加賀の潜戸:島根県松江市島根町加賀

加賀神社:島根県松江市島根町加賀1490


10時20分出航の船に客はいなかった。駐車場にも待合室にも、従業員を除く人影はまったく見当たらない。前泊した美保崎の旅館も同様で、宿泊客は当方のみだった。東京のほか大都市圏は新型コロナウィルス感染拡大による緊急事態宣言のただ中にあったが、羽田から出雲に向かう朝の機内にはそれなりに客もいたのだ。これでは観光業も飲食業もたまったものではない。一年半以上こんな状況が続いていて、デルタだのラムダだの新たな変異株が次々に登場し、いつか終息を迎えるとはいえ、まだ一年近くはかかりそうだ。いわゆる三密を避け、感染予防をしっかりしていればリスクを下げることは可能だと思うが、大勢の観光客が押し寄せればそうもいかない。世界遺産への登録が相次ぎ、大阪万博が行われても、かつてのインバウンドの狂騒は当面戻ってこないだろう。


出航するとまもなく観光遊覧船にお馴染みのアナウンスが流れた。まずは新潜戸に向かうという。加賀の潜戸には新旧あるが、いずれも極めて霊性の高い洞窟だ。ジオサイトのひとつだが、そこは出雲だけあって神話や信仰に彩られている。


船方は旧潜戸を右手に、途中小島や奇岩の由来を解説しながら進んでいく。岩場や小島にぽつぽつと太公望たちの姿が見える。さすがは事代主の地元だ。潜戸鼻の灯台あたりに駐車して十分ほど歩いて磯に下ればそこは絶好のポイントで、一級地磯だという。


船は新潜戸に寄っていく。舳先から真っ直ぐに入れるよう船体を整えながら近づいていく。小さな遊覧船だが船幅はぎりぎりで、左右いずれの舷も今にも岩に接触しそうだ。ゆっくりと洞窟の中に入る。





暗くてよく確認できないが天井はかなり高いようだ。入るほどに水路は広くなり、外から差し込む光で徐々に明るくなっていく。水は深く、蒼く澄んでいる。時折、洞窟の上から水が滴り落ちる。船方は洞窟に入る時にはこの水で禊ぐと説明してくれた。左手の上方に一瞬白い鳥居が見える。加賀神社の元宮だ。当社はキサカイ姫を祀る延喜式神名帳にも名のみえる古社で、現在は乗船場からほど近い澄水川沿いに鎮座している。往時ここに鳥居や祠があったかどうかはわからないが、かつてはこの洞窟自体が信仰の対象とされていたようだ。その伝承は出雲国風土記の島根郡の条に詳しく記されている。


加賀の神埼。ここに岩窟がある。高さ十丈(29.7m)ほど、周り五百二歩(893.6m)ほど。東と西と北とに貫通している。いわゆる佐太大神の生まれた所だ。ちょうど産まれようとするときに、弓矢がなくなった。そのとき御母である神魂命の御子の枳佐加比売命が、祈願なさったことには、「私の御子が、麻須羅神の御子でいらっしゃるならば、なくなった弓矢よ、出て来なさい」と祈願された。すると、角の弓矢が水のまにまに流れ出た。そのとき弓を手に取っておっしゃったことには、「これは、あの弓矢ではない」とおっしゃって投げ棄てられた。また金の弓矢が流れ出てきた。そこでそれを待ち受けてお取りになり、「暗い岩屋だこと」とおっしゃって、金の弓矢で岩壁を射通された。すなわち御母神、支佐加比売命の社がここに鎮座していらっしゃる。今の人は、この岩窟のあたりを通るときには、必ず大声を反響させて行く。もしこっそり行ったりすると、神が現れて突風がおこり、行く船は必ず転覆してしまう。(出典*1)


注釈しておくと、枳佐加比売命(支佐加比売命)の”キサカイ”は赤貝のことだ。貝は女性のシンボルであり、産屋に見立てられた洞窟はおそらく子宮を意味するのだろう。一方、麻須羅神の”マスラ”は益荒男(ますらお)のことで、雄々しく強い立派な男をさす一般名詞だ。この男神は「金」の弓矢でもあることから、太陽神且つ男根のメタファーだということはすでにお分かりだろう。つまり、神人交媾による生誕を意味する神話なのである。これは山城国風土記逸文にある賀茂別雷神社(上賀茂神社)の縁起、すなわち鴨川上流から流れてきた丹塗矢によって懐妊するくだりにも類似するし、ほかにも朝鮮半島の日光感精神話をはじめ、世界中に同類の誕生譚があると思われる。


船が止まり、舳先を少し右に向ける。東側に二つある右側の洞穴のはるか先には的島が見えるが、この島にも東西に穴が開いている。つまり、的島の東から潜戸の東西の洞穴を太陽の光が射貫くのである。これを見た古代人は驚愕し、”カカ”(”かが”やく)と声をあげたことから、加賀の地の名がついたという。自然のはたらきがもたらす偶然は、往々にして神々をつくりだすのだ。(このことを発見したのは民俗学者谷川健一だが、著書「古代史ノオト」の「シャコ貝幻想」には、加賀の潜戸について一節が割かれている。僕が訪れるきっかけになった論考だ)

洞窟を出ると船は潜戸鼻沿いに戻っていく。旧潜戸のぱっくりと縦に大きく口をあけた洞窟が見えてくる。釣人に同じくすれば陸からのアプローチも可能だろうが、決して行きやすい場所ではない。聖性の高い聖地の多くは、どこも行くのに困難を伴うのだ。旧潜戸も異界との境界、「賽の河原」なのである。


船着場に着く。「15分くらい時間をとるので、お参りして来てください」とのこと。ここから旧潜戸の洞窟まで隧道が続いている。船着き場の脇にも地蔵堂があったが、隧道に入ってみると両側に数メートルおきにニッチ(壁龕)がつくってあり、そこに地蔵菩薩が収まっている。同道した船方の一人が薬罐を下げてそれぞれに手際よく水を手向けていく。





左右あわせておよそ十体ばかりの地蔵に見送られながら隧道を出るとそこは正に異界だった。左手に潜戸の大きな裂け目。右手には積み石が累々と洞窟の奥まで続いている。恐山や津軽は川倉の地蔵堂と同じ匂いがする、広くはない洞窟空間の中に積み石が蝟集しており、亡き子を慈しむ母親のむせ返るような情念に圧されて、思わずたじろいでしまう。見渡すと数体の石地蔵が立っている。その脇に目を遣ると、奉納されてから半世紀以上は経っただろう布のランドセルが打ち棄てられ、朽ちていたりして、形容しがたい心持ちになる。それは冥界の淵を見た、あるいは亡き人を彼岸に見送った者が知る、あの底知れぬ寂寞感だ。洞窟の奥に目を凝らすと、ほとんど光が届かない漆黒の闇で、異界に通ずる道としか思えない。あの世に吸い込まれていくような感覚を覚えたのだった。




ラフカディオ・ハーンは「知られぬ日本の面影」に「子供たちの死霊の岩屋でー加賀の潜戸」というエッセイを残しているが、辺境の島国の怪談を好む彼らしく、この場が実によく活写されている。船頭の老婆に聞いたエピソードやハーンなりの解釈などここに引用したいところだが、訪れる前にこれを読んでおくことをお勧めする。趣がいや増すことは請け合う。





船方にお礼を言って下船する。旧潜戸の印象が強過ぎたのか、地続きではないからか、どうも足元が覚束ない。他人が見れば、いかにも異界から戻ってきてげっそりしているという態である。もとより霊感などある筈もなく、死後の世界は信じていないのだが、たくさんの子供の死霊を一緒に連れて来てしまったのではないかなどと変な空想をしてしまう。そうすると、本当におかっぱ頭の子供たちが僕の身の回りでにこにこと微笑んでいるような気がしはじめる。始末に悪いので、屋外の喫煙所で一服して気分を換え、加賀神社に車を走らせた。


加賀神社は海を望む河口近くにある。梅雨時とあって生憎の曇天だったが、夏の到来を予感させる潮風が心地よい。当地の人々の厚い奉斎を伺わせる社殿はまだ新しく、晴れ晴れとしていた。というのも、当社は伊勢神宮に同期して二十年に一度、式年遷宮を行うのである。社殿の建築様式も出雲には珍しい神明造だ。これはいったい何を意味しているのか。主祭神は、もちろん枳佐加比売命(潜戸大明神)なのだが、猿田彦命、天照大神、伊弉諾尊、伊弉冉尊が相殿とのことだ。



識者の間ではかねてから伊勢と出雲の関係が取沙汰されているが、ここでとりわけ注目されるのは海民が奉じた猿田彦、そして天照大神の前身であるアマテルだ。少し前の記事で、伊勢松坂の阿坂神社と猿田彦の話を取り上げたが、ここ出雲にも古代海民の南方の記憶が残っている。次は、佐太神社に残る南の痕跡を探りに行ってみようと思う。


(2021年6月12日)


出典

*1 萩原千鶴「出雲国風土記 全訳注」講談社学術文庫 2017年


参考

ラフカディオ・ハーン著 池田雅之訳「新編 日本の面影」角川ソフィア文庫 2020年

原宏「加賀神社」 谷川健一編『日本の神々−神社と聖地- 第七巻 山陰』白水社 1985年

谷川健一「シャコ貝幻想」『増補古代史ノオト』所収 大和書房 1986年