の高野山弘法寺に天蓋幡を奉納することで達成される。また、その先祖を導くのは稲荷である」(中略)先祖の供養不足が不幸を招くという各地で広くみられる「一般的」な災因論に加えて、地域の神的発想群に根付いたもの(ホトケの位上げ)、社寺についてのローカルな知識・評価(供養で知られる西の高野山弘法寺)、地域での供養実践(天蓋幡の奉納)、Eに固有の神仏観(先祖を導く稲荷)、それらが結び付けられて天蓋幡の奉納という実践が形作られている。(出典*3)


せっかくなのでという好意からか再度住職の奥さまから促され、さらに収蔵庫の奥に入っていくことにした。部屋はいくつかに分かれ、まるで冥界に入り込んだかのようだ。行けども行けども人形を収めたガラスケースが続く。棚の側面には天蓋端が下がり、壁面には仏壇が備えられている。白色蛍光灯の青白く仄暗い光やそこはかとない黴臭さにどこか懐かしさを覚えながらも、父方の実家の旧い土蔵や屋根裏の中で、見てはいけないものを垣間見てしまったような、後ろ暗い気持ちにさせられる。空耳なのだが、頭の中で響いているのは専ら低く、唸るような読経の声だ。ここには期せぬ死と遺族の遣りきれない想いがひしめいている。足早に人形堂を巡ってから、隣の位牌や卒塔婆が並ぶ供養の仏間に座し、あらためて手を合わせた。


帰ろうとすると場を離れていた奥さんが戻ってきた。廊下でしばし立ち話。高尾山のロゴをあしらった紺のTシャツを着ていたので、いらしたことがあるのですかと水を向ける。「これ、いただきものなんですよ。一度は行ってみたいなと思ってるんですけどね、なかなか」。寺僧を抱えるわけでもなく、旅行も思うに任せないのだろう。「こちらに伺うときにSNSを拝見しました。ご住職は講演もなさっているようですね」。「あれ、私が担当なんです。ホームページはつい最近新しくして、フェイスブックとかもやってるんですけど、やり方がよくわからなくって。あまり更新できてないんです。お恥ずかしいのですが、ご覧になってください」。

奥さまはとても気さくで明るい方で、冥界から戻った僕は思わぬ救いを得たようでホッとした。こうした陰鬱になりがちな場も、彼女がいるからやっていけるのではないだろうか。井伏鱒二に風貌の似たご住職にもご挨拶をと思ったが、生憎ご不在とのことだった。「ここへは冬は来ない方がいいですよ。なにせ地吹雪がすごいので」。そろそろ閉門の五時だ。玄関であらためて拝観のお礼を申し上げて、辞すことにした。


弘法寺は檀家を持たない寺だ。墓も宗旨を問わず受け入れ、合葬や自然葬も手掛けている。こうした住職ご夫妻のような方々が当地の人々の信仰を支え、悩める人々を救済していると思うと、土地の人間でもないのになぜか深い安堵を覚えたのだった。


西の空はうっすらと紅く染まり、風力発電のブレードは生老病死の四苦を振り払うかのようにぐるぐると回っている。


(2021年8月9日)


(注)

*1 天蓋(幡)

  天蓋は、もとはインドの強い日射を避ける傘から起り、それが仏像の荘厳具となったもの。宝珠・宝網・瓔珞・幡などが付き、四角・六角・円形などの形がある。寺院の天井につるしたものや、僧の行道に用いる柄の長いものがある。(縮刷版 日本宗教事典 弘文堂 平成6年)


(出典)

*1、2【公式サイト】西の高野山弘法寺 https://nishinokouyasan.com/

*3 村上昌「巫者のいる日常 ー津軽のカミサマから都心のスピリチュアルセラピストまで」春風社 2017年


(参考)

【公式サイト】西の高野山弘法寺 https://nishinokouyasan.com/

金本 伊津子「津軽・下北地方における生者と死者の癒しのコミュニケーション : 死者の語りと冥婚 (1)」平安女学院大学研究年報 2001年

金本 伊津子「津軽・下北地方における生者と死者の癒しのコミュニケーション : 死者の語りと冥婚 (2)」平安女学院大学研究年報 2001年

池上良正「民俗宗教と救いー津軽・沖縄の民間巫者ー」 淡交社 1992年