釣石神社:石巻市北上町十三浜字菖蒲田305

石峰山 石神社:宮城県石巻市雄勝町大浜 字石峰大久保山1


勤務先の復興支援活動の一環で初めて石巻を訪れた。復興支援と言っても、僕自身は大したことはやっていない。関与する人達と一緒に当地の食品会社二社にオンラインでインタビューし、課題を整理しただけだ。両社共に水産、農産の一次加工を主な生業としているが、被災から十年余、懸命に地歩を築きなおしてきた経緯は現地に赴くまで殆どリアリティがなかった。南浜に開館したばかりのみやぎ東日本大震災津波伝承館にも訪れてみたが、そこで触れた映像などの各種記録よりも、近くにある旧門脇小学校や多くの犠牲者を出した旧大川小学校の校舎の残骸に胸を痛くしたのだった。


北上川沿いを河口に向かって車を走らせる。途中「津波浸水区間ここまで」と記された標識があちこちに見える。周囲の景観から相当な高さにまで津波が押し寄せてきたことは体感としてわかるのだが、時速100kmともいう津波の迫りくるスピードを想像すると、恐怖以外のなにものでもない。しかも、地震発生後3分以内に津波警報が発出され、そこから30分前後で到達するのだ。


釣石神社は北上川河口、追波湾から1kmほどの山の上にある。付近は未だ護岸工事の最中で重機の動く音が喧しく、トラックの出入りも頻繁だ。河川敷の駐車場に車を停め、境内に入っていきなり目にするのが標高30m程度の小山の中腹からにゅっと顔を出す卵型の巨石だ。これを陽石として、麓の平たい巨石を陰に見立て、夫婦岩と呼ばれているらしい。




巨石愛好者の間では夙に有名な場所だが、度重なる地震でも落ちないことから近年では受験の神様とされているらしく、麓の陰石に巡らされた注連縄には合格祈願の絵馬がたくさんぶら下がっていた。


釣石神社由来

一 北上町十三浜追波鎮座

一 旧村社

一 祭神 天児屋根命

一 祭日 九月九日

一 由来

 本追波地区は元来「館ヶ崎」と称されていた。その奥地の国有林鷹ノ巣山のうち産土沢と称する山上に祀られ崇拝されていたが、時代の流れ行くまま便宜よく山間より北上川筋に移転したるを以て、古代人が元和四年(江戸時代初期)現在地に遷宮したと伝えられている。

 その当時、館ヶ崎は北上川海門口のため、藩祖伊達政宗公が当地方巡視された際、社側の丘に登って四方を調防止波の追い来たりをご覧になって、「追波」と改称したという。


  館先に登りて見れば朝日さし綾に寄せ来る追ひ波の浜


「境内地には大小四つあり、その一は長さ二丈五尺ばかり、横一丈二、三尺ばかり。その二は形は円く、周囲四丈六、七尺ばかり。その三は形は少し円くて長さ七尺ばかり、横六尺ばかり。その四は長さ五尺ばかり、横三尺ばかり、厚さ二尺五寸東西を囲みて地に入るはいささか少ない。あたかもこれを釣り揚げるが如し、上に大石ありてこれを蓋し、その形窟の如し、故に土人はこれを号して釣石大明神という」(後略)北上町観光協会


「 」内は「封内風土記」より引用とあったので原典にあたってみた。封内風土記は、仙台藩が江戸時代中頃に編纂した22巻の大部にわたる地誌で、釣石明神は巻之十四 本吉郡に記されている。総じて神社や寺に関する記述が多く、神石について触れた箇所も散見される。丹念に読んでいけば面白い発見があるかもしれない。

封内風土記(出典*1)


さて、左手の陽石を仰ぎ見ながら山頂の社殿に続く石段を上っていく。途中の石段に「津波浸水深ここまで」の青い標識。津波は陽石のすぐ下まで来ていたのだ。あるいはこの石も洗われたのかもしれない。5m近い波はさすがに想像ができない。ここから撮った写真には真新しい社務所が写っているが、一帯の平地にあったすべては、あの日に流されてしまったのである。





山の上の社殿はいかにも鄙にある鎮守の様子だったが、僕の頭の中は津波のことで一杯になっていた。それにしても「石」というものはすごい。あれほどの地震に揺らぎもせず、津波にも流されず、いまだ確かにそこに存在するのである。有史以来、度々地震や津波に悩まされ続けた当地の人々にとって、その存在は神として祀るに相応しいモニュメントだったのではないか。


釣石神社を後にする。北上川を戻り、橋を渡って雄勝半島に向かう。目指すは石峰山石神社だ。延喜式神名帳に列する古社で、山頂の巨石を御神体とし、山麓には里宮として葉山神社が坐す。


葉山神社


石(いその)神社、葉山神社由緒及び沿革

 石峰山、石(いその)神社は石峰山山頂(352m)の大岩を御神体とし、樹齢六百年の大杉の古木が数本ある。往古は石峰権現社と称し、仁寿二年(852)国より従五位下を贈ったと、三代実録(文徳実録)に記されている。前面の社は、葉山神社で石峰権現社の別当寺として祭られた薬師堂で、鎌倉末期の創祀とと伝えている。祭られている薬師如来像は運慶の作と伝えられ、随神十二神将は室町時代の作である。本殿には、寛文(1661)の板書誓文や元禄十二年(1699)及び宝暦年間(1751~1763)の絵馬がある。代々の伊達藩主が参詣され、境内には二代忠宗公手植と伝える「ひいらぎ」の古木二株があったが、一株は昭和55年十二月の暴風雨の際、石峰山頂の杉の古木二本と共に倒れた。(雄勝町教育委員会)


以上は社頭の案内板に記されている由緒だが、封内風土記では修験者が別当を務め、神事を行っているとされており、登山口に立つ石碑にも延徳二年(1490年)に羽黒修験が開山したとある。この山全体が神域であり、修験の行場だったのだろう。

封内風土記(出典*2)


軽登山だが麓の里宮、葉山神社で無事を祈る。登山口からの道は一本道でわかりやすい。途中に標識もあり、迷うことはないだろう。ただ、低山だからと早いペースで登っていくと、傾斜がどんどん急になり、息を切らすことになる。特に中腹の分岐からがきつい。また、僕は左コースから登っていったが、下山は頂上を回り込んで右コースで下ろうとすると道がわからなくなる。僕は元の道を戻った。ご注意を。


分岐からしばらく登ると左手に巨石が見えてくる。古びた案内板には「御神馬の足跡石」とあり、「石峰様が白馬に乗って此の山に登った時、この岩の上を通った時残した足跡といわれる。長い歳月に風化して今はその跡を止めるのみになっている」とあった。脇に275の数字を記した石板。あと77mだ。

御神馬の足跡石


だが、ここからの登りの勾配はさらにきつくなる。汗だくになりながら九十九折りを右へ左へ行くと、ようやく赤い鳥居がちらちらと見えてきた。





御神体と対面する。高さ7m幅3mというが、もっと大きそうでかなりの威圧感がある。これは磐座、つまり神の依代ではない。これ自体が神なのだろう。長くこうした巨石に接していると石にも表情があることがわかってくるが、ここ石峰山の御神体は岩肌がごつごつとした厳めしい表情をしており、修験の山に相応しい威容を誇っている。一方、その姿かたちは頭が尖っていて、中程にかけて少し膨らみ、下部にかけてすぼんでおり、なんだかイカを思わせて愛らしくもある。こうした石の様子を見ていると、現代美術に接しているように感じるのは僕だけだろうか。


上りは山頂まで40分かかったが、下りは早い。御神馬石のところに若い女性ハイカーが二人。挨拶を交わしてトレイルランニングさながら一気に駆け降りていく。登山口までは25分で戻った。


さて、石巻の二つの巨石信仰を見てきたが、どちらも(あの大地震にも)「揺るがなかった」と形容されている。天変地異が起き、悠久の時を経ても、まったく変わらない石の頑なさ、確かさはきっと信ずるに余りあるものなのだろう。


ところで、神社本庁による調査では陸奥国の延喜式内社約100社の内、社殿に被害が及んだのは近世以降に遷座された二社のみだったという。河北新報のコラム、河北春秋にはこんなコラムがある。


「仙台市若林区にあるわが家の近くに浪分神社という小さなお宮がある。数え切れないほど前を通っているのにここが発する警告を真摯に受け止めてこなかった。痛恨の思いでいる。869(貞観11)年に東北を襲った巨大地震「貞観地震」の際、ここまで大津波が押し寄せたと伝わる。これより海側は津波の危険地帯―子孫にそう伝えようと、先人が神社を建てたに違いない」(後略 出典*3)


石に寄せる信仰は、日本、いや世界各地にある。私淑してやまない五来重の「石の宗教」、野本寛一氏の「石の信仰」など、石についての著作も数多くある。いったい僕たちは石に何を見て、石に何を投影しているのだろうか。


(2021年6月25日)


(補遺)

海に面した石神社一ノ鳥居の脇には祖王神社という小祠がある。着いた時に気になっていたのだが、脇の案内板には以下のように記されている。美しい伝承で、天日槍伝承のバリエーションのようにも思える。渡来系移住民の足跡は日本海西側に多く伝えられるが、ここにも及んでいたのだ。


神亀年中に一艘の船が牡鹿郡の出島近海に漂流して来た。牡鹿郡王浦浜より漁に出ていた彦右ェ門という者がこれを見つけて漕ぎ寄せて見ると弱り切った一人の若者が乗っていた。彦右ェ門は、その船を引いて王浦浜の宮郷浜という地に船を着けその若者を上陸させた。聞いてみると、その若者は朝鮮国の王子で、七歳の時に父親である王の枕を越えた科によって流された事が分かった。王子は村人に胡網という網を作り漁をする方法を教え村人の生活を豊かにして王さま、王さまと敬われながら年月を経て晩年になり、旧桃生郡王浜の台に移り住み、網漁の行法を伝え祖神として崇められた。現在の大浜の地名は、往古「王の住んだ所の意」が由来であることが、風土記書上により知られているが、王さまを埋葬した時に王の頭が大浜を向き王の足が尾浦を向いており王の字は畏いいうので「大浜」と「尾浦」に改めたという。葉山神社の境内前方に御墓所があり、平成二十年に此の地に御分霊社が建立され御鎮座された。平成20年旧四月八日 葉山神社社務所


出典

*1 田辺希文「封内風土記 巻之十四 本吉郡」国立国会図書館デジタルコレクション

*2 田辺希文「封内風土記 巻之十二 桃生郡」国立国会図書館デジタルコレクション

*3 河北新報 2011年4月3日


参考

*岡田光正「『地霊』の黒い影 災害の黙示録」彰国社 2015年