鰐淵寺:島根県出雲市別所町148

 

出雲は神々の国だと思っている方も多いと思うが、実は古刹がかなりある。鰐淵寺はその中でも創建の古い寺のひとつで、さまざまな歴史に彩られており、国の重文指定の観音菩薩像や銅鐘など寺宝も数多い。また、境内のイロハモミジの新緑、紅葉で知られ、その静謐な美しさには惚れ惚れするものがある。

 

まずは、門前の案内板を写しておこう。

 

開山 智春上人推古二年(五九四年)

本尊 千手観音菩薩 薬師如来

 

 推古二年(594年)智春上人が推古天皇の眼疾を浮浪滝に祈って平癒されたので、その報寶として建立された勅願寺である。天竺(印度)霊鷲山(りょうしゅせん)の艮(うしとら)地が欠けて浪に流されて来た土地で浮浪山と称す。上人密法を修し給う折、誤って碗(まり)の仏器を滝壷に落とされたとき、鰐肴が鰓にかけ浮かび上がったことにより寺号を生じる。

 伝教大師が比叡山に天台宗を開かれると、慈覚大師の薦めもあり、日本で最初の延暦寺の末寺となる。又、早くより出雲大社との関係を密にし、別当寺ともなった。

 元弘二年(1333年)後醍醐天皇が隠岐遷幸の折、長吏頼源が国分寺御所に伺候して、ご宸筆の願文(重要文化財)を賜った。永禄年間には和田坊栄芸が毛利元就の尼子攻めに助力したため、天正五年孫の輝元はこの栄芸の功労を愛で本堂を再建した。

 又、弁慶は十八歳で当山に入り、三年間修業の後書写山から比叡山に登ったと伝えられており、その伝説や遺品にも事欠かない。一方、23,635坪の山内は自然に恵まれ、春は緑の香にむせび、秋は深紅になる「いろは紅葉」が全山を覆う。

 

広い駐車場に車を置き、川沿いに参道を登っていく。しばらく行くと仁王門があり、その先右手の橋を渡ろうとしていると、住職と思しき方から声が掛かった。きょう最初の参拝客のようだ。入り口で拝観料500円を納め、長い石段を登っていく。







根本堂は室町期の建立だけあって、洗練の中に重厚さを感じさせる堂容だ。右手には弁慶が伯耆国の大山寺から一夜で運んだとの伝説が残る銅鐘、そして釈迦堂がある。だが、僕の再訪の目的は他にあった。摩多羅神社だ。

根本堂の左、三台杉と称する杉の巨木の向こう側には摩多羅神社の常行堂、これに続く本殿がある。一間社流造の比較的大きな造作なのだが、拝殿の扉はぴたりと閉ざされ、参拝者を拒んでいるかのようにも見える。根本堂とは対照的な佇まいで神仏の違いを感じさせるが、出雲の神社とも明らかに様相を異にしている。一般に摩多羅神は後戸(注*1)の神として知られるが、根本堂の後戸は狭く、居住まいが悪いのでこちらに祀ったのではないか、などと空想してみる。

 

 

摩多羅神についてもう少し説明しておこう

 

摩多羅神:天台宗で常行堂の守護神、および玄旨帰命壇の本尊としてまつる神。円仁が唐から帰朝した時にこの神が空中から呼びかけたといい、源信も念仏の守護神して勧請したという。京都太秦広隆寺の牛祭はこの神をまつったものである。(日本宗教事典)

 

摩多羅神は記紀神話には登場しない、いってみれば異神だ。新羅明神や赤山明神との類似、共通性が指摘され、さまざまな変容が見られる。川村湊氏は「闇の摩多羅神」の中で、①天台・真言の念仏堂の「後戸」の守護神、②猿楽能の集団の始祖神としての秦河勝と胴体の職能神(翁面)、③玄旨帰命壇の本尊、東照宮の東照三権現の一柱、と四分類に大別しているが、元は護法神として祀られていたのだろう。日光の輪王寺が所蔵する掛軸の絵がよく知られているので見てみよう。その姿は、唐様の烏帽子に和様の狩衣姿、口元に笑みを浮かべた初老と思しき男神である。左手に小鼓を持ち、右手を開いて叩こうとしている。その前で童子が二人、左右それぞれ笹と茗荷を持ち、微笑しながら足拍子を踏んでいる。このあたりは猿楽能との関連を思わせる。そして彼らの頭上には七つの星、北斗七星が瞬いているのだ。実に奇妙で、見る側を小馬鹿にしているようにも見える像容だ。

摩多羅神二童子像 日光山輪王寺蔵

この神を祀る寺社は数多く、広隆寺の牛祭り、毛越寺の二十日夜祭なども知られるが、その来歴や正体に一貫性はなく、これほど不可解な神もいない。ご関心のある方は、前掲書や山本ヒロ子氏の「異神」を読まれるとよい。性の秘儀で知られる邪教、真言立川流との共通点など、めくるめく物語が待っている。

 

本題に戻ろう。鰐淵寺は延暦寺の末寺であったので、ここに摩多羅神が祀られていても不思議はない。境内の三台杉は慈覚大師円仁が当寺を訪れた時に植えたとのいわれがあり(「台」は台密(=天台密教)の台と思われる)、これに隣接して摩多羅神社が建っているのだ。一般に神社は参拝時間には拝殿の扉を開けてあるものだが、ぴたりと閉じられているということは秘神に違いない。入口に戻り、住職に尋ねてみた。

 

「神様は本来そのお姿を曝すものではないんですね。三本の杉がありますね。あの杉とも関係があるのですが、(摩多羅神を)お祀りした時にいらした方は別として、私をはじめ歴代の住職もあの扉を開けたことがない。お姿を見た人は誰もおりません。その昔、このあたりの寺はどこも摩多羅神を祀っていたそうですが、今ではそのことをご存じの寺はないと思います。詳しいことは私も不勉強でわかりませんが、山本ヒロ子さんという学者の方が研究しておられて、本もあります。また、ここは出雲大社との関係が深く、あの神社も出雲大社の近くに祀られていたんだそうです。ここにお参りされる方々の願いを聞き届けるのは仏様ですが、その仏様をお守りするために神様がいらっしゃるんですね」

 

概ねこんな趣旨のことをお話しいただいた。僕が摩多羅神の神像を写真で見たことがあり、俗臭芬々とした姿だったことをお話しすると、住職はやおらご興味を持たれた。クラウドに保存した画像を探すも、生憎当地では電波が入らず、残念ながらお目にかけることは出来なかった。それにしても、八百万の神々が集う地でまさかこのような話を聞くとはさすがに思いもよらず、こちらも新たな好奇心の種を拾ってしまったのだった。住職に合掌して摩多羅神社の話の御礼を申し上げ、浮浪の滝への道を聞く。

 

再訪のもう一つの目的は、開山の縁起にもある浮浪の滝だった。前回は韓竈神社を訪れたついでに寄ったので時間に余裕がなく、やむなく諦めたのだ。鰐淵寺川伝いに歩いていく。片道十分程度のトレッキングとのことだったが、雨の上がった後で、足下はよくない。川を渡って苔生した石段を上り、山王七佛堂なる石碑が立つ妙ちきりんな建造物の左手から、山裾を回り込むように歩みを進める。しばらく行くと東屋があり、その先に足を踏み入れて、おぉーっと唸った。


見上げた先には巨巌に食い込む懸造りの堂舎、金剛蔵王堂がある。上から水が滴り落ちているが、滝というほどのものではない。だが、ここは紛れもない修験の聖地だ。いま懸造の堂があるところに入り込み、ここで行を修していたのだろう。傍に苔生した観音の石仏が二体。しばし、佇む。

 

鰐淵寺は平安末期から中世にかけて三つの寺基が統合されて成立したという。現在鰐淵寺のある別所は地名の通り、延暦寺を本寺とする”別所”であり、叡山の息のかかった修験の聖地として存在した。また、稲佐の浜近くで千手観音を本尊とし、後に唐川に移転したとされる北院。そして、別所の南西部にあった薬師如来を本尊とする南院。これら三つの寺基がそれぞれの信仰をもとに寺勢を争っていたのだろう。そうした歴史はともあれ、鰐淵寺はやはりこの地にあってこそと思うのは、浮浪の滝という聖地があるからだ。エルサレムに例をとるまでもなく、場の持つ力は強固な信仰の礎として揺るぎないものであり、円仁にせよ、弁慶にせよ、数多の伝承はこの蔵王窟なしにはあり得なかったと思われる。

 

島根県立古代出雲歴史博物館には、慶長期の出雲大社境内を復元したジオラマがある。これを見ると社殿前の右手に三重塔や大日堂、梵鐘などが建っていたことが伺える。出雲大社ですら永らく神仏習合であったのである。この三重塔、実は兵庫県養父市の名草神社に現存し、僕も見たことがあるのだが、いったいどういう経緯なのか調べてみた。引用しておこう。

大永7年(1527)に尼子経久が、出雲杵築大社に三重塔を建立したものだが、寛文年中(1661-1673)、杵築大社の神仏分離により、杵築大社から帝釈寺(日光院)へ譲渡され、石原山帝釈寺に移築される。その後、時代は降り明治の初頭、いわゆる神仏判然令による神仏分離の処置で、妙見社本殿を本堂とし妙見大菩薩を本尊とする帝釈寺は廃寺、現地に残る帝釈寺妙見本殿・同拝殿・三重塔は、延喜式にはその名を見るも、その後は茫として消息の知れない「延喜式内名草神社」とされ、復古神道・国家神道によって収奪されたのである。つまり、現在の「名草神社」は帝釈寺妙見・三重塔を収奪し、明治国家や後に国家神道に変貌する復古神道によって「明治期に附会・捏造」された「名草神社」なのであり、そのため、現在も妙見三重塔は「 明治官立名草神社」にいわば「 収奪されたまま」となっていると云えるのである。(出典*1)

 

妙見三重塔(名草神社)

出雲の神仏習合は、探ればまだまだおもしろいことがいっぱいありそうだ。

 

(2021年6月11日、2017年9月9日)

 

*1 後戸(うしろど) 

仏堂の背後の入口のこと。この入口は本尊の背後にあることから宗教的な意味をもち,後戸を入った正面に本尊の護法神やより根源的な社神仏を安置する。(後略) 世界大百科事典 第2版平凡

 

出典

*1 但馬妙見三重塔・出雲杵築大社三重塔 「がらくた」置場 by S_Minaga

http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/iti_tajima_myoken.htm

 

参考

平野芳英「古代出雲を歩く」岩波新書 2016年

川村湊「闇の摩多羅神」河出書房新社 2018年

小田雄三「後戸と神仏-中世寺院における空間と人間-」岩田書院 2011年